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第41話

青い月の光が、風月の鐘亭の小さな部屋へ静かに差し込んでいた。


 窓枠を越えた淡い光は、床の木目を薄く照らし、ベッドの端にかかった布の皺を、やわらかな青でなぞっている。


 琥珀は、布団の中で小さく身じろぎした。


 眠りは深くなかった。


 耳の奥に、まだどこか遠い響きが残っているような気がして、琥珀はゆっくりとまぶたを開けた。


 部屋は静かだった。


 青い月明かりの中で、隣にいる人の輪郭がぼんやりと見える。


 ラファお姉ちゃんが、そこにいた。


 琥珀の手を、そっと握ったまま。


 強く握っているわけではない。離さないように縛っているのでもない。ただ、ここにいると伝えるみたいに、温かい指が琥珀の手に添えられていた。


 琥珀は、その手を見つめた。


 それから、ラファお姉ちゃんの寝顔を見る。


 いつも琥珀を見て、記録して、支えてくれるラファお姉ちゃんが、今は少しだけ静かに眠っていた。


「……いた」


 琥珀は、起こさないくらいの小さな声でつぶやいた。


 胸の奥に残っていたかすかなざわめきが、少しだけほどける。


 琥珀は、手を握られたまま、猫のようにそっとラファお姉ちゃんへ寄り添った。


 肩が触れる。


 布団の中のぬくもりが重なる。


 ラファお姉ちゃんの髪が、青い月の光を受けて淡く揺れているように見えた。


「……ラファお姉ちゃん、あったかい」


 琥珀は小さく笑って、もう一度目を閉じた。


 手の温度を確かめたまま、ゆっくりと眠りの底へ落ちていく。


 まぶたの裏に、青い光が広がった。


 それは、昼間の光ではなかった。


 白くきらめく結晶でもなかった。


 青く、静かで、遠くまで沈んでいくようでいて、どこかでふわりと浮かび上がるような光だった。


 足元は見えない。


 けれど、怖くはなかった。


 手のひらに、現実のぬくもりが残っていたから。


 青い光の奥で、ページが一枚、風にめくられるように揺れた。


 白い紙片のようなものが、ふわり、ふわりと舞う。


 その向こうに、二人の影が立っていた。


 若い男の人と、その隣に寄り添うように立つ、やさしい気配。


 顔ははっきりしない。


 声も聞こえない。


 けれど、二人は琥珀を見て、微笑んでいるようだった。


 琥珀の胸の奥に、小さな光が灯る。


 それは、急かすものではなかった。


 命じるものでもなかった。


 ただ、もう一度つながっていくものを、遠くから見守っているような、そんなまなざしだった。


「……うん」


 琥珀は、夢の中で頷いた。


「まだ、途中だけど……ちゃんと、つなぐね」


 空のずっと高いところで、何か大きな影が一瞬だけよぎった。


 船の底のようにも見えた。


 雲の影のようにも見えた。


 琥珀が見上げるより早く、その影は青い光の向こうへ溶けていった。


「……今の、なあに?」


 答えはなかった。


 代わりに、足元の光が少しだけ変わった。


 青い月明かりの中に、やわらかな白い花びらのようなものが浮かぶ。


 そこに、小さな女の子がいた。


 肩をすくめるようにして、こちらを見ている。


 顔を隠したいのに、琥珀のことは気になって仕方がない。そんなふうに、半歩だけ後ろへ下がって、でも完全には逃げなかった。


「……大丈夫。今日は、急がないよ」


 琥珀はしゃがみ込むようにして、目線を合わせた。


 女の子の周りにあった光が、少しだけ丸くなる。


 その奥で、冷たい石の色が見えた。


 琥珀は顔を上げる。


 青い光の向こうに、別の子がいた。


 膝を抱えているようにも、立ち上がろうとしているようにも見える。


 輪郭はまだ曖昧だった。


 顔も、声も、はっきりしない。


 けれど、その子の周りには、山肌の冷たさと、土の重さと、まだほどけきらない影が残っていた。


 琥珀は、そっと眉を寄せた。


「……寒かったね」


 その子は答えない。


 ただ、青い光の中で、肩を小さく縮めたように見えた。


 琥珀はゆっくりと手を伸ばし、慰めるように、その子の頭をそっと撫でた。


 夢の中だから、本当に触れられたのかは分からない。


 けれど、その子の周りにあった冷たい気配が、ほんの少しだけやわらいだ気がした。


「今はまだ、そばに寄り添えないけど……」


 琥珀は、小さく言った。


「でも、忘れてないよ」


 曖昧だったその子の輪郭が、青い光の中でほんの少しだけ揺れた。


 顔はまだ、はっきりとは見えない。


 けれど、琥珀には分かった。


 その子が、くすっと笑ったのだと。


 冷たい山肌の気配が、ふわりとほどける。


 その子は何も言わないまま、青い月明かりの奥へ、静かに薄れていった。


 青い光が、また揺れる。


 今度は、少し暗い場所だった。


 熱の名残がある。


 風が細く通る。


 その奥に、ひとりの子が立っていた。


 近づいてほしいようで、近づかれたくないような子。


 こちらを見ているのに、すぐ目をそらしてしまうような子。


 その子の足元には、小さな赤い光が寄り添っていた。


 赤い玉。


 まだ生まれたばかりの、試作ちゃん。


 琥珀は、立ち止まった。


 その子のところへ駆け寄ることはしなかった。


 でも、背中を向けることもしなかった。


「ひとりにはしないよ」


 青い光の中で、孤独な子の輪郭がかすかに震える。


 琥珀は、自分の手のひらを見る。


 そこには、夢の中なのに、ラファお姉ちゃんの手の温かさがあった。


 赤い玉の試作ちゃんが、ぽう、と小さく灯った気がした。


 熱は強くない。


 焼くものではない。


 ただ、誰かの隣にいることを覚え始めたような、そんな小さな温かさだった。


「赤い玉ちゃんも、いるんだね」


 琥珀が微笑むと、青い光と赤い光が、ほんの少しだけ重なった。


 けれど、形にはならない。


 何かを作る光ではない。


 何かを起こす光でもない。


 ただ、夢の中で、そこにいると分かるだけだった。


 次の瞬間、琥珀の足元がふわりと軽くなった。


 青い光がほどけて、水のようなやわらかさに変わる。


 冷たくない。


 深くもない。


 ふわりと、包まれる。


 琥珀の背中に、大きな手が添えられた。


 その手は、女の人のようにも、大人の人のようにも、風車そのもののようにも感じられた。


 とても温かかった。


「……あったかい」


 琥珀は、その手に身を預けた。


 怖さも、焦りも、遠くへ流れていく。


 青い月の光の中で、夢の景色が少しずつ薄れていく。


「……だれ、かな」


 返事はない。


 けれど、その手は琥珀を落とさなかった。


 抱きしめるというより、帰る場所を教えてくれるように、そっと支えてくれていた。


 琥珀は目を閉じた。


 遠くで、低い声がした。


 誰かが笑っている。


 扉の向こうで、朝の気配が少しずつ動き始めている。


 手のひらには、まだラファお姉ちゃんの温かさがあった。


「……うん。戻るね」


 青い月の夢は、そこで静かにほどけた。


 低い声が、扉の向こうから聞こえてきた。


 誰かが笑う声。


 椅子を引く音。


 食器が小さく触れ合う音。


 朝の風月の鐘亭は、もうゆっくりと動き始めていた。


「……ん……」


 琥珀は、布団の中で小さく身じろぎした。


 まぶたを開ける。


 窓から入る光は、もう青い月のものではなかった。夜の色は薄れ、部屋の中には朝のやわらかな明るさが広がっている。


 けれど、琥珀の頭の中には、まだ少しだけ夢の余韻が残っていた。


「……ぽへぇ……」


 声になったのか、息が漏れただけなのか、自分でもよく分からなかった。


 琥珀は、目を擦る。


 それから、大きなあくびをした。


「ふぁ……」


 頬にかかっていた髪が、ふわりと揺れる。


 まだ身体は布団のぬくもりを覚えていて、心もどこか、ゆめうつつのままだった。


 ふと、隣を見る。


 ラファお姉ちゃんが、まだ眠っていた。


 琥珀の手を握ったまま、静かな寝息を立てている。


 いつも琥珀より先に気づいて、琥珀より先に動いて、琥珀のことを見ていてくれるラファお姉ちゃん。


 その横顔が、今日は少しだけ幼く見えた。


 琥珀は、くすっと笑った。


「……寝てる」


 起こさないように、そっと身体を起こす。


 それでも、手は繋がったままだった。


 琥珀は空いている手を伸ばし、ラファお姉ちゃんの髪に触れる。


 青い光の名残はもうない。


 けれど、朝の光を受けた髪は、やわらかく、静かに揺れていた。


 琥珀は、そっと頭を撫でた。


「いつも、ありがとう」


 小さな声だった。


 誰かに聞かせるためではなく、眠っているラファお姉ちゃんにだけ届けばいいくらいの声。


 すると、ラファお姉ちゃんのまつげが、かすかに震えた。


 ゆっくりと、目が開く。


 ラファお姉ちゃんは、しばらく琥珀を見つめていた。


 それから、やわらかく微笑んだ。


「おはようございます、琥珀ちゃん」


「おはよう、ラファお姉ちゃん」


 琥珀も微笑む。


 けれど、すぐには手を離さなかった。


 むしろ、まだ少し眠たそうな顔のまま、ラファお姉ちゃんの方へ身体を寄せる。


「……もうちょっとだけ」


 そう言って、琥珀はラファお姉ちゃんの腕に額を預けた。


 ラファお姉ちゃんは一瞬だけ目を丸くする。


 けれど、すぐに表情をやわらげ、琥珀の髪をそっと撫でた。


「はい。もう少しだけです」


「ん……」


 琥珀は、猫が日向を見つけた時のように、小さく肩の力を抜いた。


 ラファお姉ちゃんの手は、やっぱり温かかった。


 その温かさを確かめてから、琥珀はようやく顔を上げる。


 ラファお姉ちゃんは、握っていた手に視線を落とした。


 そして、少しだけ恥ずかしそうに瞬きをする。


「……眠っていましたか?」


「うん。寝てた」


「すみません。確認を続けるつもりでしたが……」


「いいの。ラファお姉ちゃん、あったかかったから」


 琥珀がそう言うと、ラファお姉ちゃんは一度だけ目を丸くした。


 それから、困ったように、けれど嬉しそうに微笑んだ。


「それなら、よかったです」


 その時、階下からまた声が聞こえた。


 グランの低い声だ。


 言葉までははっきりしない。けれど、どこか楽しそうで、いつもの落ち着いた響きがある。


 続いて、マーレの笑い声。


 ロクスの短い返事。


 ベルグの少しぶっきらぼうな声。


 琥珀は、ぼんやりした顔のまま扉の方を見た。


「……みんな、起きてる」


「はい。朝ですから」


「朝……」


 琥珀はもう一度目を擦った。


「まだ、ちょっと夢の中みたい」


「無理に急がなくて大丈夫です」


「うん。でも、行く」


 琥珀は布団から出ようとして、足を床につけた。


 少し冷たくて、肩がぴくりと揺れる。


 ラファお姉ちゃんはすぐに起き上がり、琥珀の髪に手を伸ばした。


「琥珀ちゃん、髪が少し跳ねています」


「えっ」


 琥珀が慌てて頭を触ると、横の髪が少しだけぴょこんと立っていた。


 ラファお姉ちゃんは、指先でそっと整える。


「これで大丈夫です」


「ありがとう」


 けれど、琥珀の目元はまだ眠そうだった。


 ラファお姉ちゃんはそれを見て、少しだけ笑う。


「まだ、ぽへぇとしていますね」


「ぽへぇってしてる」


 琥珀は自分で言って、くすっと笑った。


 二人は部屋を出た。


 階段を下りるたびに、朝の香りが近づいてくる。


 焼いたパンの香り。


 温かいスープの香り。


 木の床に差し込む光。


 人の声。


 夢の中とは違う、しっかりとした現実の朝だった。


 階段の最後の一段を下りたところで、マーレが振り向いた。


 すぐに、にやりと笑う。


「おはよう、寝坊助さん」


 その声に、ロクスも振り向いた。


 口元がゆるんでいる。


「よく眠れたみたいだな」


 ベルグは椅子に腰かけたまま、湯気の立つ器を手にしていた。


「顔がまだ半分寝とるぞ」


 グランは立ち上がりかけていた大きな身体を少しだけ止め、琥珀を見て、穏やかに笑った。


「おはよう、琥珀。顔色は昨日よりいいな」


 琥珀は、みんなの顔を順番に見る。


 マーレの呆れたような笑顔。


 ロクスの楽しそうな目。


 ベルグの少し意地悪そうな口元。


 グランの低くてあたたかな声。


 そして、隣にいるラファお姉ちゃん。


 琥珀は、まだ少しだけゆめうつつのまま、ぺこりと頭を下げた。


「……おはよう、ございます」


 少し遅れて、また大きなあくびが出そうになる。


 琥珀は慌てて口元を押さえた。


「ふぁ……っ、んん」


 それを見て、マーレが肩を揺らして笑う。


「ほら、まず顔を洗ってきな。夢の中のまま朝飯を食べるんじゃないよ」


「はぁい……」


「返事は?」


「はいっ」


 琥珀の返事に、周りから小さく笑いがこぼれた。


 ラファお姉ちゃんは、琥珀の隣で静かに微笑んでいる。


 琥珀は、洗い場へ向かいながら、胸の奥に残る温かさにそっと触れた。


 はっきりとは覚えていない。


 けれど、とても温かい夢を見た気がした。


 それだけで、今朝の光は少しだけ、いつもよりやわらかく見えた。


 顔を洗って戻ると、琥珀の目は少しだけはっきりしていた。


 それでも、まだ頬には眠気の名残がある。


 マーレはそんな琥珀を見て、温かい器を机の上へ置いた。


「まず食べな。話はそれからだよ」


「はい」


 琥珀は両手で器を持った。


 湯気と一緒に、野菜とパンのやさしい香りが上がってくる。


 隣ではラファお姉ちゃんが、琥珀の様子をそっと見ていた。


 琥珀はスープをひと口飲んで、ほっと息をついた。


「……あったかい」


「そうだろう。朝はまず、腹に温かいものを入れるんだよ」


 マーレはそう言って、琥珀の前に小さく切ったパンを置いた。


 ロクスは椅子の背に片腕をかけ、いつものように軽く笑っている。


 ベルグは湯気の立つ器を手にしたまま、琥珀の顔をじっと見た。


「顔色は悪くないの」


「うん。大丈夫」


「大丈夫と言う顔にしては、まだ半分寝とるがな」


「ぽへぇは、ちょっと残ってる」


 琥珀が真面目にそう言うと、ロクスが小さく吹き出した。


「自分で言うんだな、それ」


「ラファお姉ちゃんにも言われた」


「事実でしたので」


 ラファお姉ちゃんが静かに答えると、マーレが肩を揺らして笑った。


 その笑いが落ち着いたところで、ベルグは器を机へ置いた。


「さて、今日は休みじゃ」


 琥珀はパンを持ったまま、目を瞬かせた。


「休み?」


「そうじゃ」


 ベルグは短く頷く。


「お前さんだけではない。わしも、マーレも、ロクスも、ラファも、今日は前に出ん」


「えっ、ベルグじいも?」


「わしもじゃ」


 琥珀は思わずラファお姉ちゃんを見た。


 ラファお姉ちゃんも少しだけ驚いたように、ベルグを見ている。


「ですが、風車の作業は……」


「止まっとらん」


 ベルグは、当たり前のように言った。


「鍛冶場作りは職人どもが動かしとる。石材と力仕事は、グランが残してくれた若い衆が回す。修復のほうも、木札がある。ひょろりとした職人と、あの女性ドワーフ職人に任せてある」


「……任せてある」


「そうじゃ。任せてある」


 ベルグは琥珀を見る。


 その目は厳しくはなかった。


 けれど、甘くもなかった。


「何でも自分で見に行けばええわけではない。何でも自分で確かめればええわけでもない。任せられる形を作って、任せる。それも仕事じゃ」


 琥珀は、パンを持った手を少しだけ下げた。


「休むのも……仕事?」


「そうじゃ」


 ベルグは、そこで少し鼻を鳴らした。


「倒れてから休むのは、仕事とは言わん。倒れる前に休むところまで、段取りに入れる。そこまでやって、仕事じゃ」


 マーレが、うんうんと頷く。


「働くなら食べる。動くなら休む。疲れたら座る。それを忘れたら、いい仕事なんてできないよ」


「道も同じだな」


 ロクスが椅子の背から身体を起こす。


「人が詰まりすぎたら、どんな道でも危ない。前に出るやつがいれば、下がるやつもいる。今日は俺たちが下がる日だ」


 琥珀は、机の上に置かれた器を見つめた。


 風車の中へ行かなくても。


 感知しなくても。


 自分が前に出なくても。


 現場は、動いている。


 そのことが、少し不思議で、少し安心できた。


「……わたしが行かなくても、進んでるんだね」


 ラファお姉ちゃんが、琥珀の隣でやわらかく微笑む。


「はい。琥珀ちゃんが戻って、渡したものがありますから」


 琥珀は、少しだけ目を丸くした。


 けれどすぐに、小さく頷いた。


「そっか」


 その時、グランが席を立った。


 大きな身体が動くと、椅子がわずかに軋む。


 けれど、その動きはゆっくりで、乱暴なところはなかった。


「そろそろ村へ戻る」


 琥珀は顔を上げた。


「もう?」


「ああ。若い衆は残してある。石の置き場も、動かし方も伝えてある。困ったことがあれば、村へ知らせが来るようにもしてある」


 グランは、琥珀とラファお姉ちゃんを見る。


「だから、今日はちゃんと休め」


「……はい」


「ラファも、見張りすぎて倒れないようにな」


 ラファお姉ちゃんは少し姿勢を正した。


「はい。気をつけます」


 グランはロクスへ目を向ける。


「ロクス、道のことは頼んだ」


「任せてくれ」


 次に、マーレを見る。


「マーレさん。若いのが無茶をしたら、遠慮なく叱ってやってくれ」


「言われなくても叱るよ。飯を抜いて動こうとしたら、首根っこを掴んで座らせるからね」


 グランは低く笑った。


「それなら安心だ」


 最後に、ベルグへ視線を向ける。


 二人は短く目を合わせる。


 長い言葉はなかった。


 けれど、それだけで十分だった。


「任せた」


「任された」


 グランは大きな荷を肩にかける。


 琥珀たちは、風月の鐘亭の外まで見送りに出た。


 朝の光が、通りの石畳を明るく照らしている。


 風は少し冷たいが、昨日の夜とは違う。


 人の声があり、荷車の音があり、遠くから職人たちの声も聞こえてくる。


 風車の方へ向かう若い衆が、グランに気づいて手を振った。


 グランは片手を上げて応える。


「琥珀」


「はい」


「少しずつでいい。大人になるってのは、何でも一人で背負うことじゃない」


 琥珀は、グランを見上げた。


「休むことも、任せることも、誰かに頼ることも覚えていけばいい」


 その言葉は、低くて、温かかった。


「……うん」


 グランは満足そうに笑う。


 そして、ラファお姉ちゃんにも穏やかな視線を向けた。


「この子を頼む。ただし、ラファも休める時は休め」


「はい」


 ラファお姉ちゃんが静かに答えると、グランは頷いた。


「じゃあ、行ってくる」


「行ってらっしゃい!」


 琥珀が手を振る。


 ラファお姉ちゃんも隣で小さく頭を下げた。


 マーレは腰に手を当て、ロクスは片手を軽く上げる。


 ベルグは腕を組んだまま、いつものように少しだけ顎を上げた。


 グランの背中は大きかった。


 けれど、その背中が遠ざかっても、空っぽになった感じはしなかった。


 人手も、石も、道も、言葉も。


 ちゃんと残していってくれたからだ。


 グランの姿が通りの向こうへ小さくなったところで、琥珀はそっと息を吐いた。


「行っちゃったね」


「戻る場所があるからな」


 ロクスはそう言って、なぜか少し楽しそうに笑った。


 琥珀は首をかしげる。


「ロクス?」


「いや、なんでもない」


 その横で、ベルグもまた、口元をゆるめていた。


 マーレはそれを見て、少し呆れたようにため息をつく。


「まったく。休みだって言ったばかりなのにねぇ」


「休みじゃよ」


 ベルグは、にやりと笑った。


「じゃが、わしらが休みだからこそ、できることもある」


 琥珀の頭に、疑問符がひとつ浮かんだ。


 隣でラファお姉ちゃんも、静かに瞬きをする。


「できること、ですか?」


「そうじゃ」


 ベルグは琥珀を見る。


「琥珀。ちと手伝え」


「……手伝い?」


「はい。休み、なのですよね?」


 琥珀とラファお姉ちゃんの頭の上に、見えない疑問符がいくつも並ぶ。


 ロクスは、それを見て我慢できないように口元を押さえていた。


 マーレは、呆れながらも笑っている。


「行っておいで。どうせ、この二人は最初からそのつもりだったんだろうから」


「マーレさんも知ってるの?」


「少しだけね」


「えぇ……?」


 ベルグは満足そうに鼻を鳴らした。


「仕事場には行かん。風車にも入らん。じゃが、見ておくもんがある」


「見るもの……?」


「ついてくれば分かる」


 そう言って、ベルグは歩き出した。


 ロクスはにやにやしたまま、その後に続く。


 マーレも肩をすくめて歩き出した。


 琥珀とラファお姉ちゃんは、顔を見合わせる。


 やっぱり、よく分からない。


 けれど、皆の笑顔は楽しそうだった。


「……行ってみる?」


「はい。ですが、無理はしない約束です」


「うん。休みだもんね」


 二人は並んで歩き出した。


 休みの日。


 けれど、その休みは、ただ何もしない日ではなかった。


 次に見るものへ向かうための、静かな一歩が始まっていた。


 ベルグについて歩き出すと、風月の鐘亭の前にあった朝の賑わいが、少しずつ後ろへ遠ざかっていった。


 通りには、もう職人たちの声が混じっている。


 荷を運ぶ若い衆が、石材を置く場所を確認しながら歩いていく。遠くからは、風車の方へ向かう足音と、金具が触れ合う小さな音も聞こえた。


 けれど、ベルグはそちらへ向かわなかった。


 風車の方ではなく、街の奥へ。


 琥珀は、ラファお姉ちゃんと並んで歩きながら首をかしげた。


「ベルグじい、風車じゃないの?」


「今日は休みじゃと言うたろう」


「でも、手伝えって言ったよ?」


「手伝いにも色々ある」


 ベルグは振り返らずに言う。


 その背中は、どこか楽しそうだった。


 ロクスはその隣で、まだ口元をゆるめている。


 マーレは後ろから歩きながら、小さくため息をついた。


「まったく。こういう顔をしてる時のベルグは、だいたい何か隠してるんだよ」


「隠してはおらん」


「言ってないだけ、だろう?」


「それを隠しとると言うなら、まあ、そうじゃな」


「開き直ったねぇ」


 琥珀は、ベルグとマーレのやり取りを見て、ますます分からなくなった。


 隣のラファお姉ちゃんも、少し考えるように瞬きをしている。


 歩いていくうちに、道の景色が少しずつ見慣れたものへ変わっていく。


 大通りの広さが細くなり、石畳の隙間に小さな草が見え始める。壁には古い工具の跡のような傷があり、角を曲がると、何度か通ったことのある坂が現れた。


 琥珀は、足元を見ながら小さく頷いた。


「……やっぱり、こっちだ」


「ベルグさんの工房へ向かっていますね」


 ラファお姉ちゃんも周囲を見回す。


「ただ、今日は風車の作業ではないはずですが」


「だから、見ておくもんがあると言うたろう」


 ベルグはそこで振り返り、にやりと笑った。


「着いたぞ」


 そこには、使い込まれた木の扉があった。


 扉の横には、手入れされた金具がいくつも打ち付けられている。壁の一部には煤が染みていて、窓の端には、細い鉄片や小さな歯車のようなものが吊るされていた。


 ベルグ工房。


 琥珀にとって、もう見知らぬ場所ではなかった。


 けれど、休みの日に来る工房は、いつもより少し静かに見えた。


「今日は、音が少ないね」


「火を入れとらんからの」


 ベルグは扉に手をかける。


「それでも、工房は工房じゃ。勝手に寝とるわけではない」


 扉が開くと、工房の中から、乾いた木と金属の香りがふわりと流れてきた。


 古い油の香り。


 火を使った跡の香り。


 長い時間、何かを作り続けてきた場所の香り。


 工房の中は、古びていた。


 けれど、雑ではなかった。


 工具は壁に並び、使う順や大きさごとに掛けられている。歯車や金具は棚ごとに分けられ、小さな部品は箱の中で種類別に収まっていた。図面は丸められ、紐で束ねられ、試作品は作業台の奥や横棚に、用途ごとに整えられている。


 使われる日を待つものたちが、乱雑に転がっているのではない。


 それぞれの置き場で、静かに出番を待っていた。


 琥珀は、その整った工房を見回した。


「休みの日の工房って、少し違って見えるね」


「動いとらんからじゃろう」


「でも、ちゃんと息してる感じがする」


 ベルグは一瞬だけ黙った。


 それから、鼻を鳴らす。


「悪くない言い方じゃ」


 マーレは入口近くで腕を組み、棚の様子を見て頷いた。


「相変わらず、物は多いのに片付いてるねぇ」


「当たり前じゃ。どこに何があるか分からん工房など、仕事場とは呼べん」


 ロクスは壁に掛けられた車輪用の金具を見て、少しだけ目を細めた。


 琥珀はその横顔を見た。


 ロクスは、やっぱり何かを知っている顔をしている。


「ロクス、やっぱり知ってるでしょ」


「少しな」


「また少しって言った」


 ロクスは笑うだけだった。


 ラファお姉ちゃんは、棚に並ぶ試作を見つめていた。


「未完成のものも、用途ごとに分けられているのですね」


「未完成で止まったものもあれば、役目を待っとるものもある」


 ベルグは作業台の奥へ向かった。


「失敗で終わるものもある。じゃが、全部が無駄になるわけではない。形が合わんかっただけで、考え方は残ることもあるからの」


 その言葉を聞いて、琥珀は小さな赤い光のことを思い出しかけた。


 けれど、口には出さなかった。


 今日は、夢の中のことを説明する日ではない気がした。


 ベルグは迷うことなく、棚の一角へ向かった。


 そこには、本や束ねられた図面が整えて置かれている。


 ベルグはその中から、一冊の本を取り出した。


 古い本だった。


 表紙の端は擦れ、革紐で軽く留められている。ライブラリーで見た本よりも、手に取られてきた時間の重さがあった。


 ラファお姉ちゃんが、その本に気づいて少しだけ目を開く。


「その本は……」


「お前さん達がライブラリーから持ってきたものじゃ」


 ベルグは作業台の上を軽く確かめると、本を置いた。


「前に見ただろう。若い頃のわしが描かれとる、あの本じゃ」


「若い頃のベルグじい」


 琥珀は少し身を乗り出した。


 ベルグは不満そうに眉を寄せる。


「そこに食いつくでない」


「だって、気になるもん」


「気にする場所はそこではない」


 ロクスが横で笑いをこらえている。


 マーレは作業台に片手を置き、呆れたように笑った。


「若い頃の絵を見られるのが照れくさいなら、最初から出さなきゃいいのに」


「必要だから出しとるだけじゃ」


 ベルグは少し乱暴に見えて、実際には丁寧な手つきで本を開いた。


 ページがめくられる。


 そこには、若い頃のベルグらしき姿が描かれていた。


 今より少し背筋が伸び、今より少し目つきが鋭く、けれど手元には今と同じように道具を持っている。


 琥珀は思わず口元を押さえた。


「……若い」


「言わんでええ」


「でも、ベルグじいだ」


 ベルグは返事の代わりに、さらにページをめくった。


「今日見せたいのは、こっちじゃ」


 次のページに、地図があった。


 線は古く、ところどころに描き足された跡がある。山の形、川の流れ、道の曲がり方。正確な測量図というより、誰かが何度も歩き、見て、記憶を重ねながら描いた地図だった。


 琥珀は、地図を覗き込む。


「地図……?」


「ああ」


 ベルグは、指先で地図の一角を示した。


「このあたりが、お前さんらが最初に降り立った丘じゃろう」


 琥珀は、その場所をじっと見る。


 丘の印。


 その近くに、小さく風車のような印が描かれている。


「水瓶座の風車があったところ……」


「わしは、その日を覚えとる」


 ベルグの声が、少しだけ低くなる。


「空から光が落ちたと聞いた。流れ星が丘に落ちた、と言う者もおった。じゃから、わしはそこを星降る丘と呼んどる」


「星降る丘……」


 琥珀はその言葉を小さく繰り返した。


 ロクスが地図を覗き込み、別の角度からその場所を見る。


「俺は、明るく照らされた場所って覚えてる。遠くからでも、あの辺りだけ空気が違って見えた」


 マーレは懐かしそうに目を細める。


「昔話なら、時のお星様が落ちた場所、なんて言い方もあるねぇ」


「時のお星様……」


 同じ場所なのに、呼び方が違う。


 琥珀は地図と三人の顔を交互に見た。


「名前、ひとつじゃないんだね」


「この辺りでは、場所に決まった名前がないことも多いからの」


 ベルグは地図の上に指を置いたまま言う。


「誰が何を見たか。誰が何を覚えとるか。それで呼び方が変わる」


 ラファお姉ちゃんは、少し考えるように地図を見つめていた。


「名称が、統一されていません」


「そうじゃ」


「ですが……どれも、間違いではないのですね」


 ベルグは満足そうに頷いた。


「場所の名前なんぞ、人によって違ってええ。大事なのは、そこに何があって、誰が何を見たかじゃ」


 琥珀は、地図の上の丘をもう一度見る。


「じゃあ、わたしたちが見た名前も、残していいの?」


「もちろんじゃ」


 ベルグの指が、丘から下へ動いた。


「そこから丘を降りた。しばらく歩いた先に、小さな村があったはずじゃ」


「うん」


 琥珀は頷く。


「そこに、牡羊座の紋章の風車があった」


 ベルグの指が、地図の上をさらに進む。


「次に向かったのは、グランたちの村じゃな」


「グランさんたちの家があって、リノちゃんもいて……」


 ベルグの指が、地図の上を少し外へ動く。


「その外の山肌に近い炭鉱地」


 琥珀は、そこを見つめて小さく頷いた。


「あそこに、山羊座の風車があった」


 夢の中で見た、まだ本調子ではない子の姿が、胸の奥を少しだけかすめる。


 けれど、今は口にしなかった。


 琥珀は、地図の線を目で追った。


「それから、グランさんたちの村を出て、しばらく歩いたんだよね」


 琥珀の指が、村から続く線をそっとなぞる。


「少しずつ道が広くなって、街道に出て……」


 そこで、琥珀はふと思い出したように目を細めた。


 それから、ベルグとロクスを交互に見る。


「その街道で、ベルグじいとロクスに会ったんだよね」


 ロクスの肩が、わずかに揺れた。


 ベルグも、ほんの少しだけ視線を横へ逃がす。


 琥珀は、その反応を見て、にやりと笑った。


「ここに名前をつけるなら……暴走! 出会いは突然に!」


「待て、琥珀」


「やめんか」


「だって、あの時の『どけー!』、本当に怖かったんだよ?」


 琥珀は口元を押さえながら笑った。


 ロクスは片手で顔を覆い、ベルグはわざとらしく咳払いをする。


「その時俺はしがみついていただけだー!」


 ロクスが、悲壮感たっぷりに叫んだ。


「不可抗力だー!」


 琥珀は、ラファお姉ちゃんの隣でくすくす笑った。


 ラファお姉ちゃんは真面目な顔で、静かに頷く。


「当時の状況は、危険度が高かったと記録しています」


「ラファまで!?」


 その横で、マーレの笑顔がぴたりと止まった。


「……ん?」


 工房の空気が、少しだけ変わった。


 マーレは、ゆっくりとベルグとロクスを見る。


「その話は、聞いてないねぇ?」


 ベルグとロクスの背筋が、同時に伸びた。


「いや、あれはじゃな」


「ちょっとした行き違いで」


「どけー、って言ったの?」


「……言った、かもしれん」


「言ってた」


「琥珀!」


「怖かったけど、今ならちょっと面白い」


 マーレはにっこり笑った。


 けれど、その笑顔は少しだけ怖かった。


「あとで詳しく聞こうかねぇ」


「さて、地図じゃ!」


 ベルグは勢いよく地図を指で叩いた。


「今は地図の話じゃ。大事なのは、ここから先じゃ」


「話をそらした」


「そらしとらん。進めとるだけじゃ」


 ロクスも慌てたように地図を覗き込む。


「そうだな。ここから先が大事だ。街道の先の話だ」


「ロクスもそらした」


「そらしてない。道の話に戻しただけだ」


 マーレは呆れたように息を吐いたが、口元は笑っていた。


「まったく。あとで聞くからね」


 ベルグとロクスは、そろって小さくうなずいた。


 笑いが少し落ち着いたところで、ベルグは地図の線を先へ進めた。


 街道の線は、この街の近くまでは太く描かれている。


 けれど、その先は少しずつ細くなり、途中で途切れている場所もあった。


「街道は、どこまでも整っとるわけではない」


 ベルグは、地図の端を指で叩く。


「荷車が通れる場所もある。歩きやすい場所もある。じゃが、まだ工事が行き届いておらん先もある」


 ラファお姉ちゃんの視線が、地図の先へ向いた。


 そこは、太い道が細くなり、やがて曖昧に途切れている場所だった。


「街道が……止まっています」


「そうじゃ」


「その先に、ラファお姉ちゃんが行きたい場所があるの?」


 ベルグは、ラファお姉ちゃんを見る。


「前に、行きたい場所があると言うとったな」


 ラファお姉ちゃんは一瞬だけ黙った。


 それから、小さく頷く。


「はい」


 琥珀は、地図とラファお姉ちゃんを交互に見た。


「ラファお姉ちゃんが、行きたい場所……」


 ラファお姉ちゃんは、地図の先を見つめていた。


 その瞳には、少しだけ遠くを見る色があった。


「……はい」


 ベルグはそこで、ロクスへ視線を向けた。


「ロクス」


「分かってる」


 ロクスは、最初から待っていたように答えた。


 それから、地図へ近づき、街道が途切れた先を見る。


「風車の上から見た」


 ロクスの声が、少しだけ静かになる。


「あの先に、風が抜ける斜面がある。足場の悪いところもある。荷を持って歩くなら、かなりきつい。二人だけで行かせる道じゃない」


 琥珀は目を丸くした。


「ロクス、そんなに見てたの?」


「道を見るのは俺の役目だからな」


 ロクスは当たり前のように言う。


「行きたい場所があるなら、行ける道を探す。歩けないなら、運ぶ。危ないなら、先に見る」


 そして、ロクスは少しだけ口元を上げた。


「俺の脚なら、話は別だ」


 ラファお姉ちゃんは、少し驚いたようにロクスを見た。


「ロクス……」


「道が細くても、足場が悪くても、見て進める。風の抜ける場所も、風車の上から見た。あの先へ行くなら、俺の役目だ」


 その言葉は、軽く聞こえるのに、どこか頼もしかった。


 琥珀の胸が、少しだけ温かくなる。


 ベルグは、そんなロクスを見て、またにやりと笑った。


「ほれ見ろ。話が早い」


「……ベルグじい、もしかして」


 琥珀がゆっくりとベルグを見る。


 ベルグは何も答えない。


 ただ、にやりと笑うだけだった。


 ロクスも、隣で口元を押さえている。


 マーレは、とうとう呆れたように笑った。


「ほらね。最初からそのつもりだったんだよ、この二人は」


「えぇ……?」


「まだ、何か隠していますね」


「隠してはおらん」


「言っていないだけですね」


 ラファお姉ちゃんが静かに言うと、ベルグは満足そうに鼻を鳴らした。


「ラファも分かってきたのう」


 作業台の上には、古い地図が広がっている。


 そこには、琥珀たちが歩いてきた道があり、これから見たい場所へ続く道があった。


 けれど、その道はまだ、足だけで進むには頼りなかった。


 ベルグの目が、工房の棚に整えられた試作たちへ向く。


 ロクスの目も、同じ方向を見ていた。


 小さな歯車。


 金具。


 車輪の一部。


 用途ごとに分けられ、使われる日を待っているような、いくつもの形。


 ベルグはゆっくりと腕を組んだ。


「さて」


 その一言に、ロクスの耳がぴくりと動いたように見えた。


 琥珀とラファお姉ちゃんは、同時に首をかしげる。


 ベルグは、作業台を軽く叩いた。


「では、発表じゃ」


 琥珀はごくりと息をのんだ。


 ラファお姉ちゃんも、静かにベルグを見つめる。


 ベルグは、にやりと笑った。


「ロクスの新しい馬力車を作るぞ!」


 一瞬、工房の空気が止まった。


 次の瞬間、ロクスが両手を上げた。


「ついに! ついにこの時が来たーーーーー!」


 その声は、工房の棚に並んだ金具まで震わせそうな勢いだった。


 琥珀は思わず耳を押さえる。


「ロクス、声大きい!」


「悪い! でもこれは大きくなるだろ!」


 ロクスは興奮したまま、作業台の周りを一歩、二歩と歩いた。


「新しい馬力車だぞ? 俺の新しい相棒だぞ? そりゃ叫ぶだろ!」


 ラファお姉ちゃんは、少し目を丸くしていた。


「新しい馬力車……」


「そうじゃ」


 ベルグは、棚に整えられた試作たちを見た。


「前の馬力車は、もう前の馬力車ではない。あやつはあやつで、今の役目を得た」


 その言葉に、ロクスの表情が少しだけ静かになる。


 琥珀も、地図から顔を上げた。


 前の馬力車。


 ロクスの自慢の愛車だったもの。


 ベルグの試作を組み付けられ、ロクスを守るために応えてくれたもの。


 今は、風車の地下で守る子になっている。


 琥珀は、胸の奥が少しだけ温かく、少しだけきゅっとした。


「前の子は……今も、守ってるんだよね」


「ああ」


 ロクスは短く頷いた。


「俺の相棒だった。でも、今はあいつの役目がある。無理に連れ戻す気はない」


 声は明るい。


 けれど、その奥にはちゃんと、前の相棒への想いがあった。


 ベルグも、少しだけ目を伏せた。


「以前の馬力車には、申し訳ないことをしたからのう」


「ベルグじい……」


「わしがいろいろ組み付けた。必要だったとはいえ、無茶もさせた」


 ベルグは、自分の手を見る。


 その手は、何度も作り、何度も直してきた職人の手だった。


「じゃが、あれで分かった。あやつは、ロクスのことを気にかけられるやつだった。最後まで、ロクスを守ろうとした」


 ロクスは黙っていた。


 けれど、口元は少しだけ緩んでいた。


 ベルグは顔を上げる。


「なら、新しい馬力車にも、作り手と使い手の気持ちが宿るかもしれん。今度は最初から、ロクスのために作る」


 琥珀は、作業台の向こうに並ぶ車輪の部品を見た。


「最初から……ロクスのために」


「そうじゃ」


 ベルグは力強く頷いた。


「道を見る者のための馬力車。荷を運ぶだけではなく、琥珀とラファを乗せ、これから先の道へ向かうための足じゃ」


 ラファお姉ちゃんの表情が、少しだけ揺れた。


「私たちも、乗るのですか?」


「乗る」


 ロクスは即答した。


「女の子二人だけであの先へ行かせる気はないって言っただろ。なら、俺が運ぶ。俺の脚と、新しい相棒でな」


 その声があまりにもまっすぐだったから、琥珀は少し照れたように笑った。


「ロクス、かっこいいこと言ってる」


「茶化すなよ」


「茶化してないよ。ちょっとだけ」


「ちょっとは茶化してるじゃないか」


 マーレが肩を揺らして笑った。


「いいじゃないか。兄貴分らしくなってきたねぇ」


「兄貴分?」


「違うのかい?」


 ロクスは一瞬言葉に詰まった。


 琥珀は、にこっと笑う。


「頼りにしてるよ、ロクス」


 ロクスは、顔を少し横へ向けた。


「……任せとけ」


 その耳が、少しだけ赤くなっているように見えた。


 ラファお姉ちゃんは、そんな二人を見て、静かに微笑む。


「では、新しい馬力車は、移動補助だけでなく、今後の安全確保の役割も持つのですね」


「そうじゃ」


「乗員は琥珀ちゃん、私。操縦と牽引はロクス。設計と製作はベルグさん。補助として、必要に応じて工房の試作を使用する……という認識でよろしいでしょうか」


 ベルグは、満足そうに頷いた。


「ラファは話が早いのう」


「記録しました」


 琥珀はそこで、ふと手を上げた。


「質問」


「なんじゃ」


「また、スーツみたいにするの?」


 工房の空気が、ぴたりと止まった。


 ロクスの顔から、さっきまでの喜びが少しずつ消えていく。


 ベルグは、ゆっくりと琥珀を見た。


 それから、にやりと笑う。


「今回は、スーツにはせんよ……」


「その間は何!?」


 ロクスが叫んだ。


「今、最後に何か含みがあっただろ!」


「気のせいじゃ」


「絶対気のせいじゃない!」


 琥珀は口元を押さえて笑っている。


 ラファお姉ちゃんは、真面目な顔でベルグを見た。


「スーツ化しない、という記録でよろしいですか?」


「予定ではな」


「予定では!?」


 ロクスがさらに叫んだ。


「やめろ! 魔改造だけはやめてくれーーー!」


「誰が魔改造じゃ」


「前科があるだろ!」


「あれは必要な改造じゃ」


「必要だったとしても、見た目の圧が強すぎたんだよ!」


 マーレは腹を抱えるほどではないが、かなり楽しそうに笑っていた。


「いいじゃないか。今度は最初から相談しながら作るんだろう?」


「その通りじゃ」


 ベルグは棚の方へ歩く。


 そこには、用途ごとに分けられた試作たちが並んでいた。


 小さな歯車。


 車輪の軸受け。


 軽量化を試した金具。


 振動を逃がすための留め具。


 荷台を支えるための小さな支柱。


 どれも、どこかで使いきれなかったものたちだった。


 けれど、捨てられてはいない。


 きちんと整理され、次の役目を待っている。


 ベルグは、その棚を見上げた。


「ここにある試作たちを使う」


 琥珀は、棚の前へ一歩近づいた。


「この子たちを?」


「ああ」


「失敗したものも?」


「失敗したものもじゃ」


 ベルグは、ひとつの小さな金具を手に取った。


「この金具は、前に作った時は合わんかった。重さの逃げ方が違ったからの。じゃが、馬力車の揺れを逃がすには使えるかもしれん」


 次に、細い軸受けを取る。


「これは丈夫すぎて重かった。じゃが、場所を選べば、要になる」


 ロクスは、ベルグの手元を真剣に見ていた。


 さっきまで悲壮感たっぷりに叫んでいた顔とは違う。


 使い手の顔だった。


「軽くしてくれよ」


「分かっとる」


「小回りも欲しい。街道だけじゃなくて、細い道も行くなら、曲がれないと困る」


「それも考えとる」


「荷台は低めがいい。琥珀とラファが乗り降りしやすい方がいい」


 琥珀は、ぱちぱちと瞬きをした。


「ロクス、すごい」


「だから、道を見るのは俺の役目だって言っただろ」


 ロクスは少し照れくさそうに、けれど誇らしげに笑った。


 ラファお姉ちゃんも、作業台の上の地図と棚の部品を交互に見ていた。


「必要条件を整理できます」


「言ってみい」


「安定性。乗り降りのしやすさ。細い道での旋回性。荷物の固定。風が強い場所での転倒防止。ロクスへの負荷軽減。休憩時の安全停止」


 ベルグは、嬉しそうに口元を上げた。


「よし。そういうのが欲しかった」


「え、ラファお姉ちゃんも手伝うの?」


「はい。記録と条件整理であれば、手伝えます」


「わたしは?」


 琥珀が自分を指差す。


 ベルグは琥珀を見る。


「お前さんは、乗る側の目で見ろ」


「乗る側の目?」


「怖くないか。乗りやすいか。座っていて落ち着くか。ラファと並べるか。そういうのは、作る側だけでは分からん」


 琥珀は少しだけ目を丸くした。


「わたしが、見てもいいの?」


「当たり前じゃ。お前さんも乗るんじゃからな」


 琥珀の顔が、ぱっと明るくなる。


「うん! 見る!」


「ただし」


 マーレの声が飛んできた。


 琥珀はぴしっと背筋を伸ばす。


「はい」


「今日は休みだってこと、忘れるんじゃないよ。走り回らない。重いものを持たない。疲れたら座る」


「はいっ」


「返事はいいね」


「守ります」


 マーレは満足そうに頷いた。


 ベルグも作業台の上を軽く叩く。


「今日は、作り始めると言っても、大きな作業はせん。見る。選ぶ。考える。まずはそこからじゃ」


「それも仕事なのですね」


「そうじゃ」


「休みの日の仕事?」


「休みの日だからできる仕事じゃ」


 琥珀は、工房の中を見回した。


 整えられた工具。


 棚で出番を待つ試作たち。


 作業台の上の古い地図。


 そこに引かれた、これまで歩いてきた道と、これから向かうかもしれない道。


 そのすべてが、少しずつつながって見えた。


 前の馬力車は、地下を守る子になった。


 これから作る新しい馬力車は、まだ形もない。


 けれど、もう少しだけ、そこにいる気がした。


 ロクスは棚の前で、車輪の部品を見つめている。


 ベルグは、それを横から見て、満足そうに笑っていた。


「ロクス」


「なんだ?」


「新しい相棒じゃ。遠慮せず、注文をつけろ」


 ロクスは一瞬だけ驚いた顔をした。


 それから、嬉しそうに笑った。


「ああ。山ほど言うぞ」


「受けて立つ」


「でも魔改造はやめろよ」


「しつこいのう」


「大事なことだからな!」


 琥珀は、ラファお姉ちゃんと顔を見合わせた。


 ラファお姉ちゃんも、少しだけ微笑んでいる。


「楽しそうだね」


「はい。とても」


 工房の外では、街の朝が動いている。


 風車の現場では、任された人たちが仕事を進めている。


 ここでは、休みの日の中で、次の道へ向かうための準備が始まろうとしていた。


 琥珀は作業台の上の地図を見る。


 街道が途切れた先。


 まだ知らない道。


 ラファお姉ちゃんが見たい場所。


 そこへ向かうための、新しい足。


「よろしくね」


 琥珀は、まだ形のない馬力車に向けて、小さくそう言った。


 棚の上の小さな金具が、朝の光を受けてきらりと光った。


 それは返事ではなかった。


 けれど、琥珀には少しだけ、これから生まれる新しい相棒が、そこからこちらを見ているような気がした。

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