第47話
昼の鐘が鳴ってから、少し時間が過ぎていた。
風月の鐘亭では、食堂に残っていた最後の客も席を立ち、琥珀とラファお姉ちゃんは、弁当を並べていた台を片づけていた。
今日の弁当も、残っているものは一つもない。
「今日も、全部売れたね!」
空になった籠を持ち上げながら、琥珀は嬉しそうにしっぽを揺らした。
「はい。マーレ弁当も、琥珀ちゃん弁当も完売です」
「最後の一つ、どっちにするか悩んでた人もいたよね」
「かなり長い間、二つの弁当を見比べていましたね」
「あはは。明日は、もう一つのほうを買ってくれるかな」
琥珀が籠を重ね、ラファお姉ちゃんが台の上を布で拭いていく。
風車で働く職人たちの分も、少し前に若い職人がまとめて受け取り、すでに運んでいった。
あとは使った布を洗い場へ持っていけば、昼の仕事はひとまず終わる。
その時だった。
食堂の扉が、勢いよく開いた。
「琥珀! ラファ!」
「ひゃっ!」
突然飛び込んできた大声に、琥珀の耳がぴんと立った。
入口には、ベルグが立っていた。
ずいぶん急いできたらしく、肩を大きく上下させている。額には汗が浮かび、いつも以上に髭も乱れていた。
琥珀は空になった弁当籠とベルグを交互に見ると、慌てて首を横に振った。
「ベルグじい、お弁当はもう完売したよ!」
「なに?」
「さっき、風車へお弁当を持っていった人がいたでしょ? まだ足りなかったの?」
琥珀の耳が心配そうに前へ傾く。
ラファお姉ちゃんも、食堂の奥に残っている料理を確かめるように視線を向けた。
「職人さんの人数が増えたのでしょうか。今から作れるものを確認します」
「ちがーう!」
食堂いっぱいに響いた声に、琥珀の耳が今度は横へ傾いた。
「違うの?」
「わしは弁当を買いに来たんではないわい!」
「じゃあ、どうしたの?」
ベルグは一度大きく息を吸うと、琥珀とラファお姉ちゃんを交互に見た。
「琥珀! ラファ! 手ぇ空いとるか!」
「昼の片づけは、もうすぐ終わります」
「空いとったら、ちと手伝ってくれい!」
「何を手伝えば――」
「マーレよ! 琥珀たちを借りるぞい!」
ベルグは厨房へ向かってそれだけ叫ぶと、二人の返事を待たずに身を翻した。
「急ぐぞい!」
「えっ、ベルグじい?」
ベルグはそのまま、入ってきた時と同じ勢いで食堂を飛び出していった。
開いたままの扉の向こうから、遠ざかっていく足音が聞こえる。
琥珀とラファお姉ちゃんは、しばらく並んで入口を見つめていた。
「……行っちゃった」
「はい」
「何を手伝うか、まだ聞いてないよね?」
「私たちを借りる、ということだけは分かりました」
「それだけだよね……」
二人が顔を見合わせたところで、厨房の奥からマーレが出てきた。
マーレはベルグが消えた入口を見ると、呆れたようにため息をついた。
「まったく。返事くらい聞いていけばいいものを」
「マーレさん、行ってもいいの?」
「ああなると、いつものことさね」
マーレは困ったように笑いながら、片づけられた弁当台と、重ねられた籠を確かめた。
「弁当は全部売れた。台も片づいてる。残りはこっちでやっておくよ」
「でも、布がまだ――」
「それくらいなら、あたしが洗い場へ持っていくさ」
マーレは二人のエプロンを指さした。
「エプロンを外して、手を洗ってから行っといで」
「ありがとう、マーレさん!」
「ありがとうございます」
琥珀とラファお姉ちゃんは急いでエプロンを外し、洗い場で手をきれいに洗った。
外へ出ると、道の先には、もう小さくなりかけたベルグの背中が見える。
「ベルグじい、待ってー!」
琥珀は耳をぴんと立てて走り出した。
ラファお姉ちゃんも、その隣へ並ぶように足を速める。
「琥珀ちゃん、転ばないようにしてください」
「うん! でも、急がないとベルグじいが見えなくなっちゃう!」
二人は、何を手伝うのかも分からないまま、さそり座風車へ向かって走っていった。
琥珀とラファお姉ちゃんがベルグの背中を追って坂道を上がると、やがて、さそり座風車の大きな羽根が見えてきた。
その横では、石を打つ音と金属を叩く音が重なっている。
少し前まで土や資材が広がっていた場所には、二つの鍛冶場が並んでいた。
「ベルグじい、速いよー!」
ようやく追いついた琥珀は、両膝へ手をついて息を整えた。
その横で、ラファお姉ちゃんも呼吸を落ち着かせながら、先に鍛冶場へ入っていくベルグを見つめている。
「何を手伝うのか、まだ聞いていません」
「来れば分かるわい!」
「それ、来た時に教えてほしかったよ……」
琥珀の耳が少し横へ傾く。
けれど、ベルグは振り返ることなく、二人へ手招きをした。
「まずは、こっちじゃ!」
二人が近づくと、左側の鍛冶場では、すでに炉へ火が入っていた。
炉の前では一人の職人が火の具合を確かめ、別の職人が道具棚へ金槌や火ばさみを並べている。
壁際には水を入れた槽が据えられ、使い終えた道具を置く場所と、熱を持った材料を冷ます場所も分けられていた。
床に置かれていた資材も片づけられ、人が通る道が確保されている。
「わあ……!」
琥珀の耳がぴんと立った。
「前に来た時より、ずっと広く見えるね」
「物が減ったのではなく、置く場所が決められたためですね」
ラファお姉ちゃんは、炉から水場までの距離と、職人たちが行き交う通路へ順に視線を向けた。
「熱い材料を運ぶ者と、道具を取りに行く者がぶつからないようになっています」
「そうじゃ」
ベルグは満足そうに髭を撫でた。
「左の鍛冶場は、これでひとまず完成じゃ」
「完成したの!?」
「炉も使える。風も送れる。水場も道具置き場もある。ここなら、作る者が足を止めずに仕事を続けられるぞい」
ベルグの言葉に合わせるように、炉の下から低い音が鳴った。
送られた風を受け、火が一度大きく揺れる。
けれど、炎が炉の外へあふれることはない。
熱は奥へ引かれ、上へ設けられた通り道へ流れていった。
「前は、炉を使うたびに道具や材料を動かしていた」
道具棚の前にいた職人が、琥珀たちへ笑いかける。
「今は使う物をここへ置いておける。火を止めたあとも、次に何をするか分かるようになった」
「じゃあ、片づける場所も決まったんだね」
「そういうことじゃ」
琥珀は嬉しそうにしっぽを揺らした。
鍛冶場を作るということは、炉や壁を作るだけではない。
働く人が安全に歩ける場所を作り、使った道具を戻す場所を決め、次の仕事を始められる状態へ整える。
風月の鐘亭で覚えた仕事と、少し似ている。
「ここでも、片づけるところまでが仕事なんだね」
「火と鉄を扱う場所では、なおさらじゃ」
ベルグは短くうなずくと、今度は右側の鍛冶場へ向かった。
右側にも炉と壁は作られている。
けれど、まだ床の一部には石材が積まれ、壁際では職人たちが通風路の位置を確かめていた。
水場の枠もできていたが、水を引き込むための管は、まだ完全には固定されていない。
「右は、まだ使えないの?」
「火を入れるだけならできる。じゃが、人を入れて仕事を始めるには、もう少しじゃ」
ベルグは、壁際に残された作業を一つずつ指さした。
「風の通り道を仕上げる。水場を固定する。床の段差をなくす。それが済めば、右も使えるようになるぞい」
「あと少しですね」
「うむ。ここまで来れば、終わりは見えとる」
右側では、職人たちが声を掛け合いながら石を合わせていた。
一人が位置を確かめ、もう一人が隙間へ小さな石を入れる。
その様子を見ていた琥珀は、ふと首を傾げた。
「でもベルグじい、今日は鍛冶場を見せるために、わたしたちを呼んだの?」
「それもある」
「それも?」
ベルグの口元が、ゆっくりと持ち上がった。
「左が使えるようになったからこそ、できた物があるんじゃ」
そう言うと、ベルグは二つの鍛冶場の間を通り、その奥へ進んでいった。
そこには、何人もの職人が集まっている。
職人たちの足元には太い縄と木枠が置かれ、運搬に使う低い台も準備されていた。
その中央には、大きな布が掛けられた丸い何かがある。
琥珀は耳を前へ向けた。
「ベルグじい、あれは?」
「おぬしたちを呼んだ、本当の理由じゃ」
ベルグが布の端をつかむ。
近くにいた職人たちも反対側へ回り、合図に合わせて布を持ち上げた。
「せーの!」
厚い布が外される。
その下から姿を現したのは、琥珀の背丈よりもはるかに大きな、一枚の歯車だった。
いくつもの歯が外周へ均等に並び、中央には太い軸を受け入れるための穴が開いている。
表面には削られた跡と、何度も確かめながら整えられた跡が残っていた。
琥珀は目を大きく開いた。
ラファお姉ちゃんも、何も言わずに歯車の全体を見つめている。
ベルグは大きな歯車の側面を、手のひらで一度だけ叩いた。
「こいつを、風車の中へ入れるぞい」
琥珀は、目の前に現れた大きな歯車を見上げたまま、しばらく動かなかった。
「本当に、ここまでできたんだね……」
「うむ」
ベルグは短く答えると、歯車の側面へ手を置いた。
「まだ仮完成じゃ。中へ運び、軸へはめて、実際に回るところまで確かめねばならん」
「でも、風車へ持っていけるところまで来たんだね!」
琥珀の耳がぴんと立ち、しっぽが高く上がる。
歯車の周りにいた職人たちも、互いの顔を見合わせた。
「……やっとじゃな」
「ああ。やっと、ここまで来た」
一人の職人が歯車へ手を添える。
別の職人も、その隣で静かにうなずいた。
誰も大声ではしゃいでいない。
けれど、何度も失敗し、形を確かめ、少しずつ整えてきた時間が、その表情には残っていた。
「途中で、何度も駄目かと思ったからな」
「おぬしは削るたびに、今度こそ合うと言っとったがの」
「ベルグだって、次で終わると言ってただろう」
「わしは終わるとは言っとらん。近づいたと言っただけじゃ」
「同じようなものだろう」
周囲から笑い声が上がった。
ベルグは不満そうに髭を撫でたが、その口元もわずかに緩んでいる。
「あはは。みんな、嬉しそうだね」
「はい」
ラファお姉ちゃんも、大きな歯車と職人たちを見ながら微笑んでいた。
「長く続けてきた作業が、一つの形になったのですから」
その時、さそり座風車の方角から、ふわりと温かな気配が伝わってきた。
琥珀の耳が風車へ向く。
「今の……」
鍛冶場の炉から伝わってきた熱とは違う。
もっと柔らかく、嬉しさを伝えるような温かさだった。
風車の内部で、赤い玉の光が小さく弾んでいる。
直接見えているわけではないのに、その揺れが琥珀の中へ伝わってきた。
「赤い玉も、歯車ができたことに気づいてるよ!」
「はい。熱の揺れ方が、先ほどまでとは違います」
赤い玉の反応へ重なるように、さそり座の紋章からも微かな思いが届く。
『できたんだね』
『やっと、ここまで』
琥珀は胸の前で両手を合わせた。
「さそり座の紋章も喜んでる」
「何と言っとる?」
「できたんだねって」
琥珀は大きな歯車を見上げ、満面の笑みを浮かべた。
「やっと、ここまで来たんだねって!」
職人たちは、もう一度歯車へ目を向けた。
「まだ回っとらんぞい」
「でも、待たせてたんでしょ?」
「……まあ、そうじゃな」
ベルグが照れたように鼻を鳴らす。
風車から届く温かな気配が、もう一度だけ歯車の周りへ触れた。
「ラファお姉ちゃん、もう少しだね!」
「はい。あとは、この歯車を本来の場所へ――」
ざっ――。
ラファお姉ちゃんの言葉が止まった。
「……っ」
目の前の大きな歯車が、一瞬だけ二重にぶれる。
歯車の形が崩れたわけではない。
けれど、自分とは別の視線が、遠くから同じものへ重なったような感覚が走った。
「ラファお姉ちゃん?」
琥珀の耳が、心配そうに少し伏せる。
ラファお姉ちゃんは一度瞬きをした。
歯車は、もう元の輪郭へ戻っている。
「大丈夫です」
「今、何かあった?」
「ほんの一瞬だけ、記録の照合に乱れが入りました」
「痛くない?」
「はい。痛みはありません。すでに乱れも消えています」
ラファお姉ちゃんは琥珀を安心させるように、その肩へそっと手を添えた。
「ただ……」
もう一度、大きな歯車へ目を向ける。
壊れた記録が混じった感覚とは違う。
何かが歯車の形を確かめるため、一瞬だけ深く覗き込んだような――。
「誰かが、この歯車を見ていたような感覚が残っています」
「誰かが?」
「まだ分かりません」
琥珀は鍛冶場の周囲と、風車の上を見回した。
けれど、近くにいるのはベルグと職人たちだけだった。
「ラファ、無理はするでないぞ」
「ありがとうございます。作業を続けることに問題はありません」
ベルグはラファお姉ちゃんの様子をしばらく確かめてから、両手を強く打ち合わせた。
「よし! 喜ぶのはここまでじゃ!」
職人たちが一斉に顔を上げる。
「こいつを風車へ運ぶぞい!」
「おう!」
「軸へはめ、動かしてこそ完成じゃ!」
職人たちは縄や運搬用の台へ向かい、それぞれの持ち場へ散っていった。
琥珀も耳を立て直し、ラファお姉ちゃんと顔を見合わせる。
「わたしたちも手伝おう!」
「はい。安全に運べるよう、通り道から確認しましょう」
大きな歯車が、本来の場所へ向かう時が来た。
職人たちは、大きな歯車を囲むように持ち場へついた。
歯車の下には、すでに頑丈な木枠が組まれている。
その木枠ごと低い運搬台へ載せ、前から太い縄で引き、後ろと左右から支えながら風車まで運ぶ準備が整えられていた。
「前は二人で引け。左右は傾きを見ろ。後ろは押しすぎるでないぞい」
「おう!」
「風車の入口を通す時は、わしの合図で一度止める。勝手に進めるでないぞ」
ベルグが一人ずつ役割を確認していく。
琥珀も歯車の近くへ駆け寄ろうとしたが、ベルグがすぐに片手を上げた。
「琥珀は押さんでよい」
「えっ、わたしも手伝えるよ?」
「力が足りんという話ではない」
ベルグは歯車の下に組まれた木枠を指さした。
「おぬしには、下を見てもらいたいんじゃ」
「下?」
「運んどる者からは、台の足元が見えにくい。石や木片が転がっとれば、そこで傾く」
琥珀は運搬台の低い車輪と、その前に続く道を見た。
確かに、大きな歯車を支える職人たちの位置からでは、足元の小さな物まで確認しにくい。
「分かった! わたしが前を見て、何かあったらすぐ言うね!」
「それでよい」
琥珀の耳がぴんと立つ。
「ラファは、歯車の傾きと入口までの幅を頼む」
「承知しました」
ラファお姉ちゃんは運搬台の周囲を一周し、歯車の一番高い場所と、左右へ張り出している部分を確かめた。
それから風車の入口まで歩き、石壁との間隔を目で追っていく。
「入口までは、この向きのままで問題ありません」
ラファお姉ちゃんは戻ってくると、歯車の右側を示した。
「ただし、入口の前で少しだけ左へ向きを変える必要があります。まっすぐ進むと、右側の木枠が石壁へ近づきすぎます」
「どのくらいじゃ?」
「手のひら一つ分ほどです。入口の三歩手前で向きを変えれば、余裕を残して通せます」
「よし。それでいくぞい」
ベルグが手を上げる。
「縄を張れ!」
前に立った二人の職人が、太い縄を肩へ掛けた。
左右の職人は歯車へ手を添え、後ろの二人は木枠を押せる位置へつく。
「動かすぞい。せーの!」
「おう!」
縄が張り、木枠が小さく軋んだ。
大きな歯車を載せた運搬台が、ゆっくりと前へ動き始める。
最初の一歩は重かった。
けれど、車輪が回り始めると、歯車は職人たちの歩みに合わせて、静かに鍛冶場の間を進んでいった。
「そのままじゃ! 急ぐなよ!」
琥珀は運搬台の少し前を歩きながら、地面を見ていく。
石ころ。
短い木片。
作業のために引かれた細い縄。
歯車が通る道に残っていた物を、一つずつ端へ避けていく。
「前、大丈夫だよ!」
「右も問題ありません」
ラファお姉ちゃんは歯車の横を歩き、石壁や資材との距離を確かめていた。
風が吹くたびに、歯車に掛けられた縄の端が小さく揺れる。
けれど、歯車そのものが傾くことはない。
左右の職人が歩幅を合わせ、木枠をまっすぐに保っている。
「少し右へ寄っとるぞ」
「こっちで支える。押すな、そのまま進め」
「よし、戻った」
大きな声を出さなくても、職人たちは互いの言葉を聞き取り、すぐに力を合わせ直していく。
琥珀は前を確認しながら、その様子を何度も振り返った。
「みんな、息が合ってるね」
「何度も大きな部品を運んできたからでしょう」
「最初から、こんなにうまくできたわけではないぞい」
ベルグは歯車の少し前を歩きながら答えた。
「押しすぎた者もおれば、合図より先に縄を引いた者もおった」
「それ、ベルグじゃなかったか?」
「わしではない!」
「一番大きな声で急げと言ってたぞ」
「急げとは言ったが、勝手に引けとは言っとらんわい!」
職人たちから笑い声が上がる。
けれど、誰も手は止めない。
歯車はゆっくりと鍛冶場を抜け、さそり座風車の入口へ近づいていった。
「入口まで、あと三歩です」
「止めい!」
「止めるぞ!」
前の職人が縄を張ったまま足を止める。
後ろと左右の職人も歯車を支え、運搬台が静かに止まった。
「ここから、少し左じゃな?」
「はい。前側を動かし、後ろ側はその位置で支えてください」
ベルグが職人たちへ向きを変える手順を伝える。
前の縄を左へ引き、右側の職人が少しだけ歯車を押す。
左側は動きすぎないよう支え、後ろは台の位置を保つ。
「ゆっくりじゃ。まだ引くな。……よし、今じゃ」
運搬台がその場で少しずつ向きを変えていく。
「もう少しです」
「これでどうじゃ?」
ラファお姉ちゃんは入口と歯車の両側を見比べた。
「通せます。左右にも余裕があります」
「よし、進め!」
再び縄が張られる。
大きな歯車が、さそり座風車の入口へ近づいた。
琥珀は先に中へ入り、石床の上を確かめていく。
外の道と違い、風車の中には小さな段差や、床から突き出した古い金具が残っている場所もある。
「こっちの金具は避けたほうがいいよ!」
「どちらへ寄せればよいですか?」
「少しだけ左!」
「左へ少し寄せてください」
「聞こえたな! 左じゃ!」
職人たちが力を合わせ、歯車の進む向きをわずかに変える。
車輪が古い金具の横を通り過ぎた。
「通ったよ!」
「そのまま進め!」
歯車の上端が入口を越える。
次に、左右へ張り出していた部分が石壁の間を通り抜ける。
最後に木枠が入口を越えたところで、職人たちから小さな息が漏れた。
「入った……!」
琥珀のしっぽが大きく揺れる。
「まだじゃ。取り付ける場所まで運ぶぞい」
「うん!」
風車の内部では、赤い玉の光が先ほどよりも明るく揺れていた。
大きな歯車が一歩進むたび、その光も待ちきれないように小さく弾む。
『こっち』
さそり座の紋章から、短い思いが届く。
「さそり座の紋章が、こっちだって言ってる」
琥珀は風車の奥へ視線を向けた。
そこには、大きな歯車が抜けたままになっている空間がある。
太い軸の先と、隣の歯車の歯が、取り付けられる時を待っていた。
「場所は分かっとる」
ベルグはそう答えながらも、さそり座の紋章が示した方向を一度確かめた。
「じゃが、待っとる者がおるなら、間違えるわけにはいかんな」
職人たちがもう一度、縄と木枠を握り直す。
「ここから床が少し下がっています」
「運搬台が急に進まないよう、前の縄で抑えます」
「後ろは押すな。左右は傾きを見ろ」
歯車は坂になった床を、ゆっくりと下りていく。
前の職人が縄を張り、速くなりすぎないよう支える。
後ろの職人は木枠へ手を添えるだけにし、左右が傾きを確かめる。
「そのまま、そのまま……」
車輪が坂を下りきる。
大きな歯車は、取り付けられる軸の前までたどり着いた。
「止めい!」
全員が動きを止める。
目の前には、歯車の中央へ通す太い軸がある。
けれど、運搬台のままでは、軸よりも歯車の中心が少し低い。
「ここから持ち上げるの?」
「持ち上げるが、人の腕だけでは上げん」
ベルグは軸の左右へ設けられた支柱と、その上を通る太い梁を指さした。
梁からは、丈夫な縄と滑車が下げられている。
「このために、先に吊り上げる仕組みを作っておいたんじゃ」
「歯車を作る前から?」
「完成してから用意し始めとったら、いつまでたっても取り付けられんからの」
職人たちは歯車の左右へ縄を回し、木枠とつなげていく。
ラファお姉ちゃんは、縄が歯へ直接食い込んでいないかを確認した。
「右側の縄が、外周へ近すぎます」
「こっちか?」
「もう少し中央へ寄せてください。その位置なら、持ち上げても歯へ力が集中しません」
「分かった」
縄の位置が直される。
ベルグは歯車の左右と中央を順に見てから、大きくうなずいた。
「よし。少しずつ上げるぞい」
滑車につながった縄を、四人の職人が握る。
「せーの!」
「おう!」
縄が引かれ、滑車が回る。
木枠が小さく軋み、大きな歯車が運搬台からゆっくりと浮き上がった。
「上がった!」
「まだ足元へ入るでないぞ」
「うん!」
歯車は少しずつ高さを増していく。
左右の職人が縄を支え、揺れないよう動きを抑えている。
「中心まで、あと少しです」
「もう一度引け!」
滑車が回り、歯車の中央が軸と同じ高さへ近づいた。
「そこです」
「止めい!」
縄を引いていた職人たちが、その位置を保つ。
大きな歯車は、太い軸の正面で静かに浮かんでいた。
ベルグは歯車と軸の中心を見比べる。
右から見る。
左へ回る。
少し離れ、全体の高さを確かめる。
「中心は合っとるか?」
「高さは合っています」
ラファお姉ちゃんは歯車の中央と軸へ視線を向けた。
「向きも大きくずれていません。前へ進める時に、右側をほんの少しだけ抑えれば入るはずです」
「よし」
ベルグは、歯車の前後にいる職人たちを見回した。
「次で軸へ入れる」
職人たちの表情が引き締まる。
「急ぐでない。一度で押し込もうとするな。中心を確かめながら、少しずつ進めるぞい」
「おう」
琥珀は大きな歯車と軸を見上げた。
赤い玉の光が、風車の奥で静かに揺れている。
さそり座の紋章からも、待ち続けるような温かな思いが届いていた。
歯車は今、本来あるべき場所のすぐ前まで来ている。
あとは軸へ通し、隣の歯車と噛み合わせるだけだった。
ベルグが片手を上げた。
「前へ出すぞい。ほんの少しずつじゃ」
歯車を吊っている縄が、ぴんと張られる。
左右の職人たちは揺れを抑え、後ろにいる者が木枠へ手を添えた。
「進めい」
滑車が小さく鳴った。
大きな歯車が、太い軸へ向かってゆっくりと動き始める。
「右側を、少しだけ抑えてください」
「このくらいか?」
「はい。その位置です」
ラファお姉ちゃんは、歯車の中央と軸の先を交互に確かめている。
琥珀も少し離れた場所から、歯車の下と隣の機構を見つめていた。
「下は大丈夫だよ!」
「そのままじゃ。あと少し……」
歯車の中央に開いた穴へ、軸の先が入る。
職人たちの手へ、わずかに重さが返った。
「止めるか?」
「いや、そのままじゃ。押し込むでない。縄で支えたまま進めい」
軸が歯車の中心へ、少しずつ収まっていく。
右へ傾くこともない。
左へずれることもない。
何度も測り、削り、確かめてきた中央の穴が、太い軸をまっすぐ受け入れていた。
「入ってる……!」
「まだ隣の歯と噛み合っとらん。ここからが最後じゃ」
ベルグは隣にある古い歯車と、新しい大きな歯車の間へ目を向けた。
二つの歯は、あとわずかなところまで近づいている。
けれど、そのまま前へ進めれば、新しい歯の先が隣の歯へぶつかる位置だった。
「少し回すぞい」
「どちらへ?」
「手前から見て、右じゃ。半分も動かす必要はない」
職人たちが、大きな歯車の外周へ手を添える。
「琥珀、下の歯を見ておれ」
「うん!」
琥珀は膝を曲げ、二つの歯車が近づいている場所を覗き込んだ。
歯と歯の隙間。
その間隔が、少しずつ変わっていく。
「ゆっくり回して!」
「回すぞ」
大きな歯車が、ごくわずかに動いた。
「もう少し!」
職人たちが、もう一度だけ力を加える。
新しい歯が、隣の歯の間へ向かう。
「そこで止めて!」
歯車が止まった。
琥珀は顔を近づけすぎないよう注意しながら、左右の隙間を確かめる。
「真ん中に来てるよ!」
「ラファ、上はどうじゃ?」
「上側も合っています。前へ進めて問題ありません」
ベルグは大きく息を吸った。
「よし。最後じゃ」
職人たちの表情が引き締まる。
「縄で高さを保て。左右は動かすでない。後ろから、ゆっくり前へ出すぞい」
「おう」
「進めい!」
木枠が、わずかに前へ押される。
軸がさらに深く入り、新しい歯車の外周が、隣の歯車へ近づいていく。
琥珀は息を止めるように見つめていた。
そして――。
かちり。
二つの歯が、互いの間へ収まった。
大きな音ではなかった。
けれど、風車の中にいた全員の耳へ、はっきりと届いた。
「入った……」
「噛み合ったよ!」
琥珀の耳がぴんと立ち、しっぽが高く上がる。
ベルグはすぐには喜ばず、歯車の左右と軸の奥を確かめた。
「縄はまだ緩めるでない」
ベルグは軸の先へ用意されていた留め具を取り付け、職人と一緒に固定していく。
一つ目。
二つ目。
最後に太い楔を差し込み、金槌で少しずつ打ち込んだ。
乾いた音が、風車の内部へ響く。
「これで、軸から抜けることはありません」
「うむ。じゃが、まだ重さを縄へ預けたままじゃ」
ベルグは歯車の下と軸の付け根をもう一度確かめた。
「少しずつ縄を緩めい」
滑車を支えていた職人たちが、ゆっくりと縄を戻していく。
吊り上げられていた重さが、軸へ移る。
大きな歯車は傾かなかった。
揺れもしない。
隣の歯車との噛み合わせも、そのまま保たれている。
「縄を外してよいぞい」
職人たちが張りつめていた息を吐いた。
歯車の周囲から縄と木枠が外されていく。
そこに残ったのは、まるで最初からその場所へあったかのように軸へ収まった、大きな歯車だった。
「ぴったりだね……!」
「まだ、動かして確かめるまでは気を抜けんぞい」
そう言いながらも、ベルグの髭の下には笑みが見えていた。
歯車の中央近くには、試しに回すための太い棒を差し込める穴が設けられている。
職人たちはそこへ棒を通し、左右へ分かれて手を掛けた。
「最初は、ほんの少しじゃ」
「どこかが引っかかったら、すぐに止めます」
「琥珀は、下の歯と軸の付け根を見ておれ」
「任せて!」
琥珀は歯車から距離を取りながら、下側を見渡せる場所へ移動した。
ベルグが片手を上げる。
「回すぞい」
職人たちが棒へ力を加えた。
大きな歯車が、低い音を立てる。
ご……。
最初の動きは、とてもゆっくりだった。
新しい歯が、隣の歯を押す。
隣の歯車も、わずかに回る。
次の歯へ。
さらに、その次の歯へ。
「引っかかってないよ!」
「軸の揺れもありません」
「もう少し回せい」
職人たちが歩幅を合わせる。
ごとん。
かちり。
ごとん。
かちり。
整えられた歯が、一つずつ確かに噛み合っていく。
途中で止まることはなかった。
嫌な擦れ方もしていない。
一周には届かなくても、大きな歯車は途切れることなく回り続けた。
「回ってる……!」
琥珀の声が弾む。
その時、風車の奥にある赤い玉が、強く明滅した。
赤い玉から伸びていた光の筋が、風車内部の溝へ流れ込む。
「マナが動き始めています!」
ラファお姉ちゃんの視線が、歯車の周囲へ走る。
これまで一部で滞っていたマナが、新しい回転へ引かれるように動き始めていた。
軸の根元から、大きな歯車の中央へ。
中央から、外周の歯へ。
そして噛み合った隣の歯車へ。
青白い光の筋が、回転に合わせて一つずつつながっていく。
同時に、石壁や床の溝に残っていた淡い月光粒子が、ふわりと浮かび上がった。
「わあ……!」
細かな月光粒子が、大きな歯車の周囲を巡る。
回転する歯の間を抜け、軸の周りを螺旋のように流れ、隣の機構へ運ばれていく。
一粒ずつは小さな光だった。
けれど、それらが連なり、止まっていた風車の中へ新しい道を描いていた。
赤い玉の熱が、その光の流れへ重なる。
すると、風車内部の空気がふっと動いた。
琥珀の髪が揺れる。
耳の先の毛が、風に撫でられるようになびいた。
ラファお姉ちゃんの後ろ髪も、肩の上で静かに動く。
「風が……!」
「はい。下から上へ流れています」
これまで風車の奥へ溜まっていた温かな空気が、通風路へ引かれていく。
代わりに、床に近い場所から少し冷たい空気が入り込んだ。
「熱の流れも変わりました」
ラファお姉ちゃんは、赤い玉から伸びるマナと、壁の内側へ続く通り道を目で追った。
「赤い玉の周囲へ集まっていた熱が、右側の通路から上へ抜けています」
「こっちへ風が来たぞ!」
少し離れた通気口の前にいた職人が、驚いた声を上げた。
「前は、ほとんど動いとらんかった場所じゃ!」
「熱も弱くなっとる。奥へ流れ始めたんじゃ!」
赤い玉の光が、嬉しそうに何度も弾む。
さそり座の紋章からも、温かな思いが琥珀たちへ届いた。
『回った』
『つながった』
琥珀は胸の前で両手を握った。
「さそり座の紋章も、回ったって言ってる!」
その言葉を聞いた職人たちの顔に、笑みが広がっていく。
「ベルグ、もう少し回してみるか?」
「いや、今日はここまでじゃ」
「もう止めるのか?」
「最初から長く回して、どこかへ無理をかけても仕方あるまい」
ベルグは回り続ける大きな歯車を見上げた。
「まずは止めて、軸と歯の当たり方をもう一度確かめる。それから、少しずつ回す時間を延ばす」
「全部が動いたわけではないんだね」
「そうじゃ」
ベルグは、まだ止まったままの上部機構へ目を向けた。
「上には動いとらん歯車もある。風車の羽根へ力が届く道も、まだ完全ではない」
それから、新しく取り付けた大きな歯車へ、厚い手のひらを当てた。
「じゃが、こいつが回ったことで、風と熱の道が一つつながった」
歯車を押していた職人たちが、ゆっくりと力を緩める。
回転は少しずつ遅くなり、最後の歯が隣へ力を渡したところで、静かに止まった。
月光粒子も消えてはいない。
歯車と軸の周囲へ淡く残り、つながったマナの道を示すように揺れている。
ベルグは、歯の当たり方と軸の固定を確かめた。
右を見る。
左へ回る。
最後に中央へ戻り、何度も確かめてから大きくうなずいた。
「ずれはない。軸も耐えとる。歯も正しく噛み合っとる」
琥珀は期待に満ちた目で、ベルグを見上げた。
「じゃあ……?」
「うむ」
ベルグは大きな歯車を、力強く一度叩いた。
「こいつは、もう仮ではない」
一瞬の静けさのあと、職人たちから歓声が上がった。
「完成じゃ!」
「やったー!」
琥珀のしっぽが大きく揺れ、その勢いのままラファお姉ちゃんの腕へ抱きついた。
「ラファお姉ちゃん、回ったよ!」
「はい。皆さんの歯車が、風車の一部になりました」
ラファお姉ちゃんも嬉しそうに微笑み、琥珀の肩をそっと抱き寄せた。
赤い玉の光が、二人と職人たちを照らす。
さそり座の紋章から届く喜びも、淡い月光粒子と一緒に風車の中を巡っていた。
風車全体が直ったわけではない。
止まっている場所は、まだいくつも残っている。
それでも、職人たちが作った一つの歯車は、確かに本来の場所へ収まり、風と熱を次の道へ渡した。
止まっていたものが、一つ動いた。
離れていた流れが、一つつながった。
──────────
その様子を――遠くから見つめているものがいた。
新たな歯車。
正常な接続。
回転による、マナと熱の変化。
観測された記録が、静かに積み重なっていく。
そして、その視線はゆっくりと、別の場所で止まったままの歯車へ向けられていた。




