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第26話 前編

地下倉庫の空気は、地上よりもずっと冷えていた。


石で囲まれた壁際には、甕や水瓶、木箱が並んでいる。その間を抜ける空気はひんやりとしていて、肌に触れるたび、少しだけ背筋が引き締まるようだった。


「……あ」


琥珀の耳が、ぴくりと動く。


ただ冷たいだけじゃない。

空気が、流れている。


頬のそばをかすめるような細い風。髪の先を、ほんのわずかに揺らしていく冷たさ。猫としての感覚が、そのかすかな流れを先に拾っていた。


琥珀はそっと目を細め、地下倉庫の中を見回した。石壁の冷え。水瓶の表面に溜まった冷気。足元を静かに巡る、見えない風。


そして、その風の先にある冷えた水へ視線が止まる。


「……もしかしたら、できるかな」


小さくこぼれたその声に、ラファが琥珀を見る。


「何か気づきましたか」


「うん……この風。ただ冷たいだけじゃなくて、ちゃんと流れてるの。それに、水も冷えてる」


琥珀は水瓶へ一歩近づいた。指先でそっと触れた表面は、地上の水よりもずっと冷たい。


「でも……これだけだと、まだ足りないのかな」


ラファもまた、水瓶と周囲の空気へ視線を向ける。


「この冷え方では、まだ足りないかもしれません。ただ、水はあります。風もあります。条件としては、完全に不可能ではありません」


「条件……」


琥珀は、指先に残る冷たさを確かめるように、そっと手を握った。


水は見えるし、触れられる。でも風は見えない。冷たさは、もっと掴みにくい。


なのに。

今、この地下倉庫に満ちているものが、ただの冷えではなく、何かに変わる手前にある気がした。


「……マナの流れを、うまく動かしたら。温度の調整って、できないかな」


ラファの目が、わずかに細くなる。


「理論上は、ありえます。ただし、かなり繊細な制御になります。今の琥珀ちゃんの状態では、負担が大きい可能性があります」


「うん。でも……やってみたい」


その声は強くはなかった。けれど、はっきりしていた。


怖さが消えたわけじゃない。身体が戻りきったわけでもない。

それでも、今この冷たさに触れたからこそ、試さずにはいられなかった。


「……ラファお姉ちゃんと一緒なら、できるかもしれない」


ラファは静かに頷く。


「分かりました。私が支えます。無理だと判断したら、すぐ止めます」


「うん」


後ろで見ていたロクスが、たまらず口を開く。


「何が始まるんだ? さっきの“こおり”とかいうやつ、もう試すのか?」


「温度を……下げる? そんなことが、できるんかのぅ」


「ちょ、ちょっと待ちな。無茶する気じゃないだろうねぇ」


琥珀は振り返ると、口元にそっと指を当てた。


「しー、だよ。このこと、あんまり大きな声で言わないでね。まだ、できるか分からないから」


その仕草に、ロクスが思わず口をつぐむ。ベルグは目を丸くしたまま黙り込み、マーレは息を詰めたあと、小さく肩をすくめた。


「……分かったよ。だったら、ちゃんと見てるからねぇ」


琥珀とラファは地下倉庫の中央へ移動した。間には、水の溜まった水瓶。それを囲うように向かい合い、二人はゆっくりと手を伸ばす。両手で円を描くように、呼吸を合わせる。


「ラファお姉ちゃん、始めるよ」


「はい。いつでも大丈夫ですよ」


二人が目を閉じる。


最初に起きたのは、ごく小さな風だった。


琥珀とラファの足元を、くるりと一周するような細いつむじ風。地下の冷えた空気が引き寄せられ、二人のまわりでやさしく巡り始める。


そこへ、淡い光の粒がふわりと滲んだ。


夜の月明かりを、もっと細かく砕いて散らしたような、やわらかな粒子。その粒が風に乗り、二人の周囲を静かに漂っていく。


「……なんじゃ、あの光は」


「お、おい、大丈夫なのか? なんか、めっちゃ冷えてきたんだが」


「少しは静かにしな! ふたりが集中してんだよ!」


つむじ風は、少しずつ中心へ寄っていく。光もまた、ばらけたままではなく、ゆっくりと水瓶の方へ集まり始めた。


水面が小さく震える。


その表面から、細かな水滴がいくつかふわりと浮いた。光を受けてきらめくほど強くはない。けれど確かに、ただの水ではない動きを見せている。


冷たい風。淡い粒子。ふわりと浮く、小さな水滴。

まるで地下倉庫そのものが、静かに息を止めて見守っているようだった。


やがて、水瓶の中央の水が持ち上がる。少し大きめの水の玉になりかけて、揺れる。


「……っ」


だが、次の瞬間。


水の玉は不安定に震え、そのまま水瓶へ落ちた。


ぴしゃり、と小さく水が跳ねる。


琥珀の肩が、わずかに揺れた。


「大丈夫です。まだ、流れが強すぎます。合わせ直しましょう」


琥珀は息を整えながら、小さく頷く。


「……うん。大きいと、難しいのかも。もっと小さいなら……ほんの少しなら……」


「はい。それなら保てる可能性があります」


再び、二人の周囲に風が巡る。


今度はさっきよりも少し深く、少しだけはっきりと。


琥珀の髪がふわりと浮き、ラファの袖がやさしく揺れる。衣服の裾が風に撫でられ、地下の冷えた空気が、見ている三人のところまで一段強く届いた。


散っていた光が、もう一度、中心へ集まる。


水瓶の上で、今度はほんの小さな水玉がひとつ、そっと浮かび上がった。


今度は落ちない。


さっきまでの大きな揺れはなく、風の中心で、かすかに震えながらもそこに留まっている。


「……保ててる」


琥珀の声は小さかった。けれど、その目ははっきりと前を見ていた。


ラファもまた、浮かぶ水玉を見つめる。


「はい。今度は流れが崩れていません」


二人のあいだを巡る風は、先ほどよりも静かだった。強引に持ち上げるのではなく、細く、やわらかく、小さな水玉を包んでいる。


そのぶん、地下倉庫の冷えは少しずつ深くなっていった。


頬に触れる空気が、一段ひんやりする。吐く息までは白くならない。けれど、指先の温度が静かに奪われていくのが分かる。


光の粒もまた、散ったままではいなかった。淡い粒子が風に乗り、小さな水玉のまわりへ少しずつ集まっていく。


「さっきより……冷えてる」


「……空気ごと変わっとるのぅ」


マーレは何も言わず、ただ目を細めて二人を見ていた。


浮かぶ水玉の周囲で、風がさらに細かく巡る。


その時だった。


水瓶の表面から立ちのぼるように漂っていた、ごく薄い霧のような水分が、ふわりと風に巻かれて舞い上がる。


水滴とも呼べないほど小さな粒。けれど、それは確かにそこにあった。


光を受けて揺れる、その細かな水の粒へ、冷えた空気が静かに重なっていく。


「……っ」


琥珀は目を閉じたまま、息をひとつ吸った。


冷たい。

でも、まだ届ききらない。


その感覚が伝わったのか、ラファがやわらかく声をかける。


「大丈夫です。不安定なところは、私が支えますね。琥珀ちゃんは、感じたままで大丈夫です」


「うん!」


その返事に応えるように、二人のあいだを巡る風が、もう一度深くなる。


さっきまで足元を撫でるようだった冷気が、今度ははっきりと二人の周囲を包みこんだ。散っていた光の粒も、ばらけることなく中心へ寄っていく。


琥珀の髪がふわりと浮く。ラファの袖もまた、やさしく風を受けて揺れた。衣服の裾が小さく波打ち、地下倉庫の中に満ちる冷たさが、見ている三人のところまで一段強く届く。


「うわ、さっきより来た!」


「静かにしな!」


ロクスは慌てて口を押さえたが、その目はしっかりと二人の方を見ていた。


舞い上がっていた霧のような細かな水分が、今度は落ちずにその場へ留まり始める。


ひとつ。

またひとつ。


ごく微細な粒が、淡い光の中で静かに形を変えていく。


水のように揺れない。

光のように散らない。

冷たさが、そのまま輪郭を持ったみたいだった。


「……できてる?」


「はい。ごく微細ですが、変わり始めています」


次の瞬間。


風に乗って舞うその粒が、淡い光を受けてきらりと瞬いた。


ひとつだけではない。

いくつもの小さな粒が、地下倉庫の中をふわり、ふわりと漂っている。


雪のように重くはない。けれど、ただの霧とも違う。


夜明け前の冷たい空気の中でだけ見える夢みたいに、その細かな氷の粒は、ダイヤモンドダストのように静かにきらめいた。


誰も、すぐには声を出せなかった。


冷たい風。

淡い粒子。

きらきらと舞う、細かな氷。


地下倉庫の薄暗い空気の中に、今まで誰も見たことのない景色が、確かに生まれていた。


「……綺麗だね」

「まるで星空の様に」


その声は、驚きと安堵が混ざったみたいに、ほんの少し震えていた。


「はい。初めて見たあの丘を、思い出しますね」


だが、まだそれだけだった。


舞っているのは、あまりにも小さな氷。触れようとすれば消えてしまいそうで、これだけではとても“使える”とは言えない。


琥珀も、それを分かっていた。


「まだ……小さすぎる。ちゃんと持てるくらいにならないと……」


「なら、中心です。今の流れを、その水玉へ集めましょう」


琥珀は小さく頷く。


浮かんだままの水玉へ、二人の意識が向く。


風が、さらに静かになる。ばらけていた冷たさが、今度は一点へ絞られていく。


舞っていた細かな氷の粒が、水玉のまわりを巡るように流れ始めた。淡い光もまた、その中心へ寄り添うように集まっていく。


小さな水玉の表面が、わずかに変わる。


揺れが減る。

透明さが深まる。

水だったものが、ゆっくりと静かな硬さを持ち始める。


「……っ」


集中のせいか、琥珀の肩がわずかに震えた。それでも、手は離さない。


ラファがその揺れを支えるように、そっと力を重ねる。


そして――


小さな水玉は、ほんの小さな粒のまま、その形を止めた。


落ちない。

揺れない。

溶けない。


それはもう、水ではなかった。


「……できた」


かすれた声が、地下倉庫に落ちる。


二人のあいだに浮かんでいたのは、爪の先ほどしかない、小さな小さな氷だった。


成功というには、あまりにも小さい。けれど確かに、触れれば冷たく、水とは違う硬さを持つもの。


この世界にまだなかった“氷”が、初めて目の前に現れた瞬間だった。


「……ほんとに、固まっとる」


ベルグの声が、いつもよりずっと低く落ちる。


ロクスは目を丸くしたまま、言葉を失っていた。マーレもまた、息を呑んだまま、その小さな欠片を見つめている。


その時、琥珀の呼吸がわずかに乱れた。


「……はぁ、っ」


光が少し揺れる。


ラファはすぐに琥珀の方を見る。


「琥珀ちゃん」


「だ、大丈夫……」

「ちょっと……ふらっとしただけ……」


額にはうっすらと汗が浮いていた。冷えた地下にいるのに、それでも負荷がかかっているのが分かる。


ラファはすぐそばへ寄り、支える位置を少し強める。


「ここまでで十分です。ちゃんとできています」


琥珀は小さく息を整えながら、その氷を見つめた。


ほんの少し。

本当に、ほんの少しだけ。


でも、確かに前へ進んでいた。


琥珀は息を整えながら、二人のあいだに浮かぶ小さな氷を見つめた。爪の先ほどの、小さな欠片。けれどそれは、さっきまで舞っていた霧のような粒とは違う。目の前で確かに形を持ち、そこに留まっている。


「……これ。触ってみる?」


その声に、三人がはっとしたように顔を上げる。


けれど、誰もすぐには手を出せなかった。


目の前にあるのは、さっきまで存在しなかったもの。冷たいだけの水でもなく、石でもなく、光でもない。


どう触れればいいのか、分からない。

そんな空気が一瞬だけ流れる。


最初に動いたのは、マーレだった。


「……あたしで、いいのかい?」


「うん。マーレさん、お願い」


マーレはゆっくりと手を差し出した。働き慣れた手のひらが、琥珀たちの前へそっと置かれる。


ラファが流れを少しだけゆるめる。

浮かんでいた小さな氷が、壊れないよう静かに下りていく。


琥珀も息を詰めるように見守った。


小さな欠片は、そっとマーレの手の上へ降りた。


「……っ」


マーレの指先が、わずかに震える。


「冷たい……。水なのに、冷たいだけじゃない。なんだい、これ……」


その声には驚きがあった。けれど、それ以上に、初めて触れた感触を確かめるような静かな戸惑いが混ざっていた。


マーレは手の上の小さな氷を、まじまじと見つめる。


透き通っているのに、水みたいには揺れない。

小さいのに、ちゃんとそこにある。


「……これが、“こおり”かい」


「うん。たぶん……これが、氷」


マーレはそうかい、と小さく息を漏らしたあと、そっとベルグの方を見る。


「ほら、あんたも見てみな」


ベルグは一歩近づいた。その目は、さっきまでの驚きとはもう少し違っていた。


現象を見る目。

仕組みを追う目。

作り手の目だった。


「……貸してみぃ」


マーレが手を少し傾ける。ベルグは大きな指先で、その小さな欠片をそっと摘まんだ。


「お、おい、そんな強く持ったら――」


「分かっとる」


ベルグは短く返しながら、摘んだ氷を目の前まで持ち上げた。


小さい。

薄い。

だが、確かに水とは違う。


ベルグはそのまま、指先の感触を確かめるように、ごくわずかに握る。


「……っ」


冷たさが伝わったのか、ベルグの眉がぴくりと動く。


「ほんまに固いのぅ……。じゃが……」


その時だった。


ベルグの指先で、氷の輪郭がわずかに滲む。


透明だった欠片の縁がやわらかく揺らぎ、小さな雫になって指を伝った。


「おい、溶けたぞ!」


「……体温じゃな」


ベルグは自分の手を見ながら、低く呟く。


指先に残ったのは、もう氷ではなく水だった。


小さな一滴が、掌の皺に沿って光っている。


「保てんのぅ。形になっても、このままじゃ消える」


その言葉には落胆よりも、気づきの方が強かった。


どうすれば保てるか。

どうすれば使えるか。


もう頭のどこかで、次のことを考え始めている声だった。


その横で、ロクスがぐいっと身を乗り出す。


「おれも! おれも触る!」


「……もう無いわい」


「はぁ!?」


ベルグは真顔のまま、指先に残った水をロクスの手へぽとりと落とした。


「冷たかった残りじゃ」


「ただの水じゃねえか!」


思わず響いた声に、張っていた空気がふっとゆるむ。


マーレが吹き出しそうになりながら口元を押さえ、琥珀も肩を揺らした。ラファの表情も、ほんのわずかにやわらぐ。


「だって今、そこにあったんだぞ! おれもちゃんと固いやつ触りたかったのに!」


「なら、次は溶ける前に触ればええじゃろ」


「次がある前提なんだな!?」


「今のを見て、無いと思う方がおかしいわい」


ベルグの声はいつも通りぶっきらぼうだった。

けれど、その目はもう地下倉庫の景色を見ていなかった。


もっと先。

使える形。

残せる形。


その方向へ、はっきり向き始めている。


マーレはそんなベルグを見て、目を丸くする。


「……あんた、もう頭そっち行ってるねぇ」


「行くに決まっとる」


ベルグは短く言い切った。


「冷やせる。固められる。じゃったら、その先を考えん理由がない」


驚きだけでは終わらない。

この小さな氷は、ちゃんと次へ繋がる。


そんな気配が、そこに生まれ始めていた。


ベルグの目が、はっきりと工房の方を向く。


「ちょいと戻るぞい」


「は?」


「設計から見直す。今すぐじゃ」


言うが早いか、ベルグはもう踵を返していた。


「お、おい待てって! まだおれ氷ちゃんと触れてねえんだけど!?」


「触れたじゃろ、水を」


「ただの残り水だっただろそれ!」


ベルグはロクスの首根っこをひょいと引っ張る。


「わっ、ちょ、引っ張るな!」


「手が足りん。おぬしも来るんじゃ」


「なんで毎回そうなるんだよおれ!?」


文句を言いながらも、ロクスはそのまま引きずられるように地下倉庫を出ていく。


マーレは目を瞬かせながら、その背中を見送った。


「……行っちまったねぇ」


「はい」


「火ぃついたねぇ」


ラファは小さく頷いたあと、すぐに琥珀へ視線を戻した。琥珀はまだ水瓶を見つめていた。さっきまで小さな氷が浮かんでいたその場所を、名残を追うみたいに見つめている。


頭の中で思い描いたものが、ちゃんと形になった。


それが嬉しかった。


ほんの少し。

本当に、ほんの少しだけ。

でも、自分たちにもできるんだと思えた。


──────────


一方その頃、工房では。


扉が勢いよく開かれ、ベルグがそのまま作業机へ向かった。紙束を引っ張り出し、広げるより早く炭筆を握る。


「載せる……守る……近づける……。冷やしたまま、持ってく……」


紙の上へ、勢いよく線が走る。


箱。枠。囲い。流路のようなもの。車輪。補助の腕。


まだ形にはなっていない。だが、頭の中で繋がり始めたものを止める気は、まるで無かった。


「おい、何から手伝えばいいんだよ!」


「そこの棚の下じゃ。丸い関節のついた試作がある。あと、横に積んどる細長い板も持ってこい」


「急に言われても分かるか!」


「丸い関節じゃ!」


「丸いの多いんだよこの工房は!」


ロクスがぶつぶつ言いながら棚をかき回す。やがて、奥の方に押し込まれていた小さな試作がごとりと音を立てた。


「……これか?」


ベルグが顔を上げる。


「それじゃ」


ロクスが引っ張り出したのは、支援用として組みかけたまま止まっていた試作品だった。小さな補助腕。簡単な支持機構。けれど今まで決定打にはならず、工房の隅に追いやられていたものたち。


ベルグはそれを机の上へ並べる。


「これをまだ使うのか?」


「使えんかったんは、今までの話じゃ。今は条件が変わった」


ベルグの目は真剣だった。


補助腕の角度を見て、支柱の長さを見て、動きの鈍かった関節を確かめる。


「熱に近づけん。近づけても保てん。中で動ける保証もない。……じゃが、補助にはなる」


ロクスはよく分からないまま、次の部品を机へ置いた。


「で、次は?」


ベルグは答えず、ふっと工房の隅へ視線を送った。


そこにあったのは、馬力車だった。


普段なら荷運びや移動に使う、見慣れたそれ。だが今のベルグには、ただの馬力車には見えていなかった。


載せられる。

囲える。

押し出せる。

引ける。


その発想が一気に繋がる。


ベルグの口元が、にやりと歪んだ。


「……おい」


ロクスの顔が引きつる。


「その顔やめろ。なんか嫌な予感しかしねえ」


「ちょうどええのぅ」


「何が!?」


「載せる土台になる。囲いも作れる。引くんもおぬしがおる」


「待て待て待て! なんでおれが引く前提なんだよ! それオレの馬力車だぞ!?」


「今から少し借りるだけじゃ」


「“少し”の顔してねえだろ絶対!」


ベルグはもう聞いていなかった。


馬力車の縁を叩き、車輪の軸を見て、寸法を目で追っていく。机の上の紙へ新しい線が増える。


囲い。補助腕の取付位置。引き手側の防護。前面の厚み。


そして、ロクスの方を見た。


「耐熱も要るのぅ」


「なんで!?」


「おぬしが引くなら前が一番熱に近い。そのままじゃ持たん」


「だからなんで引く前提なんだよ!」


「そこに足が速くて力のある馬族がおるからじゃ」


「雑すぎるだろ理由が!」


怒鳴りながらも、ロクスはもう工房の真ん中に立っていた。ベルグはその周りをぐるりと回り、肩幅や腕の位置を目で測っている。


「支援の補助腕……馬力車……防護板……。組み合わせりゃ、近づけるかもしれん」


「“かもしれん”で改造されるの怖いんだけど!?」


ベルグは答えず、また紙へ線を引いた。


けれど、その手がふいに止まる。


「……いや」


紙の上には、囲われた箱のような形。その周りに補助腕。馬力車の骨組み。ロクスの前面防護。


近づくための器としては、少しずつ形になりかけていた。


だが。


「このままじゃ、冷やせんのぅ」


低い声が落ちる。


「中が熱うなるのが難点じゃ」


ロクスが首を傾げる。


「さっき氷できてたじゃねえか。それ乗せりゃいいんじゃねえの?」


「小さすぎる。保てん。それに、地下のあの冷えは広い空間ごと成り立っとる」


ベルグは紙の上を睨みつける。


「載せるんはできる。近づくんも、まあ形にはできるじゃろ。じゃが……地下倉庫そのものは載せられん。冷えをどう保つ。どう閉じ込める。そこが、まだ足りん」


工房の中が、少しだけ静かになる。


ロクスも今度は口を挟まなかった。よく分からないなりに、ベルグが本気で詰まっているのが分かったからだ。


ベルグは支援ロボ試作を見た。馬力車を見た。紙の上の線を見た。


可能性は、ある。


だが決定打が無い。


「難しいってことか?」


ベルグは、低く息を吐いた。


「難しいんじゃない。足りんのじゃ」


その目は、まだ死んでいなかった。


諦めた目じゃない。

足りないなら、足りる形を探すしかないと決めた目だった。


工房の中では、支援ロボ試作と馬力車が引っ張り出され、使いかけの板や金具が次々と机へ積まれていく。


まだ完成はしない。

今はまだ、答えも出ない。


それでも。


ベルグの中では、確かに何かが動き出していた。


地下倉庫に残った冷たさは、まだ完全には消えていなかった。


水瓶のまわりには、さっきまで舞っていた細かな氷の名残みたいな静けさが残っている。けれど、中心にあった小さな氷はもう無い。


その代わりに、そこには確かに何かが起きたという手応えだけが残っていた。


マーレは、そっと琥珀の方を見る。


琥珀はまだ水瓶を見つめていた。その目は少し明るい。けれど同時に、呼吸の奥にはかすかな疲れも混じっている。


ラファもそれに気づいていたのか、琥珀のすぐそばに寄ったまま離れない。


「……琥珀ちゃん」


やわらかな声だった。


琥珀が振り向く。


「今日は、ここまでだよ。ちゃんと前に進んだんだ。続きは、身体がもう少し戻ってからにしな」


琥珀は少しだけ目を瞬かせたあと、水瓶へ視線を戻した。


「……うん。でも……できたんだよね。ほんの少しだけど」


「できたさねぇ」


マーレは、にっと笑った。


「しかも、あたしら全員がちゃんと見た。見間違いじゃない。だから今は、その一歩を大事にしな」


琥珀はその言葉を聞いて、小さく息を吐いた。


肩に入っていた力が、少しだけほどける。


ラファがそっと声をかける。


「部屋へ戻りましょうか」


「……うん」


その返事は、さっきよりも素直だった。


マーレは腕をまくると、ふたりに向かって顎をしゃくる。


「さあ、ラファ。琥珀ちゃんを部屋に戻しておやり」


「はい」


「それで、少し休ませるんだよ。力をつけるために、美味しいもん作るからねぇ。できるまで、ちゃんと待ってな」


その言葉に、琥珀の目が少しだけ丸くなる。


「……美味しいもの?」


「そうさ」


マーレは、ふっとやさしく笑った。


「進むにしたって、倒れちゃ元も子もないだろう? 食べて、休んで、それからまた考えりゃいいんだよ」


琥珀はほんの少し迷うようにラファを見たあと、こくりと頷いた。


「……分かった。待ってる」


「はい。それでは、失礼します」


ラファは琥珀のそばへ回り、歩幅を合わせるように寄り添う。琥珀も、今度は無理に一人で歩こうとはしなかった。


ふたりは地下倉庫の出口へ向かう。


出ていく前に、琥珀は一度だけ振り返った。


さっきまで、冷たい光が舞っていた場所。

小さな氷が生まれた場所。

水瓶の上に残る、わずかな静けさ。


そこへ視線を置いてから、今度こそ前を向く。


ラファと琥珀の足音が、少しずつ遠ざかっていった。


地下倉庫に残ったのは、マーレひとり。


しんとした空気の中で、マーレはゆっくりと水瓶のそばへ歩いていく。


ひんやりした石床。壁際に並ぶ甕や木箱。地上とは違う、冷たさを抱えた空気。


その真ん中で、さっきまであのふたりが立っていた。


マーレは、水瓶の縁へそっと手を置いた。


まだ少しだけ、冷たい。


「……まったく」


小さく漏れた声は、呆れたようでもあり、どこか笑っているようでもあった。


「2人が来てから、毎日が賑やかになったもんだねぇ」


けれど、その目はやわらかい。


ふと、昔の記憶が胸の奥をかすめる。


幼い頃。おばあちゃんに連れられて行ったライブラリー。高い棚のにおい。少し埃っぽい紙の匂い。静かな声で読んでもらった、古い物語の頁。


はっきり全部を覚えているわけじゃない。


けれど。


誰も見たことのないものを形にするふたり。

不思議な光と風の中で、並んで立つふたり。


そんな場面が、たしかあった気がした。


「……ああいう話だったかねぇ」


独り言のように呟いてから、マーレは小さく首を振る。


記憶は曖昧だ。

昔話なんて、だいたいそんなものだろう。


それでも。


さっき目の前で見た光景は、妙にその物語と重なって見えた。


まるで、おとぎ話の中から、そのまま抜け出してきたみたいに。


マーレはもう一度、水瓶を見た。


「ほんとに……来たんだねぇ」


その声は、誰に聞かせるでもなかった。


地下倉庫の冷えた空気だけが、静かにそれを受け止める。


やがてマーレは息をひとつ吐き、くるりと踵を返した。


「さて。美味しいもん、作らないとねぇ」


その足取りは、少しだけ軽い。


冷えた地下倉庫の中に残った静かな余韻を背に、マーレもまた地上へ戻っていった。

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