第25話
昼。
鐘亭の中は、まだ落ち着ききったとは言えなかった。
避難してきた街の人たち。
足を休める旅人たち。
怪我の手当てを受けた者、ようやく横になれた者、まだ不安げに周囲を見回している者。
朝から続いていた慌ただしさは、ようやく少しだけ緩み始めていた。
それでも、普段の昼の鐘亭とはまるで違う。
食器の触れ合う音。
小さく交わされる声。
寝台に横たわる者の、浅くも確かな寝息。
あちこちに人の気配があるのに、どこか張りつめた空気が残っていた。
ラファは、用意した昼食を持って、マーレと一緒に琥珀の部屋へ入った。
部屋の中は静かだった。
窓辺から入る昼の光が、寝台の端をやわらかく照らしている。
琥珀はその中で、まだ眠っていた。
朝は、香りが届いた時、わずかに反応があった。
お腹が鳴って、目を開けて、少しだけ食べることができた。
けれど今は違う。
温かな香りが部屋に満ちても、琥珀は目を覚まさなかった。
静かな寝息だけが、かすかに続いている。
その中で、ほんの微かに唇が動いた。
「……ラファお姉ちゃん……」
眠りの底からこぼれたような、小さな寝言だった。
ラファの指先が、わずかに止まる。
呼べば起きるかもしれない。
けれど、それをしてはいけない気がした。
「……琥珀ちゃん」
こぼれるように呼んだ声も、眠りを揺らすほどにはならない。
マーレが静かに首を振る。
「今は、寝かせといてやりな」
その声はやさしかったが、迷いはなかった。
ラファは琥珀を見つめたまま、わずかにためらう。
けれど、寝台の上の小さな寝息は、今起こすべきではないと、はっきり教えていた。
「起きた時に、すぐ食べられるようにしとこうかねぇ」
マーレがそう言って、用意してきた昼食を部屋の中に整える。
ラファは小さくうなずいた。
二人は音を立てないように、そっと部屋を出た。
ようやく、みんなも遅い昼を取ることになった。
忙しさの中では忘れていた空腹が、少し手を止めた途端、遅れて身体に戻ってくる。
鐘亭の食堂にも、ようやく食事の匂いが満ち始めていた。
けれど、誰もゆっくり味わうような昼ではない。
ラファは食堂には入らず、琥珀の部屋のすぐそばで食べた。
扉一枚向こう。
それだけでも、少しだけ近くにいられる気がした。
匙を口に運びながらも、意識のどこかはずっと琥珀の方へ向いている。
物音はしないか。
起きた気配はないか。
呼ぶ声は聞こえないか。
耳も、気持ちも、自然とそちらへ向いてしまう。
食べ終えたあとも、それは変わらなかった。
ラファは必要な手伝いをしながらも、何度か扉の方を振り返った。
鐘亭の中では、マーレが避難してきた者たちの様子を見て回っていた。
怪我人の寝台をのぞき込み、水差しの減りを確かめ、足りないものがあればすぐに動く。
街の人にも旅人にも分け隔てなく声をかけ、鐘亭の中の空気が張りつめすぎないように、途切れず場を回していた。
外ではロクスが荷を運び、力仕事を引き受けている。
運び込まれた物を動かし、空いた場所を作り、呼ばれればすぐに振り向いて、また次へ走る。
じっとしている方が性に合わないみたいに、身体の方が先に動いていた。
ベルグは少し離れた場所で、紙に何かを書きつけていた。
書いては止まり、止まってはまた書き足す。
試作の形を追っているのか、途中で眉間を寄せ、紙の上をしばらく睨んだまま動かなくなることもある。
それでも、手を止めたままにはしなかった。
誰も、まだ完全には気を抜いていない。
それぞれの場所で動きながら、それぞれのやり方で、次を探していた。
ひと仕事終え、小腹が空く頃。
マーレの呼ぶ声がした。
「みんな、ちょいと休憩だよ」
鐘亭の中だけではなく、外にも通る声だった。
その声に、外で力仕事をしていたロクスがようやく顔を上げる。
「っはぁ……やっと、ひと息か……」
止まった途端、張っていた力が少し抜けたみたいに、ロクスは腕で額の汗をぬぐった。
動き続けていた疲れが、そこでようやく身体に戻ってきたようだった。
少し離れた場所で紙に向かっていたベルグも、ようやく手を止める。
「……そこだけが、どうしても解けん……」
紙を見下ろしたままの、低いつぶやきだった。
ひとつ何かが引っかかったまま、先へ進みきれずにいるのが、その声だけでも分かった。
ラファも顔を上げる。
休憩。
そう言われた途端、張っていたものが少しだけゆるむ。
けれど次の瞬間には、意識がまた琥珀の部屋へ向いていた。
様子を見ておきたかった。
起きていないか。
苦しそうではないか。
ほんの少しだけでも、確かめたかった。
ラファは自然に、その扉の前へ向かう。
伸ばした手が、ドアノブに触れる。
その時だった。
「今は、入らないよ」
後ろから、静かな声がかかった。
振り向くと、マーレが立っていた。
責めるような声ではない。
けれど、止めるべきところはきちんと止める、そんな声だった。
ラファは一瞬、言葉を失う。
「でも……」
マーレは、自分の耳を、とんとん、と指先で示した。
犬族らしい耳が、ぴくりと小さく動く。
それから、ラファの肩をぽんと軽く叩いた。
「あんたにも、感覚で伝わるだろ?」
その声はやわらかかった。
何かを問いただすわけでもない。
深く踏み込むわけでもない。
ただ、前からなんとなく分かっていたのかもしれない。
ラファが、人とは少し違う気配を持っていることを。
ラファは扉を見つめ、それから小さく息を吐いた。
完全に不安が消えたわけじゃない。
それでも、任せようと思えた。
琥珀の部屋の隣。
何かあれば、すぐに動ける場所。
そこへ、みんなが集まっていく。
隣の部屋に入ると、マーレがすぐに茶を用意した。
湯気が立ちのぼる。
器が卓に置かれる音が、小さく静かに響いた。
みんながそれぞれ腰を下ろす。
ようやく座れた、という空気が、部屋の中に少しだけ広がった。
誰もすぐには口を開かない。
湯気だけが、ゆっくり揺れていた。
ロクスはひとつ息をついてから、目の前の湯のみに手を伸ばした。
ひと口、口をつけた次の瞬間。
「……っはぁ、あっちーーー!」
思わず漏れた声に、部屋の空気が少しだけ揺れる。
その横で、ベルグは何でもない顔で茶を啜っていた。
持ち方も、口をつける間も、年季の入った老人そのものだ。
「たわけぃ、慌てて飲むからじゃよ」
何でもないことみたいに言って、ベルグはもうひと口啜る。
ロクスは顔をしかめながら、湯のみとベルグの顔を見比べた。
それから、真似をするみたいに、もう一度そろりと口をつける。
「……っ、あちー!」
結局また声が漏れて、ロクスは眉を寄せた。
その横で、ベルグがふふん、と小さくロクスを見る。
その様子に、ラファとマーレの口元もほんの少しゆるんだ。
それだけで、張りつめていた空気がわずかにほどける。
隣の部屋では、琥珀がまだ眠っている。
その静けさを壊さないように、誰も次の声を急がなかった。
しばらくのあいだ、誰も口を開かなかった。
湯気だけが、静かに揺れている。
その向こうで、マーレが茶をひと口含み、それからゆっくり息をついた。
「……眠れてるうちに、今分かってることだけでも揃えとこうかねぇ」
やわらかな声だった。
急かすでもなく、重く構えるでもなく。
ただ、今なら話せると分かっているような声だった。
マーレの視線が、ラファへ向く。
「あたしが見てたのは、異変が起きて、琥珀ちゃんが避難指示を出して、あんたが見送るところまでさ」
そこで一度、言葉を切る。
「そのあと、何があったんだい」
ラファはすぐには答えなかった。
手の中の湯のみから立つ湯気を見つめる。
けれど、視線の奥はもう別の場所へ向いていた。
「あのあと……」
ようやくこぼれた声は、小さかった。
「最初は、まだ大丈夫だと思っていました」
静かに、言葉を探すように続ける。
「街の火も、風車の異変も、すぐに収まるかもしれないと……そう思っていたんです」
ラファの指先が、湯のみの縁にそっと触れる。
「でも、違いました」
その短い言葉だけで、場の空気が少しだけ引き締まる。
「熱は、引きませんでした。近づくほど、空気まで歪んでいるみたいで……」
ラファは、そこでいったん口を閉じた。
記憶を辿るように、わずかに眉が寄る。
「琥珀ちゃんが――」
そこまで言いかけたところで、マーレが静かに口を開いた。
「そこは、無理に言わなくていいよ」
やわらかい声だった。
けれど、止めるところはきちんと止める声でもあった。
「つらかった所は、見てりゃ分かるさ」
ラファは小さく息を止める。
それ以上を押し返すでもなく、突き放すでもなく。
ただ、その先を無理に引っ張り出さないように、そっと受け止めるような言い方だった。
マーレは、少しだけ視線を落としたあと、今度は自分の言葉で続けた。
「あの子が起きた時、少しだけ話してくれたのさ」
部屋の空気が、わずかに変わる。
ロクスもベルグも、黙ってその先を待った。
「気づいた時には、壁際にいたって言ってたよ。中で、ひとりだったって」
ロクスの眉がぴくりと動く。
マーレは、そのまま続けた。
「歯車に衣装が引っかかって、そのまま持っていかれると思ったともねぇ」
「……なっ、なんだって!」
ロクスが思わず前のめりになる。
その動きを、マーレが腕を伸ばして静かに制した。
座るようにと示すみたいに、手をゆっくり下ろす。
ロクスは息を詰めたまま、押し返す代わりに唇を結んだ。
ベルグも目を細めたまま、卓の上の一点を見つめていた。
マーレの声は変わらない。
「熱いだけじゃなかったんだろうさ。中そのものが、まともじゃなかったんだろうねぇ」
その一言で、部屋の静けさがもう一段深くなる。
ベルグは低く唸るように息を落とした。
「……中の様子が、そこまで崩れとったとはのう」
さっきまで紙の上で引っかかっていた何かが、別の形で重く沈んだみたいな声だった。
マーレは、二人を見渡した。
「だからこそ、外にいたあんたらが見たもんも知っときたいんだよ」
その声で、場の視線が自然とロクスとベルグへ向く。
風車の外で、何が起きていたのか。
今度は、それを聞く番だった。
ロクスは、しばらく黙ったまま湯のみを見つめていた。
さっきまでの軽い空気が、もう一度ゆっくり引いていく。
それでも、今度は目を逸らさなかった。
「……近づこうとは、したんだ」
ぽつりと落ちた声は、いつもの勢いを少しだけ抑えていた。
「何とかならねぇかと思って、何回も見た。回りもした。道がねぇかも探した」
握った湯のみの縁に、指先がじわりと力を込める。
「でも、駄目だった」
短い言葉だった。
けれど、その中に焦りも、悔しさも、全部詰まっていた。
「熱い、とか、そういうだけじゃなかったんだよ」
ロクスは顔を上げる。
「あれは……何て言えばいいんだろうな。近づくほど嫌な感じがした。入るなって言われてるみてぇな」
部屋の中が静かになる。
「風車が、拒んでるみたいだった」
その言葉を、誰もすぐには否定しなかった。
ベルグが、低く息を落とす。
「儂も似たようなもんを感じとったよ」
湯のみを置く音が、小さく響く。
「熱そのものも異常じゃ。じゃが、それだけならまだ対処のしようはある」
ベルグの視線は、卓の上ではなく、その向こうの何かを見ていた。
「近づこうとすると、熱の流れが妙に変わる。風向きとも違う。逃がそうとしても、寄ろうとした所へ返してくるみてぇにのう」
ロクスが顔をしかめる。
「ああ、あった。あれ、まとわりつくみてぇで気持ち悪かった」
ベルグは小さくうなずいた。
「風車の周りだけ、まるで別の場所になっとった」
マーレは黙って二人の話を聞いていた。
急かさず、遮らず、ただ一つずつ受け取るように。
ラファもまた、静かに耳を傾けている。
琥珀が中で見たもの。
外にいた三人が見たもの。
少しずつ、それが同じ形を持ち始めていた。
ベルグが、卓の端に置いていた紙へ視線を落とす。
「今の試作じゃ、届かん理由がそこじゃ」
低い声だった。
「熱を避けるだけじゃ足りん。耐えるだけでも足りん。近づくまでで押し返されるなら、それ以前に話にならん」
紙の上に書かれた線は、途中で止まったままだった。
「中へ入れたとしても、今度は中で動ける保証がない」
その一言で、ラファの指先がわずかに止まる。
ベルグは続ける。
「足場が崩れ、歯車が剥き出しで、引っかかれば持っていかれる。そんな所へ、ただ届くだけのもんを作っても意味がない」
ロクスが低く吐き捨てるように言う。
「じゃあ、今あるもんじゃ全部足りねぇってことかよ」
ベルグはすぐには答えなかった。
答えたくないのではなく、認める重さを飲み込んでいるみたいだった。
やがて、短く息を吐く。
「……足りん」
部屋の空気が、重く沈む。
けれど、それで終わりにはならなかった。
ベルグは紙から目を上げる。
「じゃが、何が足りんのかは少し見えてきた」
ロクスも、ラファも、マーレも、その先を待つ。
「近づけるだけじゃ駄目じゃ。中で動けること、引っかからんこと、熱をまともに受けんこと……少なくとも、その辺りを一緒に考えんとならん」
マーレが、ゆっくりとうなずいた。
「一人でどうにかする前提じゃ、駄目ってことだねぇ」
その言葉に、ラファのまなざしがわずかに揺れる。
今度は一緒に――
そこまではまだ誰も言わない。
けれど、その輪郭だけは、確かにそこへ浮かび始めていた。
その時だった。
隣の部屋から、かすかな物音がした。
小さな、布の擦れるような音。
全員の視線が、同時に扉の方へ向く。
湯気の揺れまで止まったような静けさの中で、
もう一度、微かな気配が続いた。
その気配を、最初に拾ったのはマーレだった。
けれど、声が上がるより早く、ラファは立ち上がっていた。
椅子が小さく鳴る。
次の瞬間には、もう琥珀の部屋へ駆けている。
扉を開けた先にあったのは、思っていたような苦しげな姿ではなかった。
窓から、やさしい風が入り込んでいる。
薄く揺れるカーテン。
その向こうで、琥珀は自分で上半身を起こし、窓の外を眺めていた。
風に揺れた髪が、やわらかく肩をなでている。
ラファは、そこでようやく息をついた。
「琥珀ちゃん!」
その声に、琥珀がゆっくりと振り向く。
まだ少し眠たそうな顔のまま。
けれど、その口元にはちゃんと笑みが浮かんでいた。
「……おはよう」
やわらかな声だった。
たったそれだけの一言なのに、張りつめていたものが一気にほどけそうになる。
ラファは、言葉にならないまま、ただ琥珀を見つめた。
その後ろから、扉の外にロクスとベルグの気配が寄ってくる。
心配そうに中をのぞき込みかけた、その時だった。
「こら、男共は隣で待ってな!」
マーレの一喝が飛ぶ。
「着替えさせるんだから、入るんじゃないよ!」
ロクスがぴたりと止まり、ベルグも扉のところで足を止めた。
二人そろって押し返されたみたいに、わずかに身を引く。
部屋の中では、やわらかな風がまだ揺れている。
琥珀は起きた。
それだけで、この場の空気は確かに変わり始めていた。
しばらくして、琥珀が戻ってきた。
着替えを終え、ラファに支えられながら、ゆっくりと隣の部屋へ入ってくる。
身につけているのは、いつもの青いドレスだった。
見慣れた姿に戻っているはずなのに、歩幅はまだ小さく、身体の奥に疲れが残っているのが分かる。
それでも、自分の足でここまで来たのだということが、その姿だけで伝わってきた。
琥珀はみんなの前まで来ると、少しだけ申し訳なさそうに眉を下げた。
「……心配かけて、ごめんなさい」
そう言って、部屋の中を見回す。
ベルグが先に口を開いた。
「おはようじゃ」
ロクスもすぐに続く。
「おはようさん」
二人とも、重くならないようにするみたいに、やわらかく笑っていた。
その迎え方に、琥珀の肩の力が少しだけ抜ける。
椅子に腰を下ろすと、すぐ隣にラファも座った。
表からは見えない机の下で、そっと手が重なる。
琥珀の指先は、まだ少し冷えていた。
けれど、ラファの手の温かさが伝わると、それだけで胸の奥の強張りがわずかにゆるむ。
しばらく、琥珀は口を開かなかった。
けれど、逃げるみたいに黙り込むのではなく、言葉を探している沈黙だった。
やがて、机の下の手をぎゅっと握る。
それから、ラファの顔を見た。
ラファは何も言わない。
ただ、静かに見返して、小さくうなずいた。
それだけで、琥珀はようやく最初の言葉を出した。
「……歯車に、挟まれたの」
声は少しかすれていた。
「必死で……どうにかしようとしてて……その時は、もう、何がどうなってるかも分からなくて……」
そこで一度、息が詰まる。
琥珀の肩がわずかにこわばるのが見えた。
机の下で、もう一度手を握る。
ラファの手は、変わらずそこにあった。
琥珀はまたラファの顔を見る。
今度はさっきより少しだけ早く、自分から前を向けた。
「外れた時、そのまま壁に叩きつけられて……」
小さく唇を噛む。
「その時に、カチューシャが……下に落ちたの」
そこまで言うと、また一瞬だけ言葉が止まる。
けれど今度は、沈黙は長く続かなかった。
握った手の温かさを確かめるように、指先に少し力を込める。
「下の方から、すごい蒸気が上がってた……」
その声に、ベルグの目がわずかに細くなった。
ロクスも、無意識みたいに前のめりになる。
琥珀は続けた。
「床が抜けた時に、少しだけ見えたの。歯車だけじゃなくて……」
そこで、また少しだけ眉を寄せる。
「下から押し上げる棒みたいなのがあって、それで歯車が回ってたの」
琥珀は、そこで少し呼吸を整える。
「それに……歯車から離れた歯車を回すために、繋ぐ棒みたいなのもあった……」
言いながら、琥珀の目が少しだけ変わる。
怖さの中に埋もれていた断片が、ただの恐怖じゃなく、“見たもの”として形を持ち始めていた。
ベルグがそこでわずかに身を乗り出す。
初めて聞く動きだった。
けれど、口は挟まず、そのまま先を待つ。
琥珀は、そこで少しだけ呼吸を整えた。
最初に話し始めた時よりも、声はわずかに落ち着いている。
もう一度、話そうとする。
けれど次に出ようとした言葉は、そこで止まった。
「……ラファお姉ちゃんが外にいた時に、一緒にいられた所までは……」
琥珀の眉が寄る。
「後は、うまく覚えてなくて……」
悔しそうに、小さくこぼす。
「たぶん……すごく必死で……衝撃が強かった所だけ、残ってて……その間が……」
言葉は、そこで途切れた。
部屋の中に静けさが落ちる。
誰も急かさなかった。
マーレが、そこでふっと息をつく。
「十分だよ」
やさしい声だった。
「そこまで話せりゃ、上出来さね。少し休みな」
その言葉に、琥珀はようやく肩の力を抜いた。
机の下では、まだラファの手を握ったままだった。
マーレは、ひとつ手を打つみたいにして空気を切り替えた。
「はい、ここで少し休憩だよ」
張っていた空気を無理にほどくでもなく、けれどそのまま引っ張りすぎない声音だった。
琥珀も、ほっとしたように小さく息をつく。
マーレはそのまま、琥珀の方へ顔を向けた。
「琥珀ちゃんは、冷たいのと温かいの、どっちにする?」
問いかけられた琥珀は、一瞬だけ考えてから答える。
「……冷たいの」
「分かったよ」
マーレは頷くと、琥珀には冷えた水を、ほかのみんなには温かい茶を用意し始めた。
器の触れ合う音が、静かに部屋へ戻ってくる。
少し前まで風車の中の話をしていたのに、こうして飲み物が出るだけで、場がまた生活の方へ引き戻されるのが不思議だった。
琥珀は差し出された水の器を受け取り、そっと両手で包む。
ひんやりとした冷たさが、指先へ伝わった。
その隣で、ロクスは茶をひと口飲んだ。
「あっちーーー!」
思わず漏れた声に、さっきまで少し和らいでいた空気が、また小さく揺れる。
「学習しとらんのー」
ベルグが呆れたようにひとことこぼした。
ロクスは顔をしかめたまま、熱そうに口の前をあおぐ。
その様子を見た琥珀が、持っていた冷たい水をそっと差し出した。
「これ……飲む?」
「お、おう、助かる……」
ロクスは素直に受け取り、そのままごくりと飲む。
その横で、ラファの頬がほんの少しだけ膨らんだ。
何も言わない。
けれど、それが本当は琥珀のための水だったことは、ちゃんと顔に出ていた。
琥珀はそれに気づいて、わずかに目を丸くする。
けれど今は笑うより先に、別のことが引っかかった。
ロクスの手の中の器を見る。
自分が口にした時にも感じた、あのはっきりした冷たさ。
琥珀は、そこで小さく首をかしげた。
「……これ、どこで冷やしてるの?」
その一言に、マーレが振り向く。
「ん?」
「この世界に来てから、冷たい水は飲んでたけど……どうやって冷やしてるのか、ちゃんと知らなくて……」
琥珀は器の縁に視線を落としながら続けた。
「鐘亭って、こういうの、どこで冷やしてるの?」
マーレは少しだけ目を細める。
「地下の倉庫さ」
それは当たり前のことみたいに返された答えだった。
「石で囲ってあってね、地上よりずっと冷えるんだよ。水も食べ物も、すぐ傷ませたくないもんは、だいたいそっちさね」
琥珀の目が、わずかに開く。
ベルグも、そこで顔を上げた。
ロクスは冷たい水を飲み終えて、ようやく息をつきながら二人のやり取りを見ている。
「地下……」
琥珀はその言葉を、小さく繰り返した。
視線が少しずつ、何かを繋ぎ始める時のものに変わっていく。
「見てみても、いい?」
その声はまだ強くはない。
けれど、さっきまでの“思い出すための声”とは違っていた。
自分の中で浮かび始めたものを、確かめに行きたい声だった。
マーレはそんな琥珀を見て、ふっと息をゆるめる。
「無茶しないなら、いいよ」
その返事に、琥珀は小さくうなずいた。
机の下では、まだラファの手の温もりが残っている。
その温かさを確かめるように、琥珀はそっと指先を動かした。
次に向かう先が、少しだけ見え始めていた。
地下倉庫へ向かう時も、琥珀はラファと一緒だった。
鐘亭の奥へ進み、階段を下りていく。
地上の空気が少しずつ遠ざかるにつれて、肌に触れる温度が変わっていった。
下へ行くほど、空気がひんやりとしていく。
石造りの壁は昼の熱を寄せつけず、足元からじわりと冷たさが伝わってくるようだった。
「……涼しい」
琥珀が小さくこぼす。
マーレが前を歩きながら、振り向かずに答えた。
「地上より、ずっと冷えるからねぇ。食べ物も水も、傷ませたくないもんは大体ここさ」
地下倉庫の中には、水瓶や木箱、布をかけられた籠がいくつも並んでいた。
乾物、根菜、傷みやすいもの。
それぞれ置き場所を分けて保管されているらしい。
隅の方には、水を冷やしておくための大きな甕も見える。
琥珀はその空気を胸いっぱいに吸い込みながら、ゆっくりと見回した。
冷たい。
でも、凍るほどではない。
その違いを身体が自然に感じ取っていた。
「これで冷やしてるんだね……」
琥珀がそう呟くと、マーレが振り向いた。
「そうさ。井戸水と一緒で、こっちは自然に冷えるからねぇ」
琥珀は少し考え込むように目を細める。
それから、ふと顔を上げた。
「……氷は無いの?」
その場の空気が、少しだけ止まった。
マーレが目を瞬かせる。
「こおり?」
ベルグも眉を寄せる。
「こおり……そりゃなんじゃ?」
ロクスも、何のことだという顔で琥珀を見る。
琥珀は少しだけ目を丸くした。
当たり前みたいに口から出た言葉が、ここではそうじゃなかったのだと、その反応で初めて分かる。
「えっと……水が、すごく冷たくなって……固くなるの」
そう言いながら、自分でも少し曖昧だと分かっていた。
言葉にしたところで、この冷たさしか知らない場所では、すぐには伝わらない。
マーレは首をかしげたまま、甕の水に手を添える。
「こんだけ冷えりゃ十分だと思ってたけどねぇ」
ベルグは、石壁や甕の並びを見回しながら、低く唸るように息を落とした。
「水が固まる、か……」
その声は、否定ではなかった。
知らないものに触れた時の、職人の引っかかり方だった。
琥珀は、地下の空気をもう一度感じる。
冷えた石。
冷えた水。
けれど、ここにはまだ“あと少し”が足りない。
その時だった。
胸の奥で、何かが小さく繋がる。
地下の冷気。
水。
そして――マナと、クラフト。
琥珀ははっとしたようにラファを見る。
ラファもまた、琥珀の目の奥に何かが灯ったのを感じたのか、静かに見返した。
「……ラファお姉ちゃん」
その呼びかけだけで、ラファには十分だった。
琥珀が何を考えたのか、まだ全部は分からない。
けれど、今ここで一緒にやるべきことがあるのだとは分かった。
ラファは、そっと頷く。
琥珀は小さく息を吸った。
まだ身体は万全じゃない。
頭の奥にも、疲れは残っている。
それでも。
今、ここで試してみたいと思った。
琥珀はラファへ手を伸ばす。
ラファもまた、その手を取った。
両手が重なる。
次の瞬間、二人の周りに淡い光がふわりと灯った。
やさしい風が、地下のひんやりした空気の中を静かに巡る。
マーレが息をのむ。
ロクスが目を見開く。
ベルグの視線が、二人の手元へ釘づけになる。
琥珀とラファの間へ、少しずつ、光が集まり始めていた。




