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第24話

朝。


昨日までの暑さが嘘みたいに、街の空気は静かに落ち着いていた。


夜のあいだに熱は少しずつ引き、石畳にも、屋根の上にも、ようやく朝らしいひんやりとした空気が戻り始めている。


それでも――


ある一か所だけは、まだ別だった。


街を見下ろす風車の周りだけが、いまだ熱を抱えたまま、かすかに揺らいでいる。


陽炎の名残みたいな歪みが、朝の光の中でも消えきらない。


まるで、あの場所だけがまだ昨日の異変の中に取り残されているみたいだった。


ベルグは、一晩じゅうその風車を見上げていた。


何か手はないか。


残されたものの中に、使えるものはないか。


熱を越えて届く方法はないか。


考え続けた末、夜明け前には工房へ戻っていった。


あのベルグにしては珍しく、その背中はひどく静かだった。


ロクスもまた、夜のうちに街へ駆け出していた。


異変がどこまで残っているのか。


風車の周りだけなのか、それとも他にも何かあるのか。


馬族の仲間たちと手分けしながら、今も街のあちこちを走り回っている。


朝の空気は落ち着いていても、あれで終わったわけじゃない。


そのことを、誰より肌で感じているみたいだった。


マーレは、まだ眠っていた。


昨日の避難の受け入れも、夜の処置も、全部まとめて背負うように動いていたのだから、無理もない。


風月の鐘亭の中は、まだ朝の静けさをそのまま残している。


廊下も、広間も、いつもよりずっと声が少なかった。


そんな中で。


ラファは、静かな厨房に立っていた。


窓から差し込む朝の光が、横顔をやわらかく照らしている。


鍋のそばに立ち、火加減を見ながら、手元を静かに動かしていた。


昨夜、治療書を追っていた時とはまた違う顔だった。


眠っていない目。


けれど、ただ揺れているだけでもない目。


何かを確かめるように。


何かを支えるように。


ラファは、壊れかけた昨日の続きに、静かな朝を置こうとしていた。


やがて、やわらかな湯気と一緒に、あたたかな香りが厨房からそっと広がり始める。


止まっていたみたいな鐘亭の朝が、そこから少しずつ動き出そうとしていた。


──────────


やがて、その香りが、眠りの中のマーレの鼻先をそっとくすぐった。


重たかった意識が、ゆっくりと浮かび上がってくる。


マーレは寝台の上で小さく身じろぎして、ゆっくり目を開けた。


窓の外は、やわらかな朝の光に満ちている。


昨日までの熱気が嘘みたいに、空気は静かだった。


けれど、胸の奥にはまだ、何かが終わりきっていない感覚が残っている。


マーレはひとつ息を吐いて、身体を起こした。


そして、漂ってくる香りに導かれるように、ゆっくりと厨房へ向かう。


廊下を抜けた先に、ラファの姿があった。


鍋の前に立ち、湯気の向こうで静かに手を動かしている。


その横顔を見て、マーレはふっと目を細めた。


「おはよう、ラファちゃん」


声をかけると、ラファがわずかに振り向く。


「……おはようございます、マーレさん」


「すごくいい香りだねぇ。ラファちゃんが作ってるのかい?」


ラファは小さくうなずいた。


「はい。あまり難しいものではありませんが」


「十分だよぉ」


マーレはやわらかく笑って、厨房の入口に立ったまま湯気を見つめる。


ことり、と鍋の中が小さな音を立てた。


それだけで、止まっていたみたいな鐘亭の朝が、少しずつ戻ってきている気がした。


「眠れてなかったんじゃないかい?」


マーレがやさしく聞く。


ラファの手が、ほんの一瞬だけ止まった。


「……少しだけ」


「そうかい」


マーレはそれ以上は言わなかった。


代わりに、ラファの手元へ視線を落とす。


不安に立ち尽くしているんじゃない。


何かを支えるために、こうして朝を動かしている。


そのことが、静かな背中からちゃんと伝わってきた。


「じゃあ、その朝を作る役目、少しだけ一緒にやろうかねぇ」


そう言って袖を軽くまくる。


湯気の向こうで、鐘亭の朝が今度こそ静かに動き始めた。


──────────


朝の光が差し込むベルグの工房は、昨夜の続きがそのまま残っていた。


作業台の上には、使いかけの部材や道具が広がったままになっている。


床にも、試作の名残みたいな小さな金具や板が転がっていた。


その真ん中で、ベルグはもう黙々と手を動かしていた。


細い筒の先を削り、曲がった留め具を確かめ、別の板を引き寄せる。


ひとつひとつの動きに迷いはない。


けれど、その背中には昨夜のうちに答えへ届かなかった重さが、まだ静かに残っていた。


そこへ、ばたん、と勢いよく扉が開く。


「ベルグじい!」


ロクスだった。


朝の空気をそのまま引き連れてきたみたいに、肩で息をしながら工房へ飛び込んでくる。


「街ん中はだいぶ落ち着いた! もう熱気もほとんど残ってねぇ!」


言いながら、一歩詰め寄る。


「でも、風車のとこだけは別だ。まだ近づくだけでむわっと来る。あそこだけ、全然終わってねぇ」


ベルグは手を止めず、短く返した。


「……そうか」


「そうか、じゃねぇだろ」


ロクスが眉を寄せる。


「だから来たんだよ。ベルグじい、何かあんだろ」


ベルグはようやく手元から目を離し、ロクスを一瞥した。


「あったらもう持ってっとる」


「じゃあ作れよ」


「作っとる最中じゃ」


ぴしゃりと返されても、ロクスは引かない。


作業台の上へ身を乗り出し、並べられた部材を覗き込む。


薄い板に、細い筒。


小さな羽みたいな形をした金属片。


見慣れない組み合わせがいくつも並んでいて、何を目指しているのかは一目では分からない。


けれど、ただのガラクタではないことだけは伝わってきた。


ベルグはその中のひとつを取り上げる。


筒の先へ別の部材を噛ませ、留め具を締め直し、火元のそばへ持っていく。


ロクスの耳がぴくりと動いた。


「それで行けんのか?」


「黙って見とれ」


「見てるだけで分かるかよ」


「お前が触るとろくなことにならん」


「ひでぇな!?」


ロクスが口を尖らせる。


その横で、ベルグは構わず手元を動かし続けた。


熱を受けた金属が、かすかに鳴る。


筒の先が小さく震え、羽みたいな部品がわずかに動いた。


「あ」


ロクスが目を見開く。


「今、動いた!」


身を乗り出す。


「いけるんじゃねぇか!? 今の、ちょっと――」


次の瞬間だった。


ぼんっ、と鈍い音が響いた。


白い煙が一気に膨らみ、小さな部材が弾け飛ぶ。


「うわっ!?」


ロクスが飛びのき、ベルグが顔をしかめる。


焦げた匂いが一気に工房へ広がった。


「げほっ……!」


「だから触るなと言ったんじゃ!」


「今のオレのせいか!?」


「半分は!」


「半分はってことは半分は違うんだろ!?」


「うるさいわ!」


煙を払いながらベルグが怒鳴る。


ロクスは眉を吊り上げたまま、床へ転がった部材を拾い上げた。


まだ熱を残していたのか、指先がぴっと跳ねる。


「熱っ!」


「素手で触るな!」


「先に言えよ!」


「見れば分かるじゃろうが!」


怒鳴り合いみたいな応酬なのに、どこか妙に息は合っていた。


けれど、笑って済ませられるほど軽くもない。


ロクスは拾った部材を作業台へ戻しながら、焦げ跡のついた先端を睨んだ。


「……今の、惜しかったんじゃねぇのか」


ベルグは答えなかった。


壊れた箇所を持ち上げ、歪みを確かめる。


焦げた留め具。


熱で歪んだ板。


ほんの少し動いただけで、もう持ちこたえられていない。


「惜しくない」


低く、短い声だった。


「これでは焼ける」


ロクスが唇を噛む。


「でも、さっき動いたろ」


「動くだけなら何でも動く」


ベルグは壊れた部材を置いた。


「問題は、その先じゃ」


工房の中が、ふっと静かになる。


さっきまでの煙が薄れていくにつれて、焦げた匂いだけが残った。


ロクスは作業台の端に手をついたまま、しばらく黙っていた。


脳裏に、昨日の光景がよみがえる。


赤く揺れる風車。


割れた窓。


そこから飛び出してきた、小さな影。


あの高さ。


あの熱。


受け止められたからよかった、なんて言葉では到底済まない。


一歩違っていたら、終わっていた。


ロクスの喉が、ごくりと鳴る。


「……あれ、やばいなんてもんじゃなかった」


ぽつりと落ちた声は、さっきまでよりずっと低かった。


「次、間に合わなかったら終わりだ」


ベルグは何も返さない。


ロクスは拳を握る。


「だから急がねぇと駄目なんだよ。もう一回あんなことになったら――」


言いかけて、止まる。


その先を、口にしたくなかった。


ベルグは壊れた試作を見つめたまま、しばらく黙っていた。


やがて、深く息を吐く。


「……噛み合わん」


ロクスが顔を上げる。


ベルグの目は、作業台の上に並ぶ部材の向こうを見ていた。


「熱を防ぐだけでは届かん。届くだけでも意味がない」


ひとつ、またひとつと、部材へ視線を落としていく。


「中まで入って、動けて、持ちこたえて、連れて戻る」


その言葉は、自分に言い聞かせるみたいでもあった。


「どの組み方をしても、どこかが足りん」


ロクスが息を詰める。


ベルグが「無理だ」と投げる人間じゃないことは分かっていた。


そのベルグが、今こうして詰まっている。


その事実が、さっきの爆発よりずっと重かった。


「……じゃあ、どうすんだよ」


ロクスの声は、いつの間にか少しだけ弱くなっていた。


ベルグはすぐには答えない。


ただ、作業台の端に追いやられていた別の試作品へ手を伸ばす。


使われずに残っていたものたち。


昨夜のうちには、答えにならなかったものたち。


そのひとつを持ち上げ、重さを確かめるように見つめる。


「どうもせん、とは言っとらん」


ぽつりと、そう言った。


ロクスが黙る。


「今のままでは届かん。じゃが……止める理由にもならん」


ベルグは焦げた工房の空気の中で、また次の部材を引き寄せた。


ロクスも、散らばった試作品へ視線を向ける。


さっきまでただのガラクタに見えていたものが、今は少しだけ違って見えた。


まだ答えはない。


けれど、ここで終わりでもない。


工房の中に差し込む朝の光が、散らばった部材の上を静かに照らしていた。


──────────


風月の鐘亭では、朝の支度が少しずつ整い始めていた。


厨房に立ちのぼる湯気はやわらかく、鍋の中からは穏やかな香りが広がっている。


木の器が並べられ、盆の上には温かな汁物と、やわらかく煮たものが少しずつ置かれていく。


派手ではない。


けれど、弱った身体にも入りやすいように考えられた、やさしい朝の形だった。


ラファは、その一つ一つを静かに盆へ整えていた。


器の位置がずれないように。


こぼれないように。


熱すぎないように。


手元の動きは丁寧で、昨夜の看病の延長みたいでもあった。


マーレは、その様子を隣で見ながら、ふっと目を細める。


「すっかり鐘亭の朝を任せられそうだねぇ」


ラファは顔を上げず、小さく返した。


「まだ、見よう見まねです」


「それでも十分だよぉ」


マーレはそう言って、別の器へそっと蓋をした。


少しの間、鍋の音だけが静かに続く。


やがてマーレが、やわらかく言った。


「琥珀ちゃんの分も、持っていってみるかい?」


ラファの手が、ほんのわずかに止まる。


「……食べられるでしょうか」


「まだ分からないねぇ」


マーレは肩をすくめるように笑う。


「でも、香りで起きることだってある。あの子、そういうところ分かりやすそうだしねぇ」


その言葉に、ラファはほんの少しだけ視線を落とした。


不安がないわけじゃない。


昨夜の熱。


落ちた意識。


あのまま戻らなかったらという想像は、夜のあいだ何度も胸をかすめた。


けれど今は、その想像より先に、できることをするしかない。


ラファは静かにうなずいた。


「……持っていきます」


盆を持ち上げる。


湯気がふわりと揺れ、あたたかな香りがまたやさしく立ちのぼった。


マーレはその後ろについていく。


廊下はまだ静かだった。


朝の光が窓から細く差し込み、床板の上に淡い帯を落としている。


足音を立てすぎないように歩きながら、ラファは盆をしっかり支えた。


琥珀の部屋の前で、わずかに足を止める。


それから、静かに扉を開けた。


部屋の中は穏やかだった。


昨夜の慌ただしさが嘘みたいに、空気は静かに落ち着いている。


寝台の上では、琥珀がまだ眠っていた。


呼吸は昨夜よりもずっと穏やかで、苦しそうな熱の色も、もう強くは残っていない。


それでも、まだすぐに起き上がれるような軽さではなかった。


ラファは寝台のそばへ歩み寄り、盆をそっと近くの台へ置く。


その瞬間、あたたかな湯気と香りが、静かな部屋の中へふわりと広がった。


汁物のやさしい香り。


煮た野菜の甘い匂い。


朝そのものみたいな、ほっとする匂いだった。


眠ったままの琥珀の耳が、ぴくりと揺れる。


ラファが目を上げる。


マーレもその小さな変化に気づいて、口元をゆるめた。


「ほらねぇ」


小さく囁くように言う。


その直後だった。


きゅるるる……。


静かな部屋に、思ったよりはっきりとした音が響いた。


一瞬、空気が止まる。


ラファがぱちりと目を瞬かせる。


寝台の上の琥珀は、まだ眠ったままだった。


けれど、お腹だけは正直だったらしい。


数拍遅れて、マーレが吹き出す。


「ふふっ……あははっ」


肩を揺らしながら、たまらず口元を押さえる。


「もう、ほんとに琥珀ちゃんだねぇ……!」


その笑い声に引かれるみたいに、琥珀のまぶたがかすかに震えた。


ふわり、と呼吸が揺れる。


閉じたままの瞳の奥で、意識が浅いところまで浮かび上がりかけているようだった。


ラファがそっと息をのむ。


けれど、ここではまだ急がない。


目の前の小さな変化を、壊さないように見守るだけだった。


部屋の空気が、一気にやわらかくなる。


張りつめていた何かがほどけて、ようやく“帰ってきた朝”がそこに落ちた気がした。


──────────


笑いの余韻が、まだ部屋の空気にやわらかく残っていた。


琥珀のまぶたが、もう一度かすかに震える。


長い睫毛のあいだから、ぼんやりとした視線が少しずつ浮かび上がってきた。


けれど、まだ焦点は定まらない。


夢の続きみたいに揺れる視界の中で、いちばん近くにあったのはラファの顔だった。


「……琥珀ちゃん」


呼ぶ声は、やさしく静かだった。


静かなのに、それだけで分かる。


ずっと、そばにいたのだと。


琥珀はかすかに唇を動かした。


けれど、うまく声にはならなかった。


喉の奥が少しひりつく。


身体も、まだ思うようには動かない。


起きようとしても、力がうまく入らなくて、肩がほんの少し浮いただけで止まってしまった。


ラファがすぐに身を寄せる。


「無理しないでください」


そう言って、背中へそっと腕を差し入れた。


急がせないように。


負担をかけすぎないように。


ラファは琥珀の身体を少しずつ支え起こしていく。


背中にあたる腕の感触と、寄り添う体温が、現実へ戻るための支えみたいだった。


「ほらぁ、ゆっくりでいいからねぇ」


マーレの声も、やわらかく続く。


琥珀は小さく息を吸って、ようやく少しだけ上半身を起こした。


それだけで、思った以上に身体が重い。


視界がまだふわふわと揺れている。


けれど、さっきよりははっきりと、部屋の形が見えた。


窓から差し込む朝の光。


寝台のそばの小さな台。


その上に置かれた湯気の立つ器。


ふわりと届く、あたたかな香り。


そこで、また小さくお腹が鳴った。


今度はさっきより控えめな音だったけれど、それでも部屋の中には十分響いた。


マーレがまた肩を揺らす。


「食べられそうだねぇ」


琥珀はぼんやりしたまま、少しだけ恥ずかしそうに目を伏せた。


まだ頭はうまく回らない。


けれど、香りが近くにあるだけで、身体の奥がほっとする。


ラファが器を手に取った。


「少しずつにしましょう」


木の匙で、やわらかく煮えた具と汁をすくう。


熱すぎないことを確かめてから、琥珀の口元へそっと運んだ。


琥珀はゆっくり口を開ける。


ひとくちぶんだけ含んで、ゆっくりと噛む。


やわらかい。


あたたかい。


喉を通る時、少しだけひりついたけれど、それでもちゃんと飲み込めた。


その熱は、風車の中で焼きついた熱とは違っていた。


身体の奥に静かに落ちていく、やさしい温度だった。


琥珀はもうひとくち、今度は少しだけ落ち着いて受け取る。


噛みしめるたびに、ばらばらだった感覚が少しずつひとつに戻っていく気がした。


ラファは急かさない。


琥珀の飲み込む速さを見ながら、ひとくちずつ間をあけて運ぶ。


その手つきはゆっくりとして慎重で、ラファのやさしさがにじんでいた。


何口か食べたところで、琥珀の視線がふと落ちた。


自分の身体に巻かれた布。


切られた箇所を補うように当てられた包帯。


手当てのために整えられた寝間着代わりの布。


ところどころ、まだ熱の名残みたいに赤みの残る肌。


琥珀の呼吸が、ほんの少しだけ止まる。


いまの自分が、思っていた以上に“無事ではなかった”ことを、そこでようやく目で知ったみたいだった。


指先が、膝の上でわずかに強ばる。


ラファがその変化に気づいて、匙を持つ手を少し止めた。


「……琥珀ちゃん」


呼びかける声は静かだった。


琥珀ははっとしたように顔を上げる。


「だ、大丈夫……」


声はまだ弱く、かすれていた。


それでも、無理に笑おうとした気配だけは伝わった。


マーレがその空気をやわらかく受け止めるように、そっと口を開く。


「そうだ。琥珀ちゃん、昨夜ねぇ」


部屋の隅へ置いてあった包みを取りにいく。


戻ってきたマーレの手には、きれいに畳まれた衣装があった。


見慣れた、あの服だった。


「“そのまま残してほしい”って、眠る前に小さく言ってたんだよぉ」


マーレはやさしく笑う。


「治療の都合で少しだけ切らせてもらったけど、捨ててはいないよ。ほら、ここにある」


そう言って、寝台のそばへそっと置く。


ラファの腕に支えられたまま、琥珀はその衣装を見つめた。


しわを整えるように畳まれていても、昨日の痕跡は残っていた。


布の端の焦げ。


裂けたところを避けるように折られた線。


少しだけ色を変えた部分。


「……ありがとう」


小さくそう言って、琥珀は衣装へ手を伸ばした。


指先が、そっと布の上に触れる。


その瞬間だった。


喉の奥が、ひり、とした。


熱。


赤い光。


耳の奥で、ぎし、と何かが軋む。


足の下から、感触が抜ける。


息が詰まる。


落ちる、と思った一瞬。


琥珀の指先が、衣装の上でぴたりと止まった。


視線は落ちたままなのに、焦点はもう布の上にはないみたいだった。


呼吸が、さっきより少しだけ浅くなる。


ラファの腕の中で、その小さな変化だけが静かに伝わってきた。


──────────


ラファの腕の中で、琥珀の身体がわずかに強ばった。


ほんの小さな変化だった。


けれど、すぐそばで支えていたラファにははっきり伝わった。


「……琥珀ちゃん?」


静かに呼びかける。


返事はない。


琥珀の視線は衣装の上に落ちたまま、どこか別の場所を見ているみたいだった。


呼吸が浅い。


胸が小さく上下するたびに、息がうまく入っていないのが分かる。


指先も、さっき布に触れた形のまま止まっている。


「琥珀ちゃん」


ラファがもう一度呼ぶ。


その声で、ようやく琥珀の肩がぴくりと揺れた。


けれど戻ってきたのは視線ではなく、息だった。


ひゅ、と短く吸って、そこでまた詰まる。


喉の奥が熱い。


胸の奥が苦しい。


熱。


赤。


崩れる音。


足の下が消える。


落ちる。


身体の奥で、断片だったものが一気につながりかける。


「っ……」


小さく息をのんだ瞬間、琥珀の指先が震えた。


それはすぐに手の甲へ広がって、腕へ伝わり、支えられている肩口まで細かく揺らし始める。


止めようとしたのか、琥珀はぎゅっと唇を結んだ。


けれど、一度出た震えは思うように止まらなかった。


「だ、大丈――」


言いかけた声が、途中で揺れる。


大丈夫だと言いたかったのだと分かる。


けれど、その言葉の方が先に崩れた。


ラファはすぐに匙を置いた。


空いた手で、衣装に触れていた琥珀の手をそっと包む。


冷たい。


朝食の温かさが少しずつ戻り始めていたはずなのに、その指先だけはひどく冷えていた。


「大丈夫です」


ラファの声は静かだった。


「ここにいます」


それ以上、無理に問いかけない。


何を思い出したのか。


どこまで戻ったのか。


今は聞かない。


ただ、震えをひとりで抱えさせないように、包む手に少しだけ力を込めた。


琥珀の肩がまた揺れる。


喉の奥で息が詰まり、次の呼吸をうまく吸えない。


怖い。


その感覚だけが、言葉より先に身体いっぱいへ広がっていく。


熱かった。


苦しかった。


落ちると思った。


もう駄目だと思った。


そこまで思い出した瞬間、琥珀の身体がびくっと跳ねる。


「や……」


こぼれた声は、自分でも驚くくらい弱かった。


マーレがすぐに表情を変える。


笑いはもう完全に消えていた。


「ラファちゃん、無理に起こしすぎなくていいよぉ。そのまま、少し支えてあげて」


低すぎず、高すぎず、落ち着いた声だった。


場を騒がせないための声。


安心できる場所を崩さないための声。


ラファは小さくうなずく。


背中を支える腕を少しだけ調整して、琥珀が余計な力を入れなくてもいい角度へ寄せる。


琥珀はそのまま、ラファの方へ少しだけ体重を預けた。


自分でそうしようと思ったのか、無意識だったのかも分からない。


ただ、そうしないと震えに身体が負けそうだった。


衣装の上に置かれていた指先が、またかすかに震える。


ラファはその手を包んだまま、もう片方の腕で背を支え続けた。


「もう落ちません」


ぽつりと、そう言う。


言い聞かせるように。


約束するように。


「ここは、風車の中じゃありません」


琥珀のまぶたが震えた。


浅かった呼吸が、少しだけ乱れる。


それでも、ラファの声は変わらない。


「もう、ひとりではありません」


その言葉が届いたのかは分からない。


けれど、琥珀の肩の跳ね方が、ほんの少しだけ弱くなる。


代わりに、押し殺していたものがにじむように、喉の奥から小さな息が漏れた。


「……こわ、かった……」


かすれた声だった。


泣き声にもなりきれないくらい、細い声。


けれど、その一言で十分だった。


ラファの腕の中で、琥珀がようやく“怖かった”ところまで戻ってきたのだと分かった。


マーレは何も急がせない。


ただ、寝台のそばへそっと布を寄せ、琥珀の足元へかけ直す。


朝の光はやわらかいままだった。


部屋の中にはまだ、温かな食事の香りも残っている。


優しい朝はそこにある。


それでも、その朝の中でようやく、昨夜置き去りにされていた恐怖だけが遅れて姿を見せていた。


ラファは琥珀の手を包んだまま、背中へ寄せた腕を離さなかった。


「はい」


返す声は静かで、やわらかい。


「怖かったですね」


否定しない。


軽くしない。


そのまま受け止めるように言う。


琥珀の震えは、まだすぐには止まらなかった。


けれど、さっきまでみたいに、ひとりで落ちていく震えではなくなっていた。


──────────


ラファの腕の中で、琥珀は浅い呼吸を繰り返していた。


震えはさっきより少しだけ弱まっていたけれど、まだ完全には収まっていない。


衣装の上に置かれた指先も、どこか力が入りきらないまま、小さくこわばっていた。


ラファはその手を包み、急がせることなく、ただそばにいる。


マーレも何も促さない。


部屋の中には、朝のやわらかな光と、まだ消えずに残る食事の香りが静かに漂っていた。


その静けさの中で、琥珀がかすかに唇を動かす。


「……気がついたら……」


声は細く、ところどころ途切れそうだった。


ラファの手が、そっと包む力を強める。


琥珀は衣装から目を離さないまま、小さく息を吸った。


「……壁のところ、で……」


言葉を探すように、ゆっくりと続ける。


「どこなのか……分からなくて……」


喉がつまる。


呼吸が少し揺れる。


それでも、ラファの手の温度を確かめるみたいに指先がわずかに動いた。


「ラファお姉ちゃんが……いなくて……」


その一言だけで十分だった。


いつもなら、ふたりでいるはずの場所。


一緒に風車へ向かって、一緒に中へ入るはずだったのに。


気がついた時には、自分ひとりが、知らない場所みたいなところにいた。


その怖さが、今もまだ身体の奥に残っているのが分かった。


マーレは静かに目を細める。


「うん……」


ただ、続きを急がせないための相づちだけを返す。


琥珀の指先が、畳まれた衣装の裂けたところへふれた。


その瞬間、肩がぴくりと揺れる。


「……ここ……」


指が止まる。


焦げた布の端。


裂けた線。


昨日のまま残った傷跡みたいな場所だった。


「これ……歯車に……」


声が震える。


ラファが、包んだ手を離さずにいた。


「引っかかって……」


琥珀はそこで一度言葉を切る。


喉の奥が、また小さく鳴った。


呼吸が浅くなる。


けれど、逃がさないように衣装へ触れたまま、少しずつ言葉をつなげていく。


「そのまま……持っていかれるって……思って……」


ラファの腕の中で、琥珀の身体がまた小さく強ばる。


あの時の感覚が、ただの記憶じゃなく、まだ身体に残っているのが伝わってきた。


布を引かれる感覚。


ぎり、と何かに噛まれるような音。


自分までそのまま巻き込まれるかもしれないと思った、あの瞬間の冷たさ。


琥珀は唇をきゅっと結んで、もう一度息を吸う。


「……その時……」


言いかけて、少しだけ目を閉じた。


ラファの手が、あたたかい。


その温度に支えられるみたいに、琥珀はまた小さく声をこぼす。


「……ラファお姉ちゃんの顔が……浮かんで……」


ラファの瞳が、わずかに揺れた。


琥珀は気づかないまま、続ける。


「行かなきゃって……思って……」


「ちゃんと考える、とか……そんなの、なくて……」


途切れ途切れの声だった。


けれど、その言葉のひとつひとつで十分だった。


どれだけ切迫していたのか。


どれだけ余裕がなかったのか。


どれだけ必死だったのか。


「……ただ……無我夢中で……」


そこまで言ったところで、琥珀の呼吸がふっと乱れた。


肩から力が抜けかける。


ラファがすぐに背中を支える腕へ少しだけ力を込めた。


「もう大丈夫です。ゆっくりで」


低く、やさしい声だった。


琥珀は小さくうなずこうとしたのかもしれない。


けれど、その動きも途中でほどける。


張りつめていたものが、少しずつ切れていくみたいだった。


「……ごめん、なさ……」


「謝らなくていいです」


答えはすぐだった。


ラファの声は揺れない。


それが、逆に琥珀を安心させたのかもしれなかった。


衣装に触れていた手から、少しずつ力が抜けていく。


指先が布の上をかすかに滑り、離れそうになるのを、ラファがそっと支える。


琥珀の身体が、ゆっくりとラファにもたれた。


自分でそうしようとしたのか、力が尽きたのかは分からない。


ただ、もう抗わなくていいと身体が思い出したみたいに、重みが静かに預けられてくる。


まぶたが落ちる。


呼吸はまだ少し頼りないけれど、さっきまでみたいな怯えた浅さではなかった。


「……眠っちゃったねぇ」


マーレが、ほっとしたように小さく言う。


ラファは答えず、腕の中の琥珀を見つめた。


今度はちゃんと、そこにいる。


消えていかない。


触れれば分かる。


呼吸も、重みも、体温も、全部ここにある。


その当たり前のことが、胸の奥へ遅れて落ちてきた。


ラファの喉が、わずかに震える。


視線を落としたまま、琥珀の髪へ触れる指先がかすかに揺れた。


一度こらえるように息を吸って――


そのまま、静かに涙がこぼれた。


声を上げるような泣き方ではなかった。


けれど、それがいちばん深いところからこぼれた涙だと分かった。


戻ってきたこと。


腕の中にいること。


それでも、もう二度と会えないかもしれないと思った時間が確かにあったこと。


その全部が、今になって一緒に押し寄せてきたみたいだった。


マーレはすぐには何も言わない。


少しだけ間を置いてから、やわらかく口を開いた。


「でも、不思議だねぇ」


ラファが顔を上げる。


マーレは、眠った琥珀を起こさないように声を落として続けた。


「どうして琥珀ちゃんだけ、中へ行っちゃったんだろうねぇ」


その問いに、ラファの目がかすかに揺れる。


涙をぬぐうより先に、昨夜の感覚がよみがえった。


「……分からないんです」


声はまだ少し濡れていた。


「手を伸ばしました」


ラファは、眠る琥珀の顔を見つめたまま言う。


「すぐそこにいたはずなのに……」


指先が、琥珀の髪をそっと撫でる。


「触れると思った時には、もう……いなくて」


その言葉の途中で、ラファの声がわずかに詰まる。


「消えたみたいに見えました」


マーレは静かに聞いていた。


ラファ自身も、あの時の違和感をまだ整理しきれていないのだと分かる。


ただ見失った、とは少し違う。


気づいたら離れていた、だけでも違う。


あの瞬間だけ、何かがずれていたような。


そんな感覚が、まだラファの中に引っかかったまま残っている。


マーレは小さく息を吐いた。


それから、ラファの肩へそっと手を置く。


「待つしかできない時の恐怖も、またつらかったねぇ」


その言葉に、ラファのまつげが震える。


琥珀の中で起きていたことは分からなかった。


助けにも行けなかった。


ただ待つしかなくて、何もできなくて、それでも信じるしかなかった。


その時間が、どれほど苦しかったか。


マーレはそれを、ちゃんと苦しさとして受け取ってくれた。


ラファは小さく目を伏せる。


腕の中で眠る琥珀を、もう一度確かめるように抱き直した。


「……はい」


返事は短かった。


けれど、その一言の中に、ようやく少しだけ力が抜けた気配があった。


朝の光は、変わらずやわらかい。


部屋の中には、食事のあたたかな香りもまだ残っている。


その静かな朝の中で、ようやくふたりとも、少しずつ“帰ってきた後”へ触れ始めていた。


──────────


琥珀が目を覚ましたことは、ほどなくしてベルグの工房にも伝わった。


朝の光が差し込む工房の中には、まだ爆発の名残が色濃く残っている。


作業台の上には焦げた部材。


床には散らばった小さな金具。


そして当のベルグも、煤をかぶったまま、まるで何事もなかったみたいな顔で次の部材を見つめていた。


そこへ、街の人が息を切らして工房へ駆け込んでくる。


「ベルグさん、ロクス! 琥珀ちゃんが目を覚ましたよ!」


その声に、ロクスの耳がぴくりと跳ねる。


「琥珀ちゃんが目を覚ました!」


勢いよく顔を上げ、すぐさまベルグを見る。


「ベルグじい、行くぞ!」


けれどベルグは、顔をしかめながら低く返した。


「まずは落ち着けい。そんなに早くは動けん」


煤だらけの顔のまま言われても、まるで説得力がない。


ロクスは一瞬だけ眉を寄せたあと、すぐに言い返す。


「だったら俺っちは先に行くぜ!」


くるりと身をひるがえし、工房の外へ飛び出しかけて、伝えに来た街の人へ片手を上げる。


「サンキュー!」


次の瞬間には、もうロクスの背中が外へ飛び出していた。


「おい、ロクス――」


ベルグが呼ぶより先に、足音は遠ざかっていく。


まっすぐで、速くて、考えるより先に身体が動く。


まったくあやつらしいわい、とでも言いたげに、ベルグはひとつ息を吐いた。


それから、自分の服についた煤を払おうとして、途中でやめる。


どうせ今さらきれいにはならん。


そう割り切ったように眉を寄せて、ベルグもまた工房をあとにした。



風月の鐘亭の前まで駆けつけたロクスは、勢いそのままに扉へ向かって、ぎりぎりのところで踏みとどまった。


さすがに中で眠っているかもしれない、という意識が、最後の最後で追いついたらしい。


それでも、荒い息まではごまかせない。


扉の向こうへ、走ってきた熱だけが先に伝わるみたいだった。


一度だけ呼吸を整えようとして――整わないまま、ロクスは扉を開けた。


「起きたって!」


飛び込んできた声に、部屋の空気が一瞬だけ揺れる。


けれど、間髪入れずにマーレの声が飛んだ。


「今、落ち着いて寝たところだよ! 静かにしな!」


ぴしゃり、ときれいに叩き落とすような一声だった。


ロクスは入口のところでぴたりと止まる。


肩で息をしながら、部屋の中を見た。


寝台の上では、琥珀がラファに寄りかかるようにして静かに眠っている。


さっきまでの震えは、もう見えない。


その代わり、深く眠りへ落ちたばかりの、やわらかな静けさがあった。


ロクスの耳がしゅんと下がる。


「……悪ぃ」


思ったよりずっと小さい声だった。


マーレは腕を組んだまま、じろりと見る。


「分かったならよし。せっかく落ち着いたんだからねぇ」


ロクスは気まずそうに頭をかいた。


それでも視線だけは、何度も琥珀の方へ向かう。


無事に目を覚ましたと聞いて、じっとしていられなかったのだろう。


その分かりやすさが、叱られたあとのしゅんとした様子まで含めて、少しだけ部屋の空気をやわらげた。


マーレは小さく息を吐いてから、声の調子を少し落とす。


「でも、起きたのは本当だよぉ」


ロクスがすぐに顔を上げる。


「ほんとか」


今度はちゃんと小声だった。


マーレはうなずく。


「少しだけねぇ。ごはんもほんの少し食べたし、中のことも少し話してくれたよ」


ロクスの表情が引き締まる。


さっきまでの喜びだけじゃない、現実を受け取る顔だった。


「……中のこと、って」


ラファが眠る琥珀を見つめたまま、静かに答える。


「断片的ですが……風車の中で、何が起きていたのかを少しだけ」


その声に、ロクスの耳がぴくりと動いた。


マーレが続ける。


「まだ全部は無理だねぇ。話しながら、また眠っちゃったよ」


琥珀の様子を見れば、それはすぐに分かる。


起きたとはいっても、元通りとはほど遠い。


ほんの少し目を開けて、少し食べて、少し話しただけで、もう限界だったのだ。


ロクスは唇を引き結ぶ。


「……そっか」


それ以上、無理に何か言おうとはしなかった。


マーレは、その反応を見て、やわらかく言う。


「だから、今は寝かせてあげようねぇ」


「夕方には、もう少し落ち着いて話せるかもしれない」


そう言って、ラファへ目を向ける。


「風車のこともあるし、琥珀ちゃんが話せるぶんと、こっちで分かってることを合わせて、一度ちゃんと整理した方がいいねぇ」


ラファは小さくうなずいた。


「はい」


その返事は短かったけれど、今はもう焦りだけではなかった。


琥珀が目を覚ましたこと。


少しずつでも言葉にできたこと。


それを受けて、次に何をするかを考えられる段階へ、ようやく入れたのだと分かる返事だった。


ロクスもまた、眠る琥珀を見てから、ぐっと気持ちを押さえ込むように息を吐く。


「……じゃあ、夕方だな」


「その時、俺っちもいる」


「もちろんだよぉ」


マーレがそう返しかけた、その時だった。


ばたんっ、ともう一度、扉が勢いよく開いた。


「琥珀嬢ちゃんが起きたと――」


そこまで言って、ベルグが止まる。


部屋の静けさと、寝台の上で眠る琥珀の姿と、入口でしゅんとしているロクスが、一瞬で目に入ったのだろう。


そして次の瞬間。


「静かにしなって言ってるだろう!」


マーレの声が、今度こそ容赦なく飛んだ。


ベルグの眉がぴくりと動く。


「……すまん」


思ったより素直な謝罪だった。


ロクスが思わず吹き出しそうになって、慌てて口を押さえる。


マーレはそんな二人をじろりと見回す。


「まったくもう。今日は鐘亭を壊す気かい?」


その言い方に、ラファの口元がほんのわずかにやわらいだ。


部屋の中に、ひそやかな笑いがひとつ落ちる。


誰も大きな声は出さない。


けれど、その小さなゆるみだけで十分だった。


止まっていたみたいな朝が、ようやく少しずつまた動き始めている。


その中心で、琥珀は静かに眠っている。


まだ回復の途中。


まだ終わっていないことも多い。


けれど、それでも。


帰ってきた朝は、ちゃんとここにあった。

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