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第23話

ラファの腕の中に包まれた瞬間。


ようやく、帰れたんだと分かった。


熱を焼きつけたままの身体が、小さく震えている。


息は浅い。


喉の奥がひりついて、胸の奥までまだ熱が残っていた。


それでも。


抱きとめられている。


支えられている。


離れていない。


その感覚だけが、途切れかけた意識の中でも、はっきりと残っていた。


「琥珀ちゃん」


近くで、ラファの声がする。


すぐそばで。


触れられる距離で。


琥珀はかすかに顔を上げようとした。


けれど、うまく力が入らない。


まぶたが重い。


指先から、少しずつ力が抜けていく。


風車の中でずっと張りつめていたものが、今になってほどけ始めていた。


熱。


崩れる足場。


落ちたら終わるかもしれない怖さ。


挟まれた時、もうだめかもしれないと思った怖さ。


帰りたい。


戻りたい。


ラファお姉ちゃんの所へ行かなきゃ。


その思いだけで、ぎりぎりのところを繋いでいたものが、外の空気に触れた途端、もう保てなくなっていく。


ラファお姉ちゃんの腕が、あたたかい。


そのぬくもりに触れたことで、逆に、無理をしていた身体が隠しきれなくなってしまったみたいだった。


視界の端で、割れた窓がよぎる。


赤く揺れる内側と、その向こうにあった外の空気。


あの時、胸の奥に、何かが残った。


けれど、まだ形にはならない。


「あれ……な……ら……」


掠れた声は、言葉になりきる前にほどけた。


次の瞬間、琥珀の身体から、すうっと力が抜ける。


「琥珀ちゃん?」


ラファの声が、わずかに近づいた。


琥珀はもう返事ができない。


聞こえている気はするのに、まぶたは閉じていく。


最後まで残ったのは、腕のぬくもりだけだった。


そのまま琥珀の意識は、静かに落ちた。


「琥珀ちゃん?」


返事はない。


ラファは息を呑み、腕の中の身体を抱き直す。


力の抜けた琥珀の頭が、そっとラファの胸元へ寄った。


熱い。


触れているだけで分かるほど、まだ身体に熱が残っている。


「……っ」


ロクスが一歩踏み出しかけて、すぐに止まった。


「だめだ、走ったら揺れる……!」


焦りのまま吐き出して、琥珀のぐったりとした姿を見る。


「ゆっくり……いや、でも早く戻らねえと……!」


ベルグが低く息を吐いた。


「馬力車が使えればよかったんじゃが……」


その一言に、ロクスが顔をしかめる。


「ベルグじいに壊されたままだった!」


一瞬、空気が詰まる。


その時。


「大丈夫です」


ラファが琥珀を抱いたまま、静かに言った。


「私、こうやって……少しだけですけど、浮けるので」


ほんのわずかに、口元がやわらぐ。


「なんと……どういう原理なんじゃ……」


思わずこぼれた声のあと、ベルグははっとしたように首を振った。


「いかんいかん。今は先じゃ」


すぐに琥珀へ視線を戻す。


「先に琥珀をマーレのところへ急ぐぞい。ロクス、肩を貸してくれ!」


「おう!」


ロクスはすぐラファの横へ回り込む。


ラファの身体が、ふわりとわずかに浮いた。


高くではない。


ほんの少し。


けれど、そのわずかな浮きで、琥珀の身体に伝わる重さがやわらぐ。


ロクスが横から支えに入り、ベルグが前を見て進む。


三人はそのまま、風月の鐘亭へ向かった。


街にはまだ、異変の気配が残っていた。


遠くで揺れるざわめき。


落ち着ききらない空気。


誰もが、今日の異変が終わっていないことを知っている。


その中で。


傷だらけの琥珀を抱いたラファの姿に、通りの視線が集まった。


「あ……」


誰かが、小さく息を呑む。


「琥珀ちゃん……?」


別の声が、信じられないものを見るみたいに揺れた。


立ち止まる者がいる。


道を開ける者がいる。


駆け寄りかけて、今は通した方がいいと察し、足を止める者もいる。


短いざわめきは広がったのに、不思議なくらい、三人の前には道ができていく。


琥珀は、もうこの街の“外から来た誰か”ではなかった。


心配そうな視線が、その背中を追う。


ラファは琥珀を抱いたまま、一度も足を止めない。


ベルグとロクスも、何も言わずそのまま進み続ける。


やがて、見慣れた灯りが見えた。


風月の鐘亭。


帰る場所の明かりだった。


「マーレ!」


ロクスの声が、夜の入口へ飛ぶ。


扉の向こうの気配が、はっと動いた。



重なった。


その瞬間。


ふたつが…ひとつに……なった時…、エネルギー…増大。


ふたりを包んでいた粒子が、わずかに揺れる。


――これ……なに……?


静かな観測の奥で、初めて何かが引っかかった。


照合。


該当なし。


記録、開始――


間に合わない。


粒子は、もう消えかけていた。



「マーレ!」


ロクスの声が、鐘亭の入口へ飛ぶ。


見慣れた灯りの奥で、気配がはっと動いた。


扉が開く。


「――っ!」


出てきたマーレの目が、ラファの腕の中の琥珀を捉えた瞬間、空気が変わった。


言葉より先に、足が動く。


「早く中へ!」


その声に、鐘亭の中もざわりと揺れた。


避難所として使われていた広間には、まだ街の人たちや旅人たちの姿が残っている。


その視線が、一斉に向く。


ラファの腕の中。


ぐったりと意識を失った琥珀。


焦げ、裂け、煤に汚れた衣装。


灯りの下に入ったことで、それまで見えきらなかった傷の跡が、いやでも目に入る。


誰かが息を呑んだ。


「琥珀ちゃん……」


小さくこぼれた声が、広間の空気をさらに張りつめさせる。


「こっちだよ!」


マーレは迷わず奥を指した。


「寝室を使うよ。看護師さん、手を貸しておくれ!」


その声に、広間の一角にいた街の看護師がすぐに立ち上がる。


「すぐ行きます!」


「布ももっといるね……水も!」


別の声も重なる。


その時、旅人のひとりが手持ちの薬草を差し出した。


「これを使ってくれ」


「水もあるわ」


旅人の女性が、小さな瓶を差し出す。


中で、わずかに水が揺れた。


ラファは一瞬だけ目を上げる。


それから、静かに受け取った。


「……ありがとうございます」


「どんなことでもいいよ。何かあったら言ってね」


街の女性が、すぐそばから声をかける。


「力仕事なら何でも言ってくれい!」


男たちの声も飛ぶ。


「運ぶのでも押さえるのでも、何でもやる!」


マーレは差し出された薬草と小瓶に目を向け、短く頷いた。


「ありがとう。使わせてもらうよ」


そしてすぐに場を見回す。


「男手は廊下を空けとくれ! 通り道だけ確保して!」


声が飛ぶたびに、人が引き、道ができる。


慌ただしいのに、不思議と混乱はしない。


誰もが今、何を優先すべきか分かっているみたいだった。


「ラファ、こっちだよ!」


マーレが先に立つ。


ラファは琥珀を抱いたまま、迷わずその後を追った。


ロクスとベルグもすぐに続く。


奥へ進む途中、ラファの腕の中で琥珀の身体が小さく揺れる。


その軽さに、逆に胸が締めつけられた。


こんなに近くにいるのに。


こんなにやっと、戻ってこられたのに。


灯りの下では、その痛々しさばかりが、はっきり見えてしまう。


寝室の扉が開く。


清潔な布の匂いと、少し冷えた室内の空気が流れ出た。


「そこへ寝かせておくれ」


マーレの声は急いでいるのに、妙に落ち着いていた。


その声に押されるように、ラファは寝台のそばへ進む。


けれど。


すぐには手を離せなかった。


腕の中のぬくもりが、まだ消えていない。


ここで離したら、本当にほどけてしまいそうな気がして、指先にわずかに力が残る。


「ラファ」


マーレの声が、今度は少しだけやわらかく落ちる。


「大丈夫だよ。ここからは、ちゃんと診るから」


その言葉に、ラファはほんの一瞬だけ目を伏せた。


それから、そっと琥珀を寝台へ下ろす。


布がかすかに沈み、琥珀の傷んだ衣装が灯りの下で静かに広がった。


その姿に、ロクスが息を止める。


ベルグの眉も深く寄る。


誰も、すぐには言葉を出せなかった。


再会できた。


帰ってこられた。


それは確かに本当なのに。


今、目の前にあるのは、そのために琥珀がどれだけ無理をしたのかを突きつける現実だった。


「看護師さん、こっちを」


マーレがすぐに声を飛ばす。


「傷を洗う準備を。布は追加、水ももっといるよ」


場の空気が、また動き出す。


帰ってきた場所は、もうただの寝室じゃなかった。


琥珀を受け止めるための場所として、静かに息を整え始めていた。


「水をこっちへ。布はもう一枚」


マーレの声に、看護師がすぐ動く。


寝台のそばでは、小瓶の中で水がかすかに揺れ、裂いた布が静かに重ねられていく。


慌ただしい。


けれど、騒がしくはなかった。


必要なものだけが、必要な場所へ集まってくる。


ラファは寝台のそばに立ったまま、琥珀を見つめていた。


灯りの下で見ると、その姿はさっきよりもずっと痛々しい。


焦げた跡。


裂けた布。


煤に汚れた袖。


熱の残る肌に走る擦れた痕。


帰ってこられたことは確かなのに、そのためにどれだけ無理をしたのかが、今は隠しようもなくそこにあった。


「……こんなに……」


マーレの手が、傷んだ衣装の端に触れたところで止まる。


「女の子が、こんなことになるまで……」


その声は怒っているようでもあり、泣きそうでもあった。


けれど次の瞬間には、もう息を整えている。


「清潔な布を。巻けるだけ持ってきておくれ」


看護師がすぐに頷く。


「はい」


そのやり取りの中で、寝台の上の琥珀の指先が、ほんのわずかに動いた。


ラファがはっと顔を上げる。


「……琥珀ちゃん?」


まぶたが、かすかに震える。


水面の下から浮かび上がってくるみたいに、ゆっくりと。


息も、少しだけ変わった。


完全に目を開けるわけじゃない。


けれど、意識がほんの一瞬だけ、こちらへ近づいてくる。


「琥珀ちゃん、分かるかい?」


マーレがやわらかく声をかける。


その声に、琥珀の唇がかすかに動いた。


「……この衣装は……」


掠れた声だった。


消えそうなくらい、小さい。


それでも、その場にいた全員の耳に、確かに届く。


「……そのまま、残してほしい……」


一瞬だけ、部屋の空気が止まった。


意味は分からない。


けれど、その言葉だけが妙にはっきりと残る。


マーレは問い返さなかった。


ただ、傷んだ布と琥珀の怪我を見て、静かに息をつく。


「……少し切らないと、脱がせられないよ」


やわらかな声だった。


「それでも、いいかい」


琥珀はすぐには返せない。


まぶたがかすかに震えて、呼吸が浅く揺れる。


それでも、ほんの少しだけ首を動かし、


「……うん」


と、弱く頷いた。


その横で、ベルグとロクスは落ち着かないまま立ち尽くしていた。


「え、いや……俺らは……」

「その、何か手伝えることは……」


視線の置き場も定まらない二人に、マーレがぴしゃりと言う。


「あんたたちは外!」


びくりと、二人の肩が跳ねた。


「ここから先は女手が要るんだよ! うろうろするんじゃない!」


「お、おう……!」

「す、すまんのう……!」


押し出されるように出かけた二人へ、マーレがさらに声を飛ばす。


「ただ出るんじゃないよ!」


二人が振り返る。


「井戸から水をくんできな! 頭を使うんだよ!」


その横で、看護師も間髪入れず声を重ねた。


「桶も使って! すぐに足りなくなるから!」


ロクスがはっとしたように目を見開く。


「お、おう!」


ベルグも慌てて頷く。


「お、お安い御用じゃ!」


二人は今度こそ、迷わず駆けていった。


その後ろ姿を見送る間もなく、マーレはラファへ向き直った。


「ラファ、あんたは残りな」


「はい」


短い返事だった。


けれどラファは、もう琥珀の顔だけを見てはいなかった。


マーレの手元。


看護師の動き。


置かれていく布と水。


そのひとつひとつを、逸らさず見ていた。


「これから脱がせて、傷を診るよ」


マーレが短く告げる。


「しっかり見ておいで。手も貸してもらうからね」


ラファは小さく頷く。


その目は揺れていた。


けれど、逸れなかった。


マーレは布を手に取り、傷んだ衣装へそっと触れる。


看護師が水と薬草をそばへ寄せる。


ラファはその手元を、じっと見つめていた。


寝台の上で、琥珀の意識がまた少しずつ沈んでいく。


言いたいことだけを、どうにか落として。


それで力を使い切ったみたいに。


「琥珀ちゃん……」


ラファが小さく呼ぶ。


けれど今度は、無理に起こそうとはしなかった。


まぶたは閉じていく。


呼吸は細いまま、少しずつ深くなる。


部屋に残ったのは、切るしかない布の音と、水の揺れる小さな気配だけだった。


衣装は、少しだけ切られる。


それでも。


捨てられはしなかった。


その意味を、まだ誰も知らないまま。


処置がひと通り終わるころには、寝室の空気もようやく少しだけ落ち着いていた。


水の匂い。


薬草の青い香り。


巻かれた布の白さ。


さっきまでの慌ただしさが嘘みたいに、今はもう音が少ない。


寝台の上で、琥珀は静かに眠っていた。


呼吸はまだ細い。


それでも、先ほどよりは少しだけ深くなっている。


苦しそうに乱れていた息が、今はどうにか落ち着く場所を見つけたみたいだった。


そばでは、小さなロウソクの炎が揺れている。


頼りないほど細いのに、消えない。


ゆらゆらと揺れながら、ときおりすっと芯を通したみたいに、まっすぐ燃える。


その淡い灯りが、寝台の上の琥珀と、窓側に座るラファの横顔を静かに照らしていた。


ラファは、琥珀の顔がよく見える位置に腰を下ろしている。


手元には、看護師から借りた薄い治療書。


ロウソクの灯りを頼りに頁を追いながらも、視線はときおり琥珀へ戻った。


呼吸。


まぶた。


額に残る熱。


巻かれた布の乱れ。


そのひとつひとつを確かめて、また文字へ戻る。


読んでいるのは、今夜この部屋で見たものだった。


布の当て方。


傷の洗い方。


熱を持つ肌への触れ方。


血がにじんだ時の押さえ方。


頁をめくる指先は静かだった。


けれど、その目だけは少しも眠っていなかった。


窓の外は、もうすっかり夜だった。


けれど、この夜は穏やかな夜じゃない。


遠くにはまだ、人の動く気配がある。


扉の向こうからも、かすかな足音や、水桶を運ぶ気配がときおり混じった。


街はまだ、完全には眠れていない。


ラファは一度だけ、本から目を離した。


寝台の上の琥珀を見る。


包帯の白さのあいだから覗く頬は、まだ少し赤い。


それでも、さっきみたいな苦しさは今は薄れていた。


ラファはそっと手を伸ばし、琥珀の髪に触れないぎりぎりのところで止める。


起こしてしまわないように。


ただ、そこにいることだけを確かめるみたいに。


「……大丈夫です」


小さな声だった。


誰に聞かせるでもなく。


それでも、その言葉はロウソクの灯りの中で、静かに形を持った。


琥珀のまぶたは動かない。


けれど、呼吸だけがわずかにやわらぐ。


ラファはまた治療書へ視線を戻した。


ひとつずつ覚える。


見て、知って、次はちゃんと手を伸ばせるように。


今はまだ、その全部を言葉にはしない。


ただ、頁を追う目の奥にだけ、静かな熱が残っていた。


ロウソクの炎が、また小さく揺れる。


その光が、開かれた治療書の文字を照らし、寝台の上の琥珀の頬をかすめ、部屋の隅へ細く伸びた。


癒すように。


見守るように。


それでも、消えずに燃え続けるみたいに。


夜は、まだ終わっていなかった。


寝室の外へ出ると、空気はもう夜のものだった。


ひやりとした冷たさが、肌を静かに撫でていく。


本来なら、月が夜を照らしている時間だった。


けれど今夜は違う。


新月に近いふたつの月の光は弱く、空は深く沈んでいる。


町の輪郭も、屋根の連なりも、いつもよりずっと暗い。


それなのに。


風車だけが、夜の中で異様に浮かび上がっていた。


揺らぐ。


滲む。


熱を抱えたまま、輪郭だけがうっすらと夜へ滲み出している。


空の光ではなく、地上の異変が夜を支配しているみたいだった。


静かなはずの時間なのに、落ち着かない。


夜が、ちゃんと夜になりきれていない。


鐘亭の外では、ベルグとロクスがその風車を見上げていた。


桶に残った水が、足元でわずかに揺れる。


二人とも何も言わない。


ただ、あの場所だけがまだ終わっていないことを、同じように見ていた。


桶に残った水が、足元でかすかに揺れていた。


ベルグとロクスは、しばらく何も言わずに風車を見上げていた。


夜の中で、あの場所だけがまだ終わっていない。


近づかなくても分かる。


熱は、まだ消えていない。


ロクスが、浅く息を吐く。


「……あんな高さから飛び出してきたんだよな」


視線は風車から離れない。


「中がどうなってるのかも、まだ分かんねえ」


足元の石を、つま先で小さく蹴る。


苛立ちを捨てるみたいに。


「琥珀が戻ってきたのはよかった。けど……」


その先を、すぐには続けられない。


言葉にしなくても、分かってしまう。


あの中は、まだそのままだ。


ベルグが低く息をついた。


「今の熱では、もう一度近づくのも危ないのう」


視線は変わらない。


見たままの現実を、そのまま置く声だった。


「入れたとしても、中がどうなっとるか分からん。足場も、機構も、何が残っとるか見えんままじゃ」


ロクスが奥歯を噛む。


「じゃあ、どうすんだよ……」


夜風が、弱く吹いた。


けれど風車のまわりの空気だけは、遠目にも揺れて見える。


あそこだけ、まだ熱を抱えたままだった。


ロクスが耐えきれないように顔を上げる。


「ベルグじい!」


声は抑えていたのに、焦りだけが滲んだ。


「なにか対策できそうなガラクタはないのか?」


ベルグの眉がぴくりと動く。


すぐには返さない。


視線だけが、風車から、今夜使われずに残されたものたちのほうへ流れかけて、また戻る。


「……今あるもので、あの熱に届くかは分からん」


短い答えだった。


否定しきるでもなく、希望を持たせるでもなく。


ただ、足りていない現実だけがそこにある。


ロクスは舌打ちしかけて、飲み込む。


それでも視線だけは、まだ止まらない。


風車。


鐘亭。


そして、今夜使われずに残されたものたち。


あちこちへ落ち着かず揺れている。


使えるものがあるのか。


ないのか。


まだ、誰にも分からない。


けれど。


探す前に終わったことには、したくなかった。


ベルグもまた、黙ったまま風車を見ている。


その沈黙は、諦めきった沈黙ではない。


まだ見えていないだけだと、自分に言い聞かせるみたいな静けさだった。


言葉が途切れると、夜の音だけが残った。


遠くで、水のはねる音がする。


誰かが桶を置く音。


鐘亭の中から漏れる、低い足音。


町はまだ起きている。


けれど、何かが決まるほどには動けていない。


ベルグもロクスも、しばらくそのまま立ち尽くしていた。


視線の先には、まだ熱を抱えたままの風車。


夜の中で、あの場所だけが終わりを拒んでいるみたいだった。


ロクスが、ゆっくりと息を吐く。


それでも落ち着けず、視線はまた揺れる。


風車。


鐘亭の灯り。


そして、今夜の中で使われずに残されたものたちへ。


暗がりの中に沈んで、今はただの影みたいに見える。


使いかけのまま残されたもの。


形になりきらなかったもの。


役目を持てないまま、そこに置かれているもの。


今はまだ、何に使えるのか分からない。


けれど、捨てられもしていない。


ベルグもまた、その先に一瞬だけ目をやった。


何かを測るような目だった。


だが、すぐに答えが出るわけではない。


今夜はもう、無理に動ける夜じゃない。


琥珀は眠っている。


熱も、まだ下がってはいない。


風車の異常も、止まっていない。


その全部を抱えたまま、一度立ち止まるしかない夜だった。


それでも。


終わったわけじゃない。


ベルグは静かに風車を見上げる。


ロクスも、もう何も言わない。


ただ、夜の向こうに残されたままのものが、まだ消えていないことだけは、同じように見ていた。


鐘亭の窓から漏れる灯りが、地面へ細く伸びている。


その先の暗がりには、まだ名前を持たない何かが眠っていた。


夜は深い。


けれど、その奥で。


まだ終わっていないものたちが、静かに次を待っていた。

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