第22話
夕方が、少しずつ近づいていた。
昼過ぎに始まった異変は、まだ終わっていない。
街に伸びる影は長くなり、光はゆっくりと傾き始めている。
それなのに。
風車の周りだけは、時間の流れから取り残されたみたいに熱を抱えたままだった。
赤く染まりかけた光の中で、陽炎が絶えず揺れている。
まるで風車そのものが、夕日とは別の赤を内側に灯しているようだった。
ラファは、じっとその風車を見上げていた。
目を離せない。
離したくない。
ほんの少しでも逸らした隙に、何かが決定的に変わってしまいそうで、怖かった。
頬を伝った涙はもう止まりかけていたけれど、呼吸はまだ浅いままだった。
胸の奥だけが、ずっと落ち着かない。
風車の羽が、重たく回る。
そのたびに、長く伸びた影が地面をゆっくりとなぞっていく。
街は夕方へ向かっているのに、あの風車だけは、まだ異変の真ん中に立ち続けていた。
ラファは唇をきゅっと結ぶ。
熱い。
外にいるだけでも、まだ熱い。
その熱の向こうに、琥珀がいる。
そう思うだけで、胸の奥がまたひりついた。
「……琥珀ちゃん」
小さく零れた声は、夕方の空気の中へ溶けるように消えた。
返事は、まだない。
けれどラファは、風車から目を逸らさなかった。
⸻
ラファのすぐ隣で、ロクスが低く息を吐いた。
「……まだ収まる気配、ねえな」
その声も、どこか押し殺したように低い。
ベルグは返事をせず、風車の外壁へ視線を向けていた。
熱に揺れる空気の流れ。
夕日に赤く染まり始めた石壁。
その表面にまで残る、異常な熱。
外にいるだけなのに、じわりと汗がにじむ。
ベルグが、わずかに眉を寄せた。
「外まで、ここまで回るか……」
小さく漏れたその声は、独り言のようでもあり、現実を確かめるようでもあった。
ラファは、まだ風車を見上げたままだった。
耳の奥で、自分の呼吸が妙に大きく聞こえる。
何かしたい。
このまま立っているだけなんて嫌だった。
今もあの中に、琥珀がいる。
そう分かっているのに、何もできない。
足が、じり、と前へ出かける。
けれど次の瞬間、風車の周りに立ちのぼる熱気が頬を撫で、ラファは反射的に足を止めた。
近づけない。
その事実が、胸の奥へ重く沈む。
ロクスもまた、苛立ちを抑えきれないように風車を見上げる。
「見えてりゃ、まだ動けんのによ……」
その言葉は、吐き捨てるというより、行き場のない焦りに近かった。
ベルグは目を細めたまま、熱の揺らぎを見ている。
「今入れば、こっちまで持っていかれる」
低く、短く。
それが事実だと分かるからこそ、余計に苦しかった。
ラファの指先が、小さく震える。
胸の奥が落ち着かない。
風車の羽が、重たく回るたびに、熱を含んだ風がかすかに流れてくる。
そのたびに、ラファは目を細める。
見えない。
聞こえない。
それでも、あの中で何かが起き続けている気配だけは消えなかった。
ラファは唇をきつく結ぶ。
呼びたい。
叫びたい。
今すぐ行きたい。
けれど、その全部が喉の奥で絡まって、うまく外へ出てこない。
ただ、目だけが風車から離れなかった。
夕方の赤が、少しずつ濃くなっていく。
それでも風車の周りだけは、夕焼けの色とは違う熱を抱えたままだった。
⸻
その時だった。
風車の上の方で、何かが軋むような音がした。
ラファの肩が、びくりと震える。
反射みたいに顔が上がった。
夕方の赤に染まりかけた風車の上部。
熱に揺れる空気の向こうで、何かが動いた気がした。
「……っ」
息が止まる。
次の瞬間。
鈍い崩れ音が、上の方から落ちてきた。
金属とも石ともつかない、嫌な音だった。
ラファは思わず一歩、前へ出る。
「琥珀ちゃん……」
今度の声は小さい。
呼ぶというより、こぼれてしまった音に近かった。
ロクスもすぐに顔を上げる。
「今の……!」
ベルグの視線も、上へ走る。
けれど、まだ何も見えない。
熱に歪んだ空気と、赤く染まりかけた光が、風車の上の輪郭を曖昧にしている。
ラファの胸が大きく上下する。
今の音は、ただの軋みじゃない。
そんな気がした。
風車の羽が重たく回る。
その影が、夕方の地面をゆっくりと横切っていく。
赤い。
怖いくらいに赤いのに。
その赤の奥で、確かに何かが起きている。
ラファは目を凝らす。
見えない。
でも、さっきまでとは違う。
ただ飲み込まれているだけじゃない。
あの中で、まだ何かが動いている。
その確信にも似た感覚が、胸の奥で小さく灯った。
⸻
ラファは風車を見上げたまま、息を詰めていた。
さっきの音が、まだ胸の奥に残っている。
ただの軋みじゃない。
あの中で、何かが起きている。
琥珀ちゃんが、まだ動いている。
そう思った瞬間、胸の奥で何かが小さく跳ねた。
怖い。
でも、それだけじゃなかった。
消えていない。
まだ終わっていない。
ラファは無意識のうちに、もう半歩だけ前へ出ていた。
その頬を、熱を含んだ風が撫でる。
思わず目を細めた。
熱い。
外にいるだけで、まだこんなに熱い。
ベルグが低く息を吐く。
「……上に近いほど、熱が溜まってるな」
視線は風車の外壁をなぞるように上へ向かっていた。
「この熱じゃ、簡単には寄れねえぞ」
ロクスの声にも、焦りが混じる。
ラファは唇を噛む。
分かっている。
今すぐ駆け出したい。
それでも、この熱の中へ無理に入れば、自分まで動けなくなる。
それでは意味がない。
目の前にあるのは、希望じゃない。
まだ、ただの証拠だ。
生きているかもしれない。
まだ届くかもしれない。
その細い糸みたいなものを、今は手放せなかった。
風車の羽が重たく回る。
夕日の赤を受けたその影が、ゆっくりと地面を這っていく。
熱に揺れる赤。
火を孕んだような赤。
風車全体が、大きな炉みたいに見えた。
その中に、琥珀がいる。
ラファの喉が、かすかに震える。
呼びたい。
今度こそ届くかもしれないと、どこかで思ってしまう。
けれど、声は喉の奥で止まった。
代わりに、ラファはぎゅっと拳を握る。
「……生きてる」
小さく零れたその声は、自分に言い聞かせるようだった。
「琥珀ちゃんは、まだあの中にいる」
その言葉に、ベルグもロクスも何も返さなかった。
否定しない。
それだけで十分だった。
ラファは目を逸らさない。
熱の向こう。
赤の奥。
あの中にいる琥珀を、見失わないように。
⸻
窓は、すぐそこにあった。
小さく割れた窓の隙間から、外の光が揺れている。
赤い。
夕方へ傾いた光と、風車の内側から滲む火の色が混ざり合って、窓の向こうは赤く燃えているみたいに見えた。
外だ。
そう分かるだけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。
小さな隙間から、ほんのわずかに風が入り込んでくる。
熱に焼かれた空気の中で、それだけがはっきりした救いみたいだった。
琥珀はふらつく足で、窓の方へ一歩踏み出す。
その瞬間だった。
足元で、嫌な音がした。
べき、と。
細い足場の端が、熱に歪んだみたいに沈む。
「……っ!」
琥珀は反射的に壁へ身を寄せる。
次の瞬間、がこん、と鈍い崩れ音が足元から響いた。
崩れたのは一部だけだった。
けれど、それで十分だった。
足場全体が、ぎしり、と不気味に軋む。
抜け落ちた床材が、すぐ下で回っていた歯車にぶつかる。
鈍い音が響く。
けれど、それで止まらない。
砕けるように弾かれ、そのままさらに下へ落ちていった。
見えない。
どこまで落ちたのか、見えない。
下ではまだ、何か大きな歯車が動き続けている気配だけがある。
その見えない深さに、ぞくりとしたものが背筋を這い上がった。
足が、ほんの一瞬だけ竦む。
このまま踏み込み方を間違えれば、次は自分かもしれない。
息が止まりそうになる。
熱い。
怖い。
ようやく出口が見えたのに、風車はまだ琥珀を簡単には外へ出そうとしなかった。
窓の向こうでは、羽が重たく回っている。
その影が、赤く染まった光の中を横切る。
外は近い。
なのに、まだ届かない。
近くで蒸気が噴き、熱を孕んだ白が一気に視界を曇らせた。
琥珀は思わず目を細める。
息を吸うだけで胸が苦しい。
風に触れたい。
外へ出たい。
ラファお姉ちゃんのところへ戻りたい。
その思いだけを支えに、琥珀は崩れかけた足場の感触を確かめるように、そろりと足先へ力を乗せた。
まだ大丈夫。
ほんの少しだけ。
けれど、その“ほんの少し”がひどく遠い。
窓の向こうの赤が揺れる。
怖い色だった。
それでも今の琥珀には、その赤の向こうにしか帰る場所がなかった。
⸻
崩れた音の余韻が、まだ空気の中に震えていた。
ラファは息を詰めたまま、風車を見上げている。
夕日は、もうはっきりと傾き始めていた。
その光を受けた風車は、赤々と照らされている。
けれど、それは穏やかな夕焼けの色じゃなかった。
熱に揺れる陽炎の向こうで、赤は濁り、重たく滲んでいる。
あの風車の中に、琥珀がいる。
そう思うだけで、胸の奥が冷たくなる。
ラファの指先が、小さく震える。
崩れたのは、どこだろう。
今の音は、琥珀ちゃんの近くだったんだろうか。
考えたくない想像ばかりが、次々に胸の奥へ浮かんでくる。
その時だった。
上の方で、甲高い音が響いた。
今度は、さっきの崩れ音とは違う。
鋭く、乾いた、何かが割れる音。
ラファの瞳が大きく揺れる。
「……!」
顔が、さらに上を向く。
熱に歪む空気の向こう。
赤く染まりきった上の方で、わずかに光の抜け方が変わった気がした。
ほんの少しだけ。
けれど確かに、さっきまで閉ざされていた場所に変化が生まれていた。
風。
小さく、でもはっきりと。
今までとは違う流れが、頬を撫でた気がした。
ラファは目を見開く。
まだ見えない。
姿は、まだ見えない。
それでも。
あの中で、琥珀が何かをした。
そう思えた瞬間、風車を包んでいた赤が、ほんの少しだけ違って見えた。
怖いだけの赤じゃない。
あの中で、まだ終わっていない。
まだ、動いている。
まだ、届こうとしている。
ラファは息を吸う。
胸の奥で、小さな火が灯るみたいだった。
「……琥珀ちゃん」
今度の声は、震えていた。
けれどその震えは、さっきまでの不安だけじゃなかった。
風車の羽が、重たく回る。
夕日の赤を受けたその影が、長く地面へ伸びていく。
異変の赤。
恐怖の赤。
けれどその奥で、琥珀の意思が確かに燃えている。
ラファは、もう一度風車を見上げた。
あの赤の向こうへ。
今度は、希望を見失わないように。
⸻
窓の向こうの赤が、揺れていた。
小さく割れた隙間から入ってくる風は、ほんのわずかだ。
それでも、熱に焼かれた空気の中でははっきり分かる。
外の風だった。
琥珀は荒い呼吸のまま、窓の方へ目を向ける。
ここしかない。
そう思った瞬間、胸の奥が強く鳴った。
足元はまだ不安定だ。
熱も消えていない。
息を吸うたびに喉の奥が焼ける。
怖い。
もし失敗したら。
そんな考えが一瞬だけ頭をかすめる。
すぐ下には、さっき床材を飲み込んだ歯車の闇がまだ口を開けている。
足も、少し震えていた。
それでも。
「……戻らなきゃ」
小さく漏れた声は、自分を押し出すためのものみたいだった。
窓の近くまで、あと少し。
けれど、その少しが遠い。
琥珀は崩れかけた足場を見つめる。
飛び移るしかない。
そう分かっても、すぐには動けなかった。
怖いからだ。
体は熱で重い。
足場は不安定。
ほんの少し踏み外せば、次は本当に持っていかれる。
普通なら、無理だった。
けれど琥珀の中には、それでも前へ出る理由があった。
ラファお姉ちゃん。
その名を思った瞬間、胸の奥に残っていた恐怖とは別の熱が灯る。
泣きそうな顔。
それでも、まっすぐ自分を見てくれる瞳。
離れたくないと思ってくれる気持ち。
自分も、同じだった。
会いたい。
戻りたい。
あの人のところへ。
琥珀は、そっと足先に力を込める。
一歩、前へ。
足場がぎしりと鳴る。
止まらない。
もう一歩。
熱に揺れる空気の向こうで、白く滲んだ蒸気がまた視界を曇らせる。
それでも、前へ。
風が、割れた窓の隙間から頬を撫でる。
その瞬間、琥珀の耳がぴくりと動いた。
外の音。
羽の回転。
熱の向こうの空気の流れ。
そして――
いる。
見えなくても分かる。
ラファお姉ちゃんが、あの向こうにいる。
その気配を支えに、琥珀はさらに一歩を踏み出した。
ようやく窓の前へ辿り着く。
これで出られる。
そう思って触れた瞬間、琥珀は息を呑んだ。
硬い。
思っていたより、ずっと分厚い。
小さく割れた隙間があるだけで、人が抜けられるような甘い作りじゃなかった。
ここまで来ても、風車はまだ外へ出さないつもりなのか。
そんなふうに思えた。
その時、足元がまた嫌な音を立てた。
ぎし、と。
琥珀の身体がびくりと強張る。
思わずその場に座り込んだ。
熱い。
苦しい。
ここまで来たのに。
「……うそ」
小さく零れた声と一緒に、涙がにじむ。
けれど、それはほんの一瞬だった。
琥珀は乱暴なくらいにその涙を拭う。
帰るんだ。
ラファお姉ちゃんの元に。
そう思った瞬間、沈みかけた気持ちが、少しだけ前を向く。
琥珀は荒い呼吸のまま、周囲を見回した。
何か。
何か、割れるもの。
足元の崩れた足場の近くに、さっき砕けた破片が転がっていた。
琥珀はそれを拾い上げる。
熱で指先がじんと痛む。
それでも、窓へ向かって振りかぶる。
叩く。
鈍い音が返るだけだった。
「……っ、ぁ……」
力が入らない。
腕が重い。
呼吸が苦しい。
それでも、ここで止まれない。
外には、いるはずだ。
ラファお姉ちゃんが。
自分を待ってくれている。
そう思った瞬間、胸の奥に残っていた力が、かすかに燃えた。
琥珀はもう一度、破片を握りしめる。
「ラファお姉ちゃんーーーーーー!」
叫びと一緒に、残っていた力をすべて込めて、窓を叩きつけた。
⸻
その音は、夕方の熱に揺れた空気を裂くように響いた。
甲高い破砕音。
ラファの身体が、びくりと大きく震える。
今までの崩れ音とは違う。
ただ壊れるだけの音じゃない。
何かが、外へ届こうとしている音だった。
「……っ!」
ラファは反射的に顔を上げる。
熱に歪む空気の向こう。
赤く染まった風車の上で、わずかに何かが動いた気がした。
次の瞬間。
「ラファお姉ちゃんーーーーーー!」
その叫びが、遅れて落ちてくる。
ラファの瞳が大きく見開かれた。
胸の奥で、何かが一気にほどける。
「……琥珀ちゃん!」
今度の声は、止まらなかった。
ロクスも息を呑み、ベルグがはっと顔を上げる。
三人の視線が、一斉に上を向く。
風車の上部。
割れた窓のあたりで、揺らぎが確かに変わっていた。
まだ、姿ははっきり見えない。
それでももう、間違いようがなかった。
いる。
生きている。
あの中で、まだ琥珀が動いている。
ベルグの喉から、低い息が漏れる。
「……あの高さか」
その声には、驚きと緊張が混じっていた。
ロクスの顔色が変わる。
「あそこから飛び降りる気か!?」
反射みたいに周囲へ視線を走らせる。
壁際。
荷台の脇。
積まれた藁束。
風月の鐘亭の方角。
「何か……受けられるもん……布でも藁でも……!」
本気で焦っていた。
何を使えばいいか分からない。
間に合うかも分からない。
それでも探さずにはいられないほど、切迫していた。
その中で、ラファだけは風車を見上げたまま動かない。
怖い。
まだ怖い。
あの高さも。
熱も。
落ちてくる衝撃も。
全部、怖かった。
けれど。
それ以上に、胸の奥で強く燃えるものがあった。
届いた。
今、確かに届いた。
あの中で、琥珀が自分を呼んだ。
ラファは小さく息を吸う。
涙の跡がまだ残る頬に、熱を含んだ風が触れる。
その光の向こうに、もう怖さだけは見ていなかった。
受け止める。
その思いが、胸の奥ではっきり形になる。
ラファは目を逸らさない。
あの窓の向こうから、次に何が来ても受け止めるために。
⸻
琥珀は、割れた窓の隙間へ身を寄せた。
熱に焼かれた空気の向こう。
夕方の光に揺れる外が見える。
眩しい。
怖い。
けれど、その向こうへ出たい。
琥珀は荒い呼吸のまま、そっと外を覗き込んだ。
風車の下。
熱に揺れる空気の中に、ひとつの影が立っている。
銀の髪が、傾いた光を受けて淡く揺れた。
見慣れた輪郭。
「……っ」
息が止まりそうになる。
ラファお姉ちゃんだ。
そこに、いた。
ちゃんと、いた。
その瞬間、胸の奥を締めつけていたものが、少しだけほどける。
怖さは消えない。
高さも、熱も、危なさも、そのままだ。
それでも。
見えた。
もう、ひとりじゃない。
琥珀の目が、まっすぐ外を向く。
その視線の先で、ラファもまた顔を上げていた。
熱に歪んだ光の向こうで、ふたりの視線が重なる。
ラファの瞳が大きく揺れる。
割れた窓辺に、青い髪が見えた。
「……琥珀ちゃん!」
今度の声は、はっきり届いた。
琥珀の胸が熱くなる。
名前を呼ばれた、その音だけで、足元の怖さが少し遠のく。
ラファが一歩、前へ出る。
涙の跡が残る頬。
それでも、目だけはもう迷っていなかった。
その顔を見た瞬間、琥珀の中で何かが決まる。
考えるより先に、身体が動いていた。
窓枠へ手をかける。
身を乗り出す。
熱を孕んだ空気が、一気に肌を撫でた。
下ではロクスが息を呑む。
ベルグの顔色も変わる。
けれど、もう止まらない。
ラファもまた、その瞬間には動いていた。
怖さはまだある。
高さも、衝撃も、全部分かっている。
それでも、受ける。
受け止める。
琥珀ちゃんを。
ふたりのあいだに残っていた最後の距離が、一気にほどけていく。
⸻
次の瞬間。
青い影が、揺れる熱気の中から飛び出した。
ラファの身体が、ふわりと浮く。
ほんの少し。
けれど確かに、地を離れて。
両腕を伸ばす。
その先へ、琥珀もためらわず飛びついた。
「――っ」
胸へ飛び込んでくる勢いは、思っていたよりずっと重い。
衝撃が、まともに身体を揺らした。
けれどラファは離さなかった。
琥珀もまた、反射みたいにラファへしがみつく。
その勢いのまま、ふたりの身体が空中で一回りする。
ぐるり、と。
回転しながら、ラファは必死に衝撃を逃がした。
完全に殺しきれるほど甘くはない。
それでも、まっすぐ叩きつけられるよりずっといい。
着地の瞬間、体勢が大きく揺れる。
ロクスが息を呑む。
ベルグの顔にも緊張が走る。
それでもラファは、琥珀を抱いたまま踏ん張った。
落とさない。
離さない。
その腕に込めた力が、そのまま答えみたいだった。
琥珀もしがみついたまま、しばらく動けなかった。
熱い。
苦しい。
それなのに、今はそれ以上に、触れられていることが胸に痛いほど嬉しい。
ちゃんと届いた。
ちゃんと帰ってこられた。
その事実だけで、胸の奥がいっぱいになる。
ラファの頬には、まだ涙の跡が残っていた。
その顔を見た瞬間、琥珀の胸がぎゅっと締まる。
心配させた。
いっぱい待たせた。
いろんな思いが一気に込み上げる。
けれど最初に零れたのは、たったひとつの言葉だった。
「……ただいま」
小さかった。
でも、ちゃんと届く声だった。
ラファの唇が、わずかに震える。
「おかえりなさい」
返ってきた声は、やさしくて、あたたかくて、少しだけ震えていた。
それだけで、もう十分だった。
ふたりは、そのまましっかりと抱き合う。
ロクスもベルグも、もうすぐそばまで来ていた。
それでも、その一瞬だけは入れなかった。
夕日が、ゆっくりと沈んでいく。
染まっていた光が、少しずつやわらいでいく。
その時だった。
ふわり、と。
青白い粒子が、ふたりのまわりへ静かに舞い始める。
月は、まだ出ていない。
空にはまだ、夜になりきらない色が残っている。
それなのに。
月光粒子だけが、先にふたりを包み込むように揺れていた。
熱の残る空気の中で、それは不思議なくらい静かで、やさしかった。
風車の羽は、まだ重たく回り続けている。
熱も、異変も、何ひとつ終わっていない。
けれど。
ふたりは、もう離れていなかった。




