表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
25/40

第22話

夕方が、少しずつ近づいていた。


昼過ぎに始まった異変は、まだ終わっていない。


街に伸びる影は長くなり、光はゆっくりと傾き始めている。


それなのに。


風車の周りだけは、時間の流れから取り残されたみたいに熱を抱えたままだった。


赤く染まりかけた光の中で、陽炎が絶えず揺れている。


まるで風車そのものが、夕日とは別の赤を内側に灯しているようだった。


ラファは、じっとその風車を見上げていた。


目を離せない。


離したくない。


ほんの少しでも逸らした隙に、何かが決定的に変わってしまいそうで、怖かった。


頬を伝った涙はもう止まりかけていたけれど、呼吸はまだ浅いままだった。


胸の奥だけが、ずっと落ち着かない。


風車の羽が、重たく回る。


そのたびに、長く伸びた影が地面をゆっくりとなぞっていく。


街は夕方へ向かっているのに、あの風車だけは、まだ異変の真ん中に立ち続けていた。


ラファは唇をきゅっと結ぶ。


熱い。


外にいるだけでも、まだ熱い。


その熱の向こうに、琥珀がいる。


そう思うだけで、胸の奥がまたひりついた。


「……琥珀ちゃん」


小さく零れた声は、夕方の空気の中へ溶けるように消えた。


返事は、まだない。


けれどラファは、風車から目を逸らさなかった。



ラファのすぐ隣で、ロクスが低く息を吐いた。


「……まだ収まる気配、ねえな」


その声も、どこか押し殺したように低い。


ベルグは返事をせず、風車の外壁へ視線を向けていた。


熱に揺れる空気の流れ。

夕日に赤く染まり始めた石壁。

その表面にまで残る、異常な熱。


外にいるだけなのに、じわりと汗がにじむ。


ベルグが、わずかに眉を寄せた。


「外まで、ここまで回るか……」


小さく漏れたその声は、独り言のようでもあり、現実を確かめるようでもあった。


ラファは、まだ風車を見上げたままだった。


耳の奥で、自分の呼吸が妙に大きく聞こえる。


何かしたい。


このまま立っているだけなんて嫌だった。


今もあの中に、琥珀がいる。


そう分かっているのに、何もできない。


足が、じり、と前へ出かける。


けれど次の瞬間、風車の周りに立ちのぼる熱気が頬を撫で、ラファは反射的に足を止めた。


近づけない。


その事実が、胸の奥へ重く沈む。


ロクスもまた、苛立ちを抑えきれないように風車を見上げる。


「見えてりゃ、まだ動けんのによ……」


その言葉は、吐き捨てるというより、行き場のない焦りに近かった。


ベルグは目を細めたまま、熱の揺らぎを見ている。


「今入れば、こっちまで持っていかれる」


低く、短く。


それが事実だと分かるからこそ、余計に苦しかった。


ラファの指先が、小さく震える。


胸の奥が落ち着かない。


風車の羽が、重たく回るたびに、熱を含んだ風がかすかに流れてくる。


そのたびに、ラファは目を細める。


見えない。


聞こえない。


それでも、あの中で何かが起き続けている気配だけは消えなかった。


ラファは唇をきつく結ぶ。


呼びたい。


叫びたい。


今すぐ行きたい。


けれど、その全部が喉の奥で絡まって、うまく外へ出てこない。


ただ、目だけが風車から離れなかった。


夕方の赤が、少しずつ濃くなっていく。


それでも風車の周りだけは、夕焼けの色とは違う熱を抱えたままだった。



その時だった。


風車の上の方で、何かが軋むような音がした。


ラファの肩が、びくりと震える。


反射みたいに顔が上がった。


夕方の赤に染まりかけた風車の上部。

熱に揺れる空気の向こうで、何かが動いた気がした。


「……っ」


息が止まる。


次の瞬間。


鈍い崩れ音が、上の方から落ちてきた。


金属とも石ともつかない、嫌な音だった。


ラファは思わず一歩、前へ出る。


「琥珀ちゃん……」


今度の声は小さい。

呼ぶというより、こぼれてしまった音に近かった。


ロクスもすぐに顔を上げる。


「今の……!」


ベルグの視線も、上へ走る。


けれど、まだ何も見えない。


熱に歪んだ空気と、赤く染まりかけた光が、風車の上の輪郭を曖昧にしている。


ラファの胸が大きく上下する。


今の音は、ただの軋みじゃない。


そんな気がした。


風車の羽が重たく回る。


その影が、夕方の地面をゆっくりと横切っていく。


赤い。


怖いくらいに赤いのに。


その赤の奥で、確かに何かが起きている。


ラファは目を凝らす。


見えない。


でも、さっきまでとは違う。


ただ飲み込まれているだけじゃない。


あの中で、まだ何かが動いている。


その確信にも似た感覚が、胸の奥で小さく灯った。



ラファは風車を見上げたまま、息を詰めていた。


さっきの音が、まだ胸の奥に残っている。


ただの軋みじゃない。


あの中で、何かが起きている。


琥珀ちゃんが、まだ動いている。


そう思った瞬間、胸の奥で何かが小さく跳ねた。


怖い。


でも、それだけじゃなかった。


消えていない。


まだ終わっていない。


ラファは無意識のうちに、もう半歩だけ前へ出ていた。


その頬を、熱を含んだ風が撫でる。


思わず目を細めた。


熱い。


外にいるだけで、まだこんなに熱い。


ベルグが低く息を吐く。


「……上に近いほど、熱が溜まってるな」


視線は風車の外壁をなぞるように上へ向かっていた。


「この熱じゃ、簡単には寄れねえぞ」


ロクスの声にも、焦りが混じる。


ラファは唇を噛む。


分かっている。


今すぐ駆け出したい。

それでも、この熱の中へ無理に入れば、自分まで動けなくなる。


それでは意味がない。


目の前にあるのは、希望じゃない。


まだ、ただの証拠だ。


生きているかもしれない。


まだ届くかもしれない。


その細い糸みたいなものを、今は手放せなかった。


風車の羽が重たく回る。


夕日の赤を受けたその影が、ゆっくりと地面を這っていく。


熱に揺れる赤。

火を孕んだような赤。


風車全体が、大きな炉みたいに見えた。


その中に、琥珀がいる。


ラファの喉が、かすかに震える。


呼びたい。


今度こそ届くかもしれないと、どこかで思ってしまう。


けれど、声は喉の奥で止まった。


代わりに、ラファはぎゅっと拳を握る。


「……生きてる」


小さく零れたその声は、自分に言い聞かせるようだった。


「琥珀ちゃんは、まだあの中にいる」


その言葉に、ベルグもロクスも何も返さなかった。


否定しない。


それだけで十分だった。


ラファは目を逸らさない。


熱の向こう。

赤の奥。

あの中にいる琥珀を、見失わないように。



窓は、すぐそこにあった。


小さく割れた窓の隙間から、外の光が揺れている。


赤い。


夕方へ傾いた光と、風車の内側から滲む火の色が混ざり合って、窓の向こうは赤く燃えているみたいに見えた。


外だ。


そう分かるだけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。


小さな隙間から、ほんのわずかに風が入り込んでくる。


熱に焼かれた空気の中で、それだけがはっきりした救いみたいだった。


琥珀はふらつく足で、窓の方へ一歩踏み出す。


その瞬間だった。


足元で、嫌な音がした。


べき、と。


細い足場の端が、熱に歪んだみたいに沈む。


「……っ!」


琥珀は反射的に壁へ身を寄せる。


次の瞬間、がこん、と鈍い崩れ音が足元から響いた。


崩れたのは一部だけだった。

けれど、それで十分だった。


足場全体が、ぎしり、と不気味に軋む。


抜け落ちた床材が、すぐ下で回っていた歯車にぶつかる。


鈍い音が響く。


けれど、それで止まらない。


砕けるように弾かれ、そのままさらに下へ落ちていった。


見えない。


どこまで落ちたのか、見えない。


下ではまだ、何か大きな歯車が動き続けている気配だけがある。


その見えない深さに、ぞくりとしたものが背筋を這い上がった。


足が、ほんの一瞬だけ竦む。


このまま踏み込み方を間違えれば、次は自分かもしれない。


息が止まりそうになる。


熱い。


怖い。


ようやく出口が見えたのに、風車はまだ琥珀を簡単には外へ出そうとしなかった。


窓の向こうでは、羽が重たく回っている。


その影が、赤く染まった光の中を横切る。


外は近い。


なのに、まだ届かない。


近くで蒸気が噴き、熱を孕んだ白が一気に視界を曇らせた。


琥珀は思わず目を細める。


息を吸うだけで胸が苦しい。


風に触れたい。


外へ出たい。


ラファお姉ちゃんのところへ戻りたい。


その思いだけを支えに、琥珀は崩れかけた足場の感触を確かめるように、そろりと足先へ力を乗せた。


まだ大丈夫。


ほんの少しだけ。


けれど、その“ほんの少し”がひどく遠い。


窓の向こうの赤が揺れる。


怖い色だった。


それでも今の琥珀には、その赤の向こうにしか帰る場所がなかった。



崩れた音の余韻が、まだ空気の中に震えていた。


ラファは息を詰めたまま、風車を見上げている。


夕日は、もうはっきりと傾き始めていた。


その光を受けた風車は、赤々と照らされている。


けれど、それは穏やかな夕焼けの色じゃなかった。


熱に揺れる陽炎の向こうで、赤は濁り、重たく滲んでいる。


あの風車の中に、琥珀がいる。


そう思うだけで、胸の奥が冷たくなる。


ラファの指先が、小さく震える。


崩れたのは、どこだろう。


今の音は、琥珀ちゃんの近くだったんだろうか。


考えたくない想像ばかりが、次々に胸の奥へ浮かんでくる。


その時だった。


上の方で、甲高い音が響いた。


今度は、さっきの崩れ音とは違う。


鋭く、乾いた、何かが割れる音。


ラファの瞳が大きく揺れる。


「……!」


顔が、さらに上を向く。


熱に歪む空気の向こう。

赤く染まりきった上の方で、わずかに光の抜け方が変わった気がした。


ほんの少しだけ。


けれど確かに、さっきまで閉ざされていた場所に変化が生まれていた。


風。


小さく、でもはっきりと。


今までとは違う流れが、頬を撫でた気がした。


ラファは目を見開く。


まだ見えない。


姿は、まだ見えない。


それでも。


あの中で、琥珀が何かをした。


そう思えた瞬間、風車を包んでいた赤が、ほんの少しだけ違って見えた。


怖いだけの赤じゃない。


あの中で、まだ終わっていない。


まだ、動いている。


まだ、届こうとしている。


ラファは息を吸う。


胸の奥で、小さな火が灯るみたいだった。


「……琥珀ちゃん」


今度の声は、震えていた。


けれどその震えは、さっきまでの不安だけじゃなかった。


風車の羽が、重たく回る。


夕日の赤を受けたその影が、長く地面へ伸びていく。


異変の赤。


恐怖の赤。


けれどその奥で、琥珀の意思が確かに燃えている。


ラファは、もう一度風車を見上げた。


あの赤の向こうへ。


今度は、希望を見失わないように。



窓の向こうの赤が、揺れていた。


小さく割れた隙間から入ってくる風は、ほんのわずかだ。


それでも、熱に焼かれた空気の中でははっきり分かる。


外の風だった。


琥珀は荒い呼吸のまま、窓の方へ目を向ける。


ここしかない。


そう思った瞬間、胸の奥が強く鳴った。


足元はまだ不安定だ。

熱も消えていない。

息を吸うたびに喉の奥が焼ける。


怖い。


もし失敗したら。


そんな考えが一瞬だけ頭をかすめる。


すぐ下には、さっき床材を飲み込んだ歯車の闇がまだ口を開けている。


足も、少し震えていた。


それでも。


「……戻らなきゃ」


小さく漏れた声は、自分を押し出すためのものみたいだった。


窓の近くまで、あと少し。


けれど、その少しが遠い。


琥珀は崩れかけた足場を見つめる。


飛び移るしかない。


そう分かっても、すぐには動けなかった。


怖いからだ。


体は熱で重い。

足場は不安定。

ほんの少し踏み外せば、次は本当に持っていかれる。


普通なら、無理だった。


けれど琥珀の中には、それでも前へ出る理由があった。


ラファお姉ちゃん。


その名を思った瞬間、胸の奥に残っていた恐怖とは別の熱が灯る。


泣きそうな顔。

それでも、まっすぐ自分を見てくれる瞳。

離れたくないと思ってくれる気持ち。


自分も、同じだった。


会いたい。


戻りたい。


あの人のところへ。


琥珀は、そっと足先に力を込める。


一歩、前へ。


足場がぎしりと鳴る。


止まらない。


もう一歩。


熱に揺れる空気の向こうで、白く滲んだ蒸気がまた視界を曇らせる。


それでも、前へ。


風が、割れた窓の隙間から頬を撫でる。


その瞬間、琥珀の耳がぴくりと動いた。


外の音。


羽の回転。

熱の向こうの空気の流れ。

そして――


いる。


見えなくても分かる。


ラファお姉ちゃんが、あの向こうにいる。


その気配を支えに、琥珀はさらに一歩を踏み出した。


ようやく窓の前へ辿り着く。


これで出られる。


そう思って触れた瞬間、琥珀は息を呑んだ。


硬い。


思っていたより、ずっと分厚い。


小さく割れた隙間があるだけで、人が抜けられるような甘い作りじゃなかった。


ここまで来ても、風車はまだ外へ出さないつもりなのか。


そんなふうに思えた。


その時、足元がまた嫌な音を立てた。


ぎし、と。


琥珀の身体がびくりと強張る。


思わずその場に座り込んだ。


熱い。


苦しい。


ここまで来たのに。


「……うそ」


小さく零れた声と一緒に、涙がにじむ。


けれど、それはほんの一瞬だった。


琥珀は乱暴なくらいにその涙を拭う。


帰るんだ。


ラファお姉ちゃんの元に。


そう思った瞬間、沈みかけた気持ちが、少しだけ前を向く。


琥珀は荒い呼吸のまま、周囲を見回した。


何か。


何か、割れるもの。


足元の崩れた足場の近くに、さっき砕けた破片が転がっていた。


琥珀はそれを拾い上げる。


熱で指先がじんと痛む。


それでも、窓へ向かって振りかぶる。


叩く。


鈍い音が返るだけだった。


「……っ、ぁ……」


力が入らない。


腕が重い。


呼吸が苦しい。


それでも、ここで止まれない。


外には、いるはずだ。


ラファお姉ちゃんが。


自分を待ってくれている。


そう思った瞬間、胸の奥に残っていた力が、かすかに燃えた。


琥珀はもう一度、破片を握りしめる。


「ラファお姉ちゃんーーーーーー!」


叫びと一緒に、残っていた力をすべて込めて、窓を叩きつけた。



その音は、夕方の熱に揺れた空気を裂くように響いた。


甲高い破砕音。


ラファの身体が、びくりと大きく震える。


今までの崩れ音とは違う。


ただ壊れるだけの音じゃない。


何かが、外へ届こうとしている音だった。


「……っ!」


ラファは反射的に顔を上げる。


熱に歪む空気の向こう。

赤く染まった風車の上で、わずかに何かが動いた気がした。


次の瞬間。


「ラファお姉ちゃんーーーーーー!」


その叫びが、遅れて落ちてくる。


ラファの瞳が大きく見開かれた。


胸の奥で、何かが一気にほどける。


「……琥珀ちゃん!」


今度の声は、止まらなかった。


ロクスも息を呑み、ベルグがはっと顔を上げる。


三人の視線が、一斉に上を向く。


風車の上部。


割れた窓のあたりで、揺らぎが確かに変わっていた。


まだ、姿ははっきり見えない。


それでももう、間違いようがなかった。


いる。


生きている。


あの中で、まだ琥珀が動いている。


ベルグの喉から、低い息が漏れる。


「……あの高さか」


その声には、驚きと緊張が混じっていた。


ロクスの顔色が変わる。


「あそこから飛び降りる気か!?」


反射みたいに周囲へ視線を走らせる。


壁際。

荷台の脇。

積まれた藁束。

風月の鐘亭の方角。


「何か……受けられるもん……布でも藁でも……!」


本気で焦っていた。


何を使えばいいか分からない。

間に合うかも分からない。


それでも探さずにはいられないほど、切迫していた。


その中で、ラファだけは風車を見上げたまま動かない。


怖い。


まだ怖い。


あの高さも。

熱も。

落ちてくる衝撃も。


全部、怖かった。


けれど。


それ以上に、胸の奥で強く燃えるものがあった。


届いた。


今、確かに届いた。


あの中で、琥珀が自分を呼んだ。


ラファは小さく息を吸う。


涙の跡がまだ残る頬に、熱を含んだ風が触れる。


その光の向こうに、もう怖さだけは見ていなかった。


受け止める。


その思いが、胸の奥ではっきり形になる。


ラファは目を逸らさない。


あの窓の向こうから、次に何が来ても受け止めるために。



琥珀は、割れた窓の隙間へ身を寄せた。


熱に焼かれた空気の向こう。


夕方の光に揺れる外が見える。


眩しい。


怖い。


けれど、その向こうへ出たい。


琥珀は荒い呼吸のまま、そっと外を覗き込んだ。


風車の下。


熱に揺れる空気の中に、ひとつの影が立っている。


銀の髪が、傾いた光を受けて淡く揺れた。


見慣れた輪郭。


「……っ」


息が止まりそうになる。


ラファお姉ちゃんだ。


そこに、いた。


ちゃんと、いた。


その瞬間、胸の奥を締めつけていたものが、少しだけほどける。


怖さは消えない。


高さも、熱も、危なさも、そのままだ。


それでも。


見えた。


もう、ひとりじゃない。


琥珀の目が、まっすぐ外を向く。


その視線の先で、ラファもまた顔を上げていた。


熱に歪んだ光の向こうで、ふたりの視線が重なる。


ラファの瞳が大きく揺れる。


割れた窓辺に、青い髪が見えた。


「……琥珀ちゃん!」


今度の声は、はっきり届いた。


琥珀の胸が熱くなる。


名前を呼ばれた、その音だけで、足元の怖さが少し遠のく。


ラファが一歩、前へ出る。


涙の跡が残る頬。

それでも、目だけはもう迷っていなかった。


その顔を見た瞬間、琥珀の中で何かが決まる。


考えるより先に、身体が動いていた。


窓枠へ手をかける。


身を乗り出す。


熱を孕んだ空気が、一気に肌を撫でた。


下ではロクスが息を呑む。


ベルグの顔色も変わる。


けれど、もう止まらない。


ラファもまた、その瞬間には動いていた。


怖さはまだある。


高さも、衝撃も、全部分かっている。


それでも、受ける。


受け止める。


琥珀ちゃんを。


ふたりのあいだに残っていた最後の距離が、一気にほどけていく。



次の瞬間。


青い影が、揺れる熱気の中から飛び出した。


ラファの身体が、ふわりと浮く。


ほんの少し。


けれど確かに、地を離れて。


両腕を伸ばす。


その先へ、琥珀もためらわず飛びついた。


「――っ」


胸へ飛び込んでくる勢いは、思っていたよりずっと重い。


衝撃が、まともに身体を揺らした。


けれどラファは離さなかった。


琥珀もまた、反射みたいにラファへしがみつく。


その勢いのまま、ふたりの身体が空中で一回りする。


ぐるり、と。


回転しながら、ラファは必死に衝撃を逃がした。


完全に殺しきれるほど甘くはない。


それでも、まっすぐ叩きつけられるよりずっといい。


着地の瞬間、体勢が大きく揺れる。


ロクスが息を呑む。


ベルグの顔にも緊張が走る。


それでもラファは、琥珀を抱いたまま踏ん張った。


落とさない。


離さない。


その腕に込めた力が、そのまま答えみたいだった。


琥珀もしがみついたまま、しばらく動けなかった。


熱い。


苦しい。


それなのに、今はそれ以上に、触れられていることが胸に痛いほど嬉しい。


ちゃんと届いた。


ちゃんと帰ってこられた。


その事実だけで、胸の奥がいっぱいになる。


ラファの頬には、まだ涙の跡が残っていた。


その顔を見た瞬間、琥珀の胸がぎゅっと締まる。


心配させた。


いっぱい待たせた。


いろんな思いが一気に込み上げる。


けれど最初に零れたのは、たったひとつの言葉だった。


「……ただいま」


小さかった。


でも、ちゃんと届く声だった。


ラファの唇が、わずかに震える。


「おかえりなさい」


返ってきた声は、やさしくて、あたたかくて、少しだけ震えていた。


それだけで、もう十分だった。


ふたりは、そのまましっかりと抱き合う。


ロクスもベルグも、もうすぐそばまで来ていた。


それでも、その一瞬だけは入れなかった。


夕日が、ゆっくりと沈んでいく。


染まっていた光が、少しずつやわらいでいく。


その時だった。


ふわり、と。


青白い粒子が、ふたりのまわりへ静かに舞い始める。


月は、まだ出ていない。


空にはまだ、夜になりきらない色が残っている。


それなのに。


月光粒子だけが、先にふたりを包み込むように揺れていた。


熱の残る空気の中で、それは不思議なくらい静かで、やさしかった。


風車の羽は、まだ重たく回り続けている。


熱も、異変も、何ひとつ終わっていない。


けれど。


ふたりは、もう離れていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ