第21話
「琥珀ちゃーん!」
その叫びは、風車の周りに揺らめく陽炎の中へ吸い込まれるように消えていった。
熱に揺れる視界の向こうに、もう琥珀の姿はなかった。
伸ばしかけた手が、空を切る。
ラファの呼吸が、浅くなる。
今、確かにそこにいた。
裂け目の向こうへ引かれていく背中も、見えた。
なのに。
目の前にはもう、何もない。
「……琥珀ちゃん?」
今度は叫びではなく、信じたくないような小さな声だった。
返事はない。
ラファは半歩だけ前へ出る。
もう一度、手を伸ばしかける。
けれど、その指先は何にも触れないまま止まった。
熱だけが揺れている。
風車の羽が、重たく回る。
その音だけが、妙に遠かった。
頭の奥が、ぐらりと揺れる。
嘘だと、思いたかった。
ついさっきまで隣にいた。
名前を呼べば、すぐ振り向いた。
あの明るい声も。
笑った顔も。
並んで歩く足音も。
触れた温度も。
ばらばらの断片になって、一瞬で胸の奥へ押し寄せる。
ラファの喉が、小さく震えた。
呼吸が、うまく整わない。
それでも目は逸らせなかった。
琥珀が消えた、その場所から。
次の瞬間。
ラファの頬を、ひと筋の涙が伝った。
⸻
琥珀は、薄れゆく意識の中でその景色を見ていた。
熱に揺れる空気。
鳴り続ける機械音。
噛み合う歯車。
どこかの中にいる。
そう思うのに、ここがどこなのかは、うまく掴めない。
ただ、目の前の歯車には見覚えがあった。
(……どこで……)
小さく浮かんだ疑問も、すぐに薄れていく。
視界の端で、巨大な歯車がゆっくりと噛み合っていた。
重たく、鈍く。
まるで時間だけが引き延ばされたみたいに、ひどくゆっくり見える。
けれど耳に届く音は違った。
甲高い金属音はもっと速く、もっと鋭く、せわしなく鳴っている。
目に映る動きと、耳に届く音が噛み合わない。
一瞬、頭の奥がぐらりと揺れた。
気持ち悪い。
何かがおかしい。
ごう、と低い音が足元から響いた。
次の瞬間、床がかすかに震える。
その脇で、太いピストンが脈打つように上下していた。
奥では炎が燃え続け、白く滲む蒸気が熱に揺れている。
近くで蒸気が噴き、向こう側の景色が一瞬消える。
その奥に何があるのか、見えない。
見えないのに、何か大きなものが動いている気配だけがある。
風車の中――
そう呼ぶには、あまりにも巨大で、あまりにも生き物じみていた。
熱いはずなのに、その熱ささえどこか遠い。
景色は見えている。
音も、振動も、確かに感じている。
けれど、自分で歩いている感覚は薄かった。
足は止まらない。
自分の意思より少し先に、身体だけが静かに前へ出る。
一階。
まっすぐ奥へ続く道があった。
琥珀は、ふらり、とその道へ足を向ける。
自分で決めたというより、そうするのが当たり前のように。
呼ばれているように。
導かれているように。
奥には階段はなかった。
代わりに、風車の回転と連動するような昇降機があった。
巨大な歯車の脇を這うように組まれた、簡素でありながら不思議と強固な機構。
琥珀はそれに乗る。
ごう、と下で火が鳴る。
軋む音とともに、昇降機がゆっくりと上へ上がっていった。
⸻
「ベルグじい……今……」
その先が、続かない。
「……何か、変な感じが」
低い声とともに、ロクスが風車前へ駆け寄ってきた。
ベルグも続き、すぐに周囲へ視線を走らせる。
だが二人は、すぐにはラファへ問いを向けなかった。
まず見ているのは、風車の前の空気だった。
揺らめく陽炎。
不自然に熱を含んだ風。
さっきまでそこにあったはずの何かが、現実からこぼれ落ちたような違和感。
ロクスが辺りを見回す。
地面。
風車の外壁。
裂け目があった場所。
ベルグは目を細め、熱の流れを追うように静かに視線を動かした。
けれど、決定的なものは掴めない。
ラファは、手を伸ばしたまま、まだ動けずにいた。
琥珀が消えた場所を見つめたまま、立っている。
肩が、わずかに上下していた。
呼吸は浅い。
けれど、泣き崩れはしない。
ただ、足だけがその場に縫い止められたみたいに動かなかった。
ロクスがラファを見る。
何か言おうとして、やめる。
ベルグもまた、すぐには声をかけなかった。
今ここで下手に触れれば、何かが壊れてしまいそうだった。
熱に揺れる空気だけが、三人のあいだをゆっくり流れていく。
風車の羽が、重たく回る。
その音は、すぐ近くにあるはずなのに、どこか遠かった。
⸻
二階へ着いた瞬間、空気が少し変わった。
熱はまだ強い。
けれど一階のような剥き出しの機関の熱とは違う。
ここには、どこか閉ざされた静けさがあった。
鳴り続けていたはずの機械音も、少し遠い。
いや、消えたわけじゃない。
壁の向こうではまだ歯車が噛み合い、火が鳴り、蒸気が巡っている。
それなのに、この場所だけが不自然に切り離されたみたいに静かだった。
壁に絵が刻まれている。
山羊座の風車で見たものに、少し似ていた。
けれど、違う。
あの時のように文字は浮かばない。
意味も読めない。
ただ、壁一面に刻まれた線と形だけが、熱に揺れる空気の向こうでじっとそこにある。
琥珀は、ふらりとその前で足を止めた。
見上げる。
その時だった。
ふわり、と。
空気の中に、青白い月光粒子が舞い始める。
熱の色とはまるで違う、冷たい光だった。
ゆっくりと漂うその粒子が、壁に触れる。
次の瞬間、刻まれていた絵がわずかに揺れた。
風が、巡る。
火が、満ちる。
噛み合う歯車の間を、何かが流れていく。
絵は動いているはずなのに、どこまでが壁で、どこからが違うものなのか分からない。
見ているだけなのに、吸い込まれそうだった。
そして。
耳元で、低い男の声がした。
近い。
すぐ隣で囁かれたみたいに近いのに、姿はない。
「試……」
熱に揺れた空気の向こうで、金属が甲高く鳴る。
声の続きは、そこで削れた。
「……時、絆は……さらに……」
途切れた断片だけが、胸の奥へ落ちてくる。
最後まで聞き取れたはずなのに、意味だけが熱の中へ滲んでいった。
月光粒子が、目の前をふわっと横切る瞬間。
琥珀の瞳が、わずかに揺れた。
次の瞬間。
はっと、息を呑む。
夢から引き戻されるみたいに、意識が一気に現実へ戻ってくる。
熱。
音。
重い振動。
さっきまで遠かったはずの現実が、今度は逃げ場もなく押し寄せてきた。
⸻
ラファの肩が、わずかに揺れる。
ロクスとベルグは、ようやく彼女へ視線を向けた。
そこで初めて、二人は気づく。
ラファが、いつもと違う。
何かを言おうとしているのに、うまく言葉にならない。
胸の奥で詰まって、外へ出せない。
「琥珀、ちゃんが……」
その先が続かない。
熱に揺れる風が、頬を撫でる。
外ですら、こんなに熱い。
その現実が遅れて胸に落ちた瞬間、息が止まりそうになった。
中は、もっと熱い。
その中に、琥珀がいる。
今まで当たり前みたいに隣にいた。
名前を呼べば、振り向いた。
少し困ったみたいに笑って、それでもちゃんとこっちへ来てくれた。
髪飾りの約束。
その瞬間、胸の奥にひりつくような熱が落ちた。
遠くで、琥珀が苦しそうに息を詰めた気がした。
そんな断片が、一瞬で胸の奥を掻きむしる。
「……っ」
喉が震える。
次の瞬間、張っていたものが切れた。
大粒の涙が、ぽろりと落ちる。
もう一粒。
また一粒。
止めようとしても、止まらない。
ロクスの動きが止まる。
ベルグの目が、わずかに見開かれた。
二人は何も言わない。
ただ、ラファをひとりにしない位置へ、静かに寄る。
急かさない。
触れすぎない。
けれど、そこにいると分かる距離で。
その無言の近さが、かえってやさしかった。
ラファは泣く。
壊れそうなほど苦しいのに、それでも目だけは逸らさない。
風車の前。
琥珀が消えた、その場所から。
⸻
「ん? ここは?」
琥珀は小さく息を呑み、周りを見た。
熱に揺れる空気。
ごうごうと鳴る機械音。
壁の向こうで唸るように回る歯車の気配。
足元から伝わる、低い振動。
何が起きているのか、一瞬分からなかった。
「な、に……ここ……」
その時、すぐ近くで蒸気が勢いよく吹き出した。
「ひゃっ……あっつ!」
琥珀はびくっと肩を跳ねさせ、とっさに身を引く。
むわっと押し寄せる熱気に、思わず目を細めた。
息を吸うだけで喉が焼けそうだった。
風月の仕事着の内側にはもう熱がこもっていて、背中にはじっとりと汗がにじんでいる。
張りついた布が肌にまとわりつき、それだけで余計に息苦しかった。
歯車。
炎。
蒸気。
ぐるぐると巡る機構。
「ここ……もしかして……風車の中?」
呟いた声は、自分でも信じられないほど頼りなかった。
「……ラファお姉ちゃん?」
返事はなかった。
意識が戻ったことで、現実が一気に押し寄せる。
「あれ? 私ひとり!? どうやってここに……!」
「ラファお姉ちゃん!」
もう一度、叫ぶ。
けれど返ってくるのは、熱に揺れた機械音だけだった。
熱い。
息がしづらい。
頭が少しぼんやりする。
足元がふらつく。
琥珀は壁に手をつき、浅く息を吸った。
ひとり。
その事実が、遅れて胸の奥へ落ちてくる。
「ど、どうしよう……」
小さく漏れた声は、熱に揺れる空気の中へすぐ消えた。
いつもは傍にいてくれたラファが、今はいない。
分からない場所に、ひとりで取り残されている。
遅れてきた恐怖が、胸の奥へ重く落ちた。
近くで歯車が噛み合う。
ゆっくり見えるのに、音だけが速い。
その気持ち悪いズレに、頭の奥がまたぐらりと揺れた。
立ち止まっていたらまずい。
それだけは、何となく分かった。
戻らないと。
外へ出ないと。
ラファお姉ちゃんのところへ。
⸻
視線を巡らせる。
二階の奥。
壁画の先に、まだ上へ続く通路が見えた。
階段ではない。
歯車の脇を沿うように組まれた細い足場と、昇降機の続きのような構造。
琥珀はふらつきながら、そちらへ足を向けた。
一歩。
床がかすかに震えている。
足裏に、低い振動が伝わってくる。
もう一歩。
熱い。
喉がからからに乾く。
近くで蒸気が噴き、白い熱の塊が一気に視界を覆った。
「っ……!」
前が見えない。
思わず足を止めかける。
けれど、立ち止まる方が怖かった。
蒸気が薄れた先で、琥珀は息を呑む。
通路の先は、ただ真っ直ぐ続いているわけじゃなかった。
大きさの違う歯車が幾重にも噛み合い、その隙間を縫うようにして足場が伸びている。
人が通るための場所には見えない。
それでも、行くしかなかった。
戻らないと。
外へ出ないと。
ラファお姉ちゃんのところへ。
手すり代わりの金属に触れる。
熱でじん、と指先が焼ける。
思わず手を離し、それでも壁に肩を寄せるようにして、前へ進む。
細い足場のすぐ脇では、巨大な歯車が噛み合っていた。
ゆっくり見える。
けれど音だけが速い。
その気持ち悪いズレが、足元から胸の奥までざわざわと這い上がってくる。
少し踏み外したら、そのまま巻き込まれそうだった。
琥珀は息を詰める。
熱に揺れる空気の向こうで、白く滲んだ蒸気がまた視界を遮る。
見えない。
見えないのに、下では何か大きなものが動き続けている。
怖い。
けれど、止まる方がもっと怖かった。
一歩。
また一歩。
足が重い。
張りついた服が肌を擦る。
背中を流れる汗が冷える暇もなく、すぐにまた熱を吸っていく。
息をするだけで苦しい。
それでも、前へ。
歯車の間を抜けるたび、汗で張りついた仕事着が脚にまとわりつく。
ふらついた、その瞬間だった。
裾が、回転する歯車に絡まれた。
「――っ!」
ぐい、と強く身体が引かれる。
心臓が跳ねた。
このままだと、まずい。
琥珀はとっさに布を掴む。
引く。
だめ。
もう一度、力を込める。
その瞬間、ラファの姿が脳裏をよぎった。
泣きそうな顔。
それでも、まっすぐ自分を見てくれる瞳。
ここで助からなかったら、もう会えない。
その思いが、熱よりも強く胸を突き上げた。
「や、やぶれて……!」
指先に力を込め、琥珀は必死に布を引いた。
布がきしむ。
次の瞬間、裂けた。
反動で身体が大きく後ろへ振られる。
「きゃっ!」
避けきれず、肩から壁へぶつかった。
鈍い衝撃が走る。
その拍子に、頭のカチューシャが外れた。
黒い影が、歯車の奥へ吸い込まれるように落ちていく。
琥珀は反射的に目で追った。
落ちた先は、すぐ下じゃなかった。
もっと深い。
歯車のさらに下。
炎の明かりがちらつく、暗い空間が口を開けている。
次の瞬間、小さな音とともに、落ちたカチューシャが火に呑まれた。
「あ……」
ぞくり、と背筋が冷える。
下にも、まだある。
この風車は、上だけじゃない。
けれど、考えている余裕はなかった。
近くでまた蒸気が噴き、琥珀ははっと我に返る。
一歩。
また一歩。
足が重い。
張りついた服が肌を擦る。
背中を流れる汗が冷える暇もなく、すぐにまた熱を吸っていく。
息をするだけで苦しい。
それでも、前へ。
どれくらい進んだのか、自分でも分からなかった。
足場を抜けた先で、琥珀はようやく三階へ出た。
そこは二階よりも少し狭く、熱がこもっていた。
息を吸った瞬間、胸の奥が焼けるように痛む。
琥珀は荒くなる呼吸を抑えながら、辺りを見回す。
その時だった。
正面の壁際に、ひとつの窓が見えた。
閉じた窓。
その向こうを、風車の羽が回っている。
外だ。
風がある。
ここよりは、きっとましだ。
ここよりは、少しでも涼しい。
琥珀は窓を見つめたまま、小さく息を呑む。
まだ、届かない。
けれど。
外は、あそこにあった。




