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第20話

風車を見上げたまま、誰もすぐには動かなかった。


街のあちこちで揺れていた火は、

まだ完全には収まっていない。


遠くで、誰かの声がした。


けれど、その声さえも、

今はこの場には届ききらない気がした。


ロクスが、低く息を吐く。


「……このまま放っておける感じじゃねえな」


その声で、

張りつめていた空気が、わずかに動いた。


琥珀は、はっとしたようにマーレを見る。


「マーレさん」


呼びかける声は、

思ったより落ち着いていた。


「街の人たち……風月の鐘亭に集めてもらってもいい?」


マーレの耳が、ぴくりと揺れる。


「えっ……あ、うん。分かった」


「無理に走らせなくていいから。火の近くにいる人がいたら、先に離して」


「うん、任せて」


琥珀は小さく頷く。


それを見て、

ロクスが視線を外へ向けた。


「俺は周り見てくる。街の外まで回れば、流れも見える」


ベルグも、風車から街の方へと目を移す。


「わしは中を見て回る。火の異常がどこまで広がっとるか、見んことには判断できん」


短い言葉だった。


けれどそれで、

誰が何をするべきかは自然と決まった。


マーレは風月の鐘亭の方へ駆け出しかけ――

そこで、ふいに足を止める。


きぃん、と。


風車の羽が、

ほんの一瞬だけ、

細く澄んだ音を立てた。


それは軋みとも違う。

風鳴りとも違う。


けれど確かに、

耳に触れる音だった。


「……っ」


琥珀の猫耳が、ぴくりと反応する。


ほとんど同時に、

マーレの犬耳も小さく揺れた。


「今の……」


マーレが振り返る。


けれど、もう音は消えていた。


風車は、ただそこに立っている。


何も変わっていないように見えるのに、

胸の奥だけが妙にざわついた。


ベルグが低く呟く。


「……無理をしていたツケが来たか」


独り言のような声だった。


誰に向けたものでもない。


それでも、その言葉は

妙に重く場に沈んだ。


マーレは唇をきゅっと結ぶ。


「……行ってくる」


そう言って走り出す背を見送りながら、

琥珀はもう一度、風車を見上げた。


ほんのわずかに。


本当にわずかにだけ、

そこから何かが混じってくる気がした。


呼ばれている、というほどはっきりしない。


けれど、

ただ見ているだけでは済まないものがある。


隣で、ラファが静かに言う。


「琥珀ちゃん。風車の調査を優先するのが妥当です」


「うん」


返した声は自然だった。


けれど、

自分でも少しだけ遅れた気がした。


ラファが、ほんの一瞬だけこちらを見る。


「……どうしましたか」


「え?」


「いえ。問題ありません」


短い会話。


噛み合っていないわけではない。


でも、

ほんの少しだけ。


いつもなら、そのままするりと繋がるはずのやり取りに、

目に見えない細い段差があった。


琥珀はその違和感を追わなかった。


今はそれより、

風車から目を離せない方が強い。


「行こう、ラファお姉ちゃん」


「はい」


二人は並んで歩き出した。


背後では、

ロクスが外へ走り、

ベルグが街の中へ足を向ける。


それぞれの持ち場へ散っていく気配の中、

琥珀とラファだけが、

まっすぐ風車へ向かっていた。


――


通りに出ると、

街の異変はまだ確かに残っていた。


工房の前に灯されていた火は、

弱くなったわけでも、

強くなったわけでもないのに、

落ち着かない揺れ方をしている。


戸口から顔を出している人々の視線も、

ざわめきも、

いつもの街のものとは少し違った。


誰も大声では騒がない。


けれど、

静まりきっているわけでもない。


何かを待っているような、

落ち着かなさだけが漂っている。


琥珀は歩きながら、

無意識にラファとの距離を確かめた。


すぐ隣にいる。


肩は触れない。


でも、近い。


そのことに、

妙に安心する。


ラファもまた、

いつもより少しだけ頻繁に

琥珀へ視線を向けていた。


「街の音が……少ないですね」


「うん」


「先ほどまでの混乱に対して、人の動きが抑えられています」


「……みんな、様子見てるのかも」


言ってから、

琥珀は少しだけ首を傾げた。


ラファは一瞬だけ黙る。


「その可能性はあります」


また、ほんのわずかな間。


言葉にできるほどのものではない。


でも、

その沈黙が少しずつ積み重なっている。


琥珀は前を向いたまま、

小さく息を吐いた。


風車は、近づくほど大きく見えた。


街の中にずっとあったはずなのに、

今日はまるで違う場所のものみたいだ。


怖い。


その気持ちは確かにある。


なのに、

目を逸らしたくない。


近づくほどに、

胸の奥で何かが静かに震える。


隣のラファの気配も、

いつもより濃く感じた。


離れたくない。


その思いは確かにあるのに、

足は止まらない。


風月の鐘亭の前では、

マーレが何人かに声をかけていた。


人々を中へ促しながら、

ふと顔を上げる。


その視線の先に、

風車へ向かう二人の後ろ姿がある。


「……なんでだろ」


誰に聞かせるでもなく、

小さく漏らす。


胸が落ち着かない。


嫌な予感と呼ぶには、

まだ形がない。


けれど、

何かが近づいているような感覚だけが、

消えずに残っていた。


マーレはもう一度、

強く風車を見上げる。


「琥珀ちゃん……ラファちゃん……」


その呟きは、

風に溶けて消えた。


――


風車へ近づくにつれ、

街のざわめきは後ろへ遠ざかっていった。


代わりに聞こえてくるのは、

風の音と、

羽のわずかな軋みだけだ。


琥珀は歩きながら、

何度か瞬きをする。


視界は普通だ。


景色も変わらない。


でも、

何かだけが少しずつ濃くなっている。


風車の輪郭。


石の壁。


動く羽。


その奥にある、

まだ見えないもの。


「琥珀ちゃん」


ラファの声がして、

琥珀ははっと隣を見る。


「……なに?」


「いえ」


ラファは少しだけ言葉を止める。


「顔色が、少し」


「え、大丈夫だよ」


笑おうとした。


けれど、

うまく笑えた気がしなかった。


ラファの視線が、

ほんの一瞬だけ細くなる。


「無理はしないでください」


「うん」


また、少し遅れる。


返事はしているのに、

自分の声が自分から遠い。


琥珀は首を振った。


まだ平気。


まだ、大丈夫。


そう思うのに、

胸の奥では別の何かが静かに波立っていた。


一方でラファの内側にも、

小さなノイズが走り続けていた。


認識そのものが乱れているわけではない。


視界も、音も、情報も問題ない。


それでも、

琥珀の反応がわずかに遅れるたび、

何かが引っかかる。


いつもの微細なズレとは違う。


処理の遅れに近い感覚の奥で、

別のものがざわついている。


琥珀ちゃんを、見失いたくない。


その感情が、

ノイズより先に浮かぶことに、

ラファはまだ名前をつけられなかった。


――


風車の前に着いた時、

すでにロクスとベルグは戻ってきていた。


ロクスが、二人に気づいて手を上げる。


「街の周りを走ったが、外はそこまで酷くはなかった!」


ベルグがすぐに続ける。


「街の中の方が、やはり酷いか」


報告はそれだけだった。


長く語る必要はなかった。


外よりも、

この街の中で。


そしておそらく、

この風車の周辺で。


何かが起きている。


それはもう、誰の中でも同じだった。


ロクスが風車を見上げる。


「こんな近くで見るの、初めてだな……」


「わしもじゃ」


ベルグは苦く笑うでもなく、

ただ静かに言った。


「街の仕組みは見てきた。歯車の流れも、力の巡りもな。じゃが……中身そのものは、知らん」


ロクスが扉の前へ歩み寄る。


厚い木と、古い金具。


見た目に壊れている様子はない。


ベルグも壁へ手を当て、

指先で石の継ぎ目をなぞる。


「異常があるなら、もっと分かりやすく出てもよさそうなものだが……」


「……でも、あるんだろ」


ロクスの声は低い。


「ある」


ベルグは短く答えた。


その時だった。


陽炎のように、

風車の前の空気がふっと揺れた。


熱のせいかもしれない。


火の異常がまだ残っている以上、

そう見えてもおかしくはない。


けれど、

ただの熱の揺らぎにしては、

妙に輪郭が曖昧だった。


誰もすぐには扉に触れなかった。


風の音だけが通る。


羽がゆっくり回る。


その場の空気だけが、

街の他の場所よりも少し深い。


琥珀はじっと風車を見つめたまま、

気づけば呼吸が少し深くなっていた。


意識して吸ったわけじゃない。


なのに、

胸の奥まで空気が入ってくる。


その瞬間。


何かが、変わった。


「……っ」


視界の奥が、かすかに遠のく。


ラファがすぐに琥珀を見る。


「琥珀ちゃん?」


返事をしようとした。


でも、

声になる前に、

別の何かが先に入り込んでくる。


風車の奥。


石の向こう。


火の揺れの向こう。


そこに、

“いる”。


起き上がろうとしている何か。


それが、

今はもうただの気配ではなく、

はっきりとこちらへ滲んできていた。


琥珀の瞳が、

静かに色を変える。


光を映しているのに、

いつもの温度がない。


焦点は合っている。


けれど、

見ている先が違う。


ラファの表情が変わる。


「琥珀ちゃん!」


その呼びかけに、

琥珀はゆっくりと顔を向けた。


ちゃんと聞こえている。


なのに、

意味が届くまでに薄い膜がある。


「……ラファ、お姉ちゃん……」


返した声は小さかった。


でもそれは、

いつもの返事とは少し違った。


ラファの方を見ているはずなのに、

その視線はどこか遠い。


ロクスが眉をひそめる。


「おい、どうした」


ベルグも振り返る。


けれどその声は、

もう琥珀には届ききらなかった。


石の壁。


その一角だけが、

妙にはっきり見える。


誰も触れていない場所。


誰も気づかなかった継ぎ目。


そこに、

細い裂け目のような影があった。


探したわけじゃない。


見つけようとしたわけでもない。


ただそこだけが、

最初から知っていたみたいに目に入る。


琥珀は、そちらへ一歩踏み出した。


「琥珀ちゃん!」


ラファの声が、今度は少し強くなる。


止まらなきゃ。


そう思った気がした。


ラファと離れたくない。


その気持ちは、

まだちゃんとある。


なのに、

身体が止まらない。


意識より先に、

足が動く。


裂け目の前で、

ほんの一瞬だけ立ち止まり――


そのまま、

吸い込まれるように身を滑り込ませた。


「琥珀!」


ラファが手を伸ばす。


けれど、届かない。


石の向こうへ、

琥珀の姿が消える。


風車の中へ。


その瞬間、

外に残ったのは、

切り裂かれたようなラファの声だけだった。


「琥珀ちゃーん!」

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