表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
30/40

第26話 後編

部屋へ戻るころには、地下倉庫のひんやりした空気はもう背中の向こうへ遠ざかっていた。


代わりに迎えたのは、やわらかな暖かさだった。


窓辺から差し込む光。

寝台のそばに置かれた椅子。

静かな部屋の空気。


さっきまで冷たい風と光の中にいたせいか、その穏やかさがいつもより深く身体に沁みる。


ラファは琥珀の歩幅に合わせるように、すぐ隣を歩いていた。


無理に支え込むのではなく、いつでも手を伸ばせる距離を保つ。

それだけで、琥珀も少し肩の力を抜ける気がした。


部屋へ入ると、琥珀はふう、と小さく息を吐いた。


「……なんか、急に力抜けたかも」


「緊張が切れたのだと思います。先ほどまで、かなり集中していましたから」


「うん……」


返事をしながら、寝台の端へ腰を下ろす。


身体はまだ重い。

手足の奥にも、少し鈍い疲れが残っている。


それでも、前編までとは違った。


怖さだけでは終わらなかった。

ちゃんと、自分たちの手でひとつ形にできた。

その小さな手応えが、胸の奥にまだ残っている。


その時だった。


部屋の外から、ふわりと温かい匂いが流れこんでくる。


出汁の香り。

焼いたものの香ばしさ。

やさしく湯気を含んだ、ほっとする匂い。


琥珀の耳が、ぴくりと動いた。


次の瞬間。


ぐぅぅぅぅ……


「……あ」


琥珀の身体が、ぴたりと止まる。


ラファがゆっくりと瞬きをした。


「……琥珀ちゃん」


「ち、違うの」


琥珀は耳まで真っ赤になりながら、お腹を押さえる。


「違わないけど……」


「空腹ですね」


恥ずかしそうに耳を倒す。


「うぅ……」


その絶妙な間のあと、部屋の戸がこんこんと叩かれた。


「入るよ」


扉が開き、マーレが湯気の立つ盆を持って入ってくる。

その後ろには、小さな湯気を揺らしながら、スープや温かい料理が並んでいた。


琥珀がお腹を押さえたまま気まずそうにしているのを見て、マーレがふっと笑う。


「ほらねぇ」


マーレは盆を机に置きながら、にっと笑う。


「身体は正直だろう? お昼もろくに食べてないんだ。力が出ないわけさね」


琥珀はしゅんと耳を伏せかけて、それでも匂いにつられるように料理を見る。


「……お腹、すいた」


「知ってるよ」


マーレはからからと笑った。


机の上へ並べられていく料理は、どれも派手ではない。

けれど、今の琥珀の身体にはそれが何よりありがたく見えた。


あたたかなスープ。

やわらかく煮た野菜。

少し塩気のきいた焼きもの。

湯気の立つパン。


冷えた地下倉庫から戻ったばかりの身体に、その全部がやさしく染みそうだった。


「さ、まずは食べな。挑むにしたって、空っぽじゃ前に出られないだろう?」


「……うん」


素直に頷いて、琥珀はスープへ手を伸ばした。

まだ少しだけ手元が危なっかしいのを見て、ラファがそっと器を支える。


「熱いので、気をつけてください」


「ありがと」


ひとくち飲む。


やわらかな温かさが、喉を通って胸の奥へ落ちていく。

冷えた空気の中で張っていたものが、その一口で少しずつほどけていくようだった。


「……おいしい」


その呟きは、ほとんど息みたいに小さかった。


マーレはそれを聞いて、ふっと目を細める。


「ならよかった」


ラファもまた、静かに琥珀の顔を見ていた。

食べられている。

ちゃんと味が分かる。

それだけで、少し安心できる。


琥珀はもうひとくち、今度はさっきよりも少ししっかり飲んだ。


空っぽだったところへ、温かさが落ちていく。

お腹の奥がようやく“足りない”から“戻ってくる”へ変わっていく。


「やっぱり、食べないと駄目だね」


「当然です」


「即答だぁ……」


少しだけ頬をふくらませる。

でも、そのやり取りさえどこか軽かった。


前編の成功が、まだ胸の中に温かく残っている。


頭の中で思い描いたものが、ちゃんと形になった。

ほんの小さな氷。

でも、ちゃんと“できた”と思えるもの。


だから今は、ただ疲れているだけじゃない。

次へ進むために身体を戻している、そんな感じがした。


「……でも」


スープの器を両手で持ちながら、ぽつりと零す。


「ちゃんと、できたんだよね。ほんの少しだけど」


ラファは静かに頷いた。


「はい。確かに形になっていました。前へ進んでいます」


その言葉に、琥珀は小さく笑う。


大きな自信じゃない。

まだ怖さもある。

でも、自分たちにもできるんだと思えた。


マーレは、そんな二人の様子を見てから、窓の方へちらりと目を向けた。


外の光はまだある。

けれど、その明るさの向こうに、落ち着ききらない気配が残っていた。


遠く、風車のある方角。

空気がわずかに揺らいで見える。

熱の名残みたいな歪みは、まだ消えていない。


部屋の中は温かい。

食事の湯気もある。

けれど、外はまだ“終わっていない”。


「……少しは静かになってきたけどねぇ」


その呟きに、琥珀も窓の方を見る。


「まだ、残ってるんだ」


「残ってるさ。だからこそ、今は食べて休むんだよ。腹も空っぽ、身体もふらふらで、あんなとこに向かったらどうなるか分かったもんじゃない」


「うん……」


それは否定できなかった。

前編で氷はできた。

でも、まだ挑めるところまでは行っていない。


だから今は、無理に急がない。

食べることも、休むことも、ちゃんと次へ進むための準備だ。


「食べて、少し落ち着いたら。そのあとで、また考えましょう」


「……うん」


今度の返事は、さっきよりしっかりしていた。


琥珀はもうひとくち、温かいスープを口に運ぶ。

その湯気が頬をかすめるたび、冷えた地下倉庫にいた身体が、少しずつ今ここへ戻ってくる気がした。


窓の外には、まだ異変の気配が残っている。


けれど、部屋の中には湯気と食事の香りがあった。

そして、次へ進むための小さな時間が、ちゃんとここにあった。


温かいスープを飲み下した、その時だった。


こと、と。

机の上の匙が、ごくわずかに震えた。


琥珀の耳が、ぴくりと動く。


「……あれ」


それは、本当に小さな揺れだった。


椅子が軋むほどでもない。

器の中身が跳ねるほどでもない。

けれど、床の下を何かが遠くでかすめたような、微細な振動が一瞬だけ走った。


琥珀は思わず、息を止める。


今の、なに。


ラファもまた、すぐに顔を上げた。


「……わずかですが、振動を検知しました」


窓辺の近くで盆を片づけかけていたマーレの手も、ぴたりと止まる。


「今の……」


三人の視線が、自然と合う。


はっきりした揺れではない。

けれど、確かに何かがあった。


琥珀はそっと器を置くと、耳を澄ますように部屋の空気を探った。


「……揺れたよね」


「はい。ごく微細です。ですが、錯覚ではないと思います」


マーレは窓の外へ目を向ける。


「嫌な感じだねぇ」


その言葉に、琥珀もつられるように窓の外を見た。


部屋の中はまだ温かい。

けれど、窓の向こうに広がる街は、完全に落ち着きを取り戻したようには見えなかった。


遠く、風車のある方角。

空気がゆらりと揺らぎ、熱の名残みたいな歪みがまだ薄く漂っている。


前みたいに、見ただけで身が竦むほどではない。

けれど、終わったとはとても言えなかった。


少し静かになった。

でも、静かになっただけだ。


異変そのものは、まだそこにいる。


「熱は、少し引いたようにも見えます。ですが、風車周辺の空気の乱れは継続しています」


「落ち着いたって言うには、まだ早いかねぇ」


琥珀は小さく頷く。


「うん……。さっきの揺れも、なんだか気になる」


マーレは、そうさねぇ、と低く返した。

ただ、今ここで分かることは多くない。


──────────


工房では。


ベルグは机いっぱいに広げた紙へ炭筆を走らせながら、足元に積まれた部品へ次々と目を移していた。

ロクスはその横で、言われた通りに板や金具を運びながら、時々外の方へちらりと目をやる。


「風車のあたり、まだ熱ぇな。さっき見た時よりは、ちょっとだけマシだった気もするけどよ」


「“ちょっとだけ”では困るんじゃがのぅ」


ベルグは顔も上げずに言う。


「近づけるかどうかと、中で耐えられるかどうかは別じゃ。そこを履き違えたら意味がない」


ロクスはむっとしたように口を尖らせる。


「分かってるって。でも、少しでも変わったなら試せる所もあるだろ」


ベルグはそこでようやく手を止め、机の上の試作スーツへ視線を落とした。


まだ途中のそれは、組み直したばかりで継ぎ目も多い。

防護は足りない。

熱も逃がしきれない。


今のままでは、押し切れないのは明らかだった。


「試すのはいい。じゃが、試して壊れる側のことも考えい」


「……それ、オレのこと言ってる?」


「他に誰がおる」


ロクスは肩をすくめつつも、工房の出入口の向こうを気にしている。


「けどよ。前みたいに全然近づけねえって感じじゃ、もうない気もするんだよな。熱の押し返し方が、少し変わったっていうか」


ベルグの目が、わずかに細くなる。


「……変わった、か」


「たぶんだぞ? 勘かもしれねえけど」


ベルグは低く息を吐く。


「勘でも何でも、変化は変化じゃ。じゃが、確認するならなおさら今のままでは足りん」


「近づくだけなら、まだしも。耐えるには足りん。動くには、もっと足りん」


ロクスは試作スーツを見下ろした。


「……やっぱ、まだ厳しいか」


「厳しいのぅ。じゃが、前よりは“何を足すべきか”が見えとる」


その言葉と一緒に、ベルグは机の端に置かれた部品を軽く叩く。


支援機構の試作。

防護板。

組みかけの接続部。

そして、まだ形になりきらないスーツ。


全部、未完成だ。

だが全部、止まってはいない。


工房の中には、木と鉄と油の匂いが混ざっていた。

その熱気の向こうに、まだ終わっていない外の異変がある。


けれど今は、ただ怯えているだけの時間ではなかった。


部屋の中で琥珀たちが温かい食事を取っているその間にも。

工房では、次の準備のための音が静かに積み重なっていた。


そして、その両方の底で。


街のどこかを、もう一度、ごく微細な揺れが走った。


今度もまた、はっきり分かるほどではない。


けれど、異変はまだ終わっていない。

しかも、ただ同じまま留まっているだけでもない。


何かが、少しずつ動いていた。


「オレ、ちょっと見てくる」


工房の空気が、そこでひとつ止まった。


ロクスは試作スーツの脚部を軽く叩きながら、風車のある方角を見ていた。

勢いだけで言っている顔ではない。

さっきからずっと、外の変化を測るみたいに目を向けていた。


「前みたいに全然近づけねえって感じじゃ、もうない気がするんだ。だったら、今どこまで行けるかくらいは見ときてぇ」


「……確認は必要じゃ。じゃが、賛成しとるわけではないぞい」


ベルグは炭筆を置き、机の上の試作スーツへ手を伸ばした。


「今の熱がどう変わったか。どこまでが危険域か。そこは知っておかねばならん」


「わしも行く」


ロクスが目を瞬く。


「一緒に来るのかよ」


「見るだけじゃ。以前、琥珀が飛び降りたあたりまで行けるか確かめたい。今回の確認は、そこが目安じゃ。じゃが、そこまで入る気はない」


ロクスはその言葉を聞いて、ふっと息を吐いた。


「……分かった。確認だけだ。危ねぇと思ったら、すぐ戻る」



試作スーツを身につけたロクスは、工房の外へ出る前に一度だけ脚を踏み鳴らした。


がしん、とまだ硬さの残る音が鳴る。


継ぎ目は多い。

動きもまだ少し重い。

防護も、完成にはほど遠い。


それでも、何も無いよりはましだった。


ベルグは肩や脚部の留め具をひとつずつ確かめ、最後に脚の外装を軽く叩く。


「脚に無理が来たら、すぐ引け。走ることだけ考えるな。戻るまでが確認じゃ」


「何回も言うなって。でも、ま……分かってる」


ロクスは軽く肩を回したあと、風車の方角を見た。


「行けるとこまで、じゃねぇな。見えるとこまでだ」


ベルグはそれに、うむ、と短く返した。


外へ出ると、風は無かった。


いや、正しくは、風が分からなかった。


熱を含んだ空気が、広く、重く、街の一角を覆っている。

遠目には前より静かに見える。

けれど近づくほど、その静けさの中にまだ異変が生きているのが分かった。


ベルグとロクスは、風車の見える通りを進む。


以前、琥珀が飛び降り、ラファと再会したあの場。

あの時は、四人がそこに立てた。


だが今は違う。


その位置まで辿り着く前に、空気の質がはっきり変わっていた。


「……ここでも、もう重いのぅ」


ベルグが足を止めたのは、以前ならまだ進めたはずの場所だった。

そこから先も、風車の外壁も、琥珀が飛び降りた窓のあたりも見える。

けれど、今はその景色が、熱に揺らいで遠く見えた。


前は、あそこに立てた。

今は、そこへ行く前に止められる。


危険域が、広がっている。


「オレ、もう少し行く」


ベルグは即座には止めなかった。

ただ、目を細めたまま低く言う。


「見える範囲で戻れ。まずいと思った瞬間に引くんじゃぞ」


「分かってる」


ロクスは一歩、また一歩と前へ出た。


最初の数歩は、行ける気がした。


前よりは近づける。

少なくとも、まったく近寄れないわけではない。

熱の押し返し方が、たしかに少し違う。


だが。


数歩進んだだけで、試作スーツの中に熱が溜まり始める。


「っ……」


外から熱い。

それだけじゃない。


中が、熱い。


耐熱のために閉じた分、空気が抜けない。

熱がこもる。

呼吸をするたび、内側からむっとした熱気が顔に返ってくる。


額から汗が噴き出す。

背中に流れる。

脚の内側にもじわりと熱が広がる。


熱い。

重い。

息苦しい。


動くたび、脚部に負荷がかかる。


「まだ行けるか……?」


自分に言い聞かせるみたいにそう漏らした時、ふと、目の前の風車が揺らいで見えた。


あの中に、琥珀はいた。


外でこれなら、中は――


ぞっと、背中に冷たいものが走った。


こんなところに、あの小さな身体で。

歯車の中で。

熱と蒸気の中で。


「……っ」


その想像だけで、足が止まりそうになる。


駄目だ。


そう思った瞬間、ロクスは即座に身を返した。


無理を押し切る理由はない。

ここで粘ることに意味はない。

今必要なのは、行けるふりをすることじゃない。


戻ることだ。


「ベルグ!」


声を張った、その次の瞬間だった。


ぎしっ――


嫌な音が、脚元から響いた。


「っ!?」


右脚の外装がずれる。

熱を受け続けた脚部の継ぎ目が、わずかに歪んだのだ。


一歩踏み出すたび、がくん、と不安定に沈む。


「ロクス!」


「脚、やべぇ!」


それでも止まれない。


熱気の中に立ち止まる方が危ない。

ロクスは体勢を崩しかけながらも、脚を引きずるようにしてベルグのいる方へ戻る。


スーツの中はもう汗だくだった。

熱がこもり、息をするたび胸が苦しい。

脚は重く、視界も熱に揺らぐ。


あと少し。

あと少しで届く。


「こっちじゃ!」


ベルグが一歩前へ出る。

ぎりぎりまで寄りながら、ロクスの腕を掴んだ。


その瞬間、張っていた熱の層を一枚抜けたみたいに、空気が少しだけ変わる。


ロクスはそのまま数歩たたらを踏んで、ようやく危険域の外へ転がり出た。


「っ、は……はぁ……っ」


膝に手をつき、荒く息を吐く。


脚部の外装は一部が焼け、継ぎ目もずれていた。

完全に壊れたわけではない。

けれど、今のままではもう一度入れば保たないのは明らかだった。


ベルグはロクスの脚部を見て、低く息を吐く。


「やはり脚から来たか」


「……中、やべぇな」


声が掠れる。


「外も熱い。けど、それより……中がこもる。汗で、べたべたして……気持ち悪ぃし、動きにくい。これじゃ、入れても動けねぇ」


ベルグは黙って聞いていた。

その顔はもう、失敗を責める顔ではなかった。


必要なことが、はっきり見えた顔だった。


「戻るぞい」


「おう……」


今のままでは駄目だ。


以前立てた場所にすら届かない。

届く前に、危険域が広がっている。

しかも、近づけたとしても、中で熱がこもって保たない。


風車へ挑むには、まだ足りない。


けれど。

何が足りないのかは、今、確かに見え始めていた。


──────────


鐘亭の外から、がしゃん、と鈍い音がした。


琥珀の耳が、ぴくりと立つ。


「……っ」


ラファとマーレも同時に顔を上げた。


「今の音……」


嫌な予感が、先に走る。


琥珀はほとんど反射みたいに立ち上がった。

ラファとマーレもすぐ後に続く。


外へ出ると、そこにいたのはロクスとベルグだった。


ロクスの足取りはさすがに軽くはない。

試作スーツの脚部は一部が焼け、継ぎ目もずれている。

中にこもった熱のせいで、外したばかりの金具にまで嫌な熱が残っていた。


「うわ、まだ熱いじゃないかい」


マーレが眉をひそめる。


ロクスは首元を緩めながら、大きく息を吐いた。

中はもう汗だくだった。

額から落ちた汗が頬を伝い、首筋からもまだ熱気が抜けきっていない。


「……思ったより洒落になってねぇ」


琥珀はその姿を見た瞬間、ぴたりと足を止める。


琥珀のしっぽが、ぴんと立った。

耳も、いつものやわらかい動きではない。


「どうして勝手に行ったの! 危ないって分かってたのに!」


ロクスが一瞬、言葉を探すように口を開く。


「いや……確認だけのつもりで」


「確認でも危ないでしょ! 戻って来られなかったら、どうするの!」


その怒りは、ただ腹が立ったからじゃない。

風車の近くがどういう場所なのか、琥珀はもう知っている。

熱がどれだけ怖いかも、あの中で何が起きるかも、少しは身体に残っている。


だからこそ、相談なしで行ったことが許せなかった。


ラファはその隣で、静かに二人を見ていた。

その目は落ち着いている。

けれど、声はいつもよりずっと硬かった。


「確認が必要だったこと自体は否定しません。ですが、相談なしで行ったことは別です。危険性を理解した上で、その判断を勝手に行うべきではありません」


ロクスが、う、と喉を詰まらせる。


ベルグもまた、珍しくすぐには口を挟まなかった。


「……すまんの」


短い謝罪だった。


その一言にかぶせるように、マーレが腕を組む。


「まったく、ほんとに何やってんだい。危ないって分かってる場所に、黙って行くんじゃないよ。無事に戻ったから良かったようなもんだろう!」


鐘亭の空気が、そこで一度ぴんと張る。


ロクスは頭をかいた。

ベルグは低く息を吐く。


誰も、怒られる筋じゃないとは言えなかった。


しばらくして、琥珀がようやくロクスの姿をちゃんと見た。


汗で髪が額に張り付いている。

首元もぐっしょり濡れている。

脚部は焼け、金具も歪んでいる。


その状態を見た瞬間、怒りの奥にあった怖さが、別の形で胸に戻ってきた。


「……中、そんなに熱かったの」


ロクスは乱れた呼吸を整えながら、頷く。


「外も熱い。けど、それより中だな。閉じてる分、熱がこもる。汗で中がべたべたして、気持ち悪ぃし、動きにくい」


琥珀の耳が、ぴくりと揺れる。


その言葉は、そのまま自分の記憶にも重なった。


「……やっぱり」


ぽつりと、そう漏れる。


「わたしも。中で、服が張り付いたの。汗で、ぺたってして……動きにくくて」


ロクスが顔を上げる。


「やっぱそうなるのか」


「うん。熱いだけじゃなくて……服が身体にくっつくの、すごく嫌だった」


琥珀は少しだけ視線を落としてから、自分の裾へ目をやった。


「それに、スカートも怖い。歯車とか、ああいうのがある中だと……巻き込みそうで。次は、ズボンの方がいいかもしれない」


マーレは、ふむ、と低く返した。

その目はもう、叱る人の目から、仕立てる人の目に変わっている。


「張り付かない。動きやすい。巻き込みにくい」


ひとつずつ、条件を並べるように呟く。


「なるほどねぇ。だったら、形から変えた方が早いね」


ロクスが脚部を外しながら顔をしかめる。


「あと、中に熱がたまるの、あれマジで駄目だ。外が熱いのもやべぇけど、中が逃げねぇのがきつい」


その言葉に、琥珀が顔を上げた。


「……風」


みんなの視線が集まる。


「外の風が入ると、ちょっと楽になるかも。服の中に、熱がこもらなかったら……少しは違うかな」


マーレが琥珀を見る。


「風が通るように、かい」


「うん」


マーレはその場でくるりと向きを変えると、近くに置いてあった布や紐を引き寄せた。


「だったら、やってみようじゃないか」


それからしばらくして。


鐘亭の一角に、簡易の仕立て台みたいな場ができていた。


布が広げられ、仮留めの紐が渡され、マーレの手が迷いなく動いていく。

普段の仕事の延長みたいでいて、今やっているのはただの衣服ではない。

風車へ挑むための支度だった。


「ここは広く取りすぎると引っかかるねぇ。でも詰めすぎると動けない。熱を逃がしたいなら、空気の抜け道もいる」


琥珀はその様子をじっと見ていた。


しばらくして、マーレは一度形にした新衣装案を持ち上げる。


完全な完成品ではない。

けれど、方向は見えた。


裾はまとわりつきにくく整理され、

脚は動かしやすいようズボン型になっている。

布の重なり方も、熱がこもりにくいよう工夫されていた。


「ほら。こんな感じなら、今よりはだいぶ違うだろう?」


琥珀がそっと触れる。


「……うん」


試しに風の入る窓際へ持っていくと、布の隙間を抜ける空気が少しだけ中を通る。


「外の風が入ると、ちょっと涼しいね」


「だろう?」


その時だった。


琥珀が衣装を見ながら、ぽそりと呟く。


「……でも。中に入る時は、外の風じゃ駄目だよね。小さい送る風……みたいなのがついたら……」


誰に言うでもない、小さな声だった。


けれど。


ベルグの手が、ぴたりと止まる。


その時ロクスとベルグは、戻ってきた試作スーツの点検をしていた。

焼けた脚部。

歪んだ継ぎ目。

中にこもった熱の痕跡。


その横で、マーレの新衣装案が風を受けてわずかに揺れる。


危なかったスーツ。

仕立て直される衣装。

どちらも、まだ途中だ。

だが、どちらももう“次へ進むための形”になり始めていた。


「……ほう」


低く、短い声だった。


ベルグはもう一度、衣装を見る。

そのあとで、脚部の壊れた試作スーツを見る。


何かが、繋がった顔だった。


琥珀の小さな呟きのあと、そこにほんの短い静けさが落ちた。


ベルグの視線が、新衣装の風の抜け道と、壊れた脚部の継ぎ目を何度も行き来する。


「送る風、か」


ロクスが眉をひそめる。


「なんだよ、その顔」


ベルグはすぐには答えない。


「外の風があれば、少しは楽になる。じゃが、風車のそばではそれに頼れん。なら、送るしかない」


ラファがわずかに目を細める。


「内部循環の補助、ですか」


「まだ分からん。じゃが……思い出したもんがある」


ベルグはそこで、ふいに顔を上げた。


「待っとれ」


「は?」


「工房じゃ。あれは、まだ埋もっとるはずじゃ」


そう言うや否や、ベルグはもう踵を返していた。


ロクスが思わず声を上げる。


「お、おい! ちょっと待て! またオレに何か持たせる気だろ!」


「分かっとるなら早い!」


「分かりたくて分かってるんじゃねえよ!」


マーレが呆れたように息をつく。


「ほんと、火がつくと早いねぇ」


琥珀はその背中を見送りながら、少しだけ目を丸くした。


さっきまで途中だったものが、また別の方向へ動き出した気配がした。


──────────


工房の戸が勢いよく開いた。


ベルグは迷いなく棚の奥へ向かい、積み重なった箱や板をかき分けていく。

奥の方に追いやられていた小さな部品が、がたがたと音を立てた。


ロクスは遅れて飛び込み、息を切らしながら声を上げる。


「だから急なんだよ毎回!」


「そこ持て!」


「説明しろ!」


ベルグが引っ張り出したのは、小さな回転部のついた試作だった。


「これ、前に炉で使おうとしたやつじゃねえか」


「そうじゃ」


ベルグは試作を持ち上げたまま鼻を鳴らす。


「炉の炎を焚きつける時はふいごを使うじゃろ。あれは手が塞がる。じゃから風を送る仕組みにしたかった」


ロクスが試作を覗き込む。


「でも、これボツにしてなかったか?」


「調整が効かんかったからのぅ。強すぎたり弱すぎたりで、焚きつけには向かんかった。じゃが……」


ベルグの目が細くなる。


「小さい風を送るだけなら、話は別じゃ」


ロクスが一瞬きょとんとしたあと、顔をしかめる。


「……あー、嫌な予感してきた」


「おぬしはそっちじゃ!」


「今度はなんだよ!」


ベルグは工房の隅に立てかけてあった大きな部材を指さした。


「そっちは排熱用の送風機になる。大きい分、まずは中の熱を吐かせる」


ロクスが目を丸くする。


「でかっ! これ持つのかよ!?」


「まずは持て。あと横の長板もじゃ」


「雑!」


ベルグの腕の中には、小さな試作がいくつも収まっていた。

一方ロクスは、大きな送風機の土台になりそうな部材と長板を抱え上げている。


小さいものを抱えるベルグ。

大きいものを持たされるロクス。


その姿はいつも通りでもあり、今までと少し違ってもいた。


「……なんでオレだけ毎回でかい方なんだよ」


「背が高いからじゃ」


「酷くないか!?」


ベルグは鼻を鳴らしただけで、もう足を止めなかった。


──────────


戻ってくるころには、鐘亭の庭先が、半分ほど即席の作業場みたいになっていた。


布が広げられ、紐が渡され、マーレの新衣装案が見える位置に掛けられている。

そのすぐそばに、壊れた試作スーツ。

そして、ベルグとロクスが抱えて戻った大小の部材。


「戻ったよ」


そう言って振り向いたマーレの前で、ベルグは抱えていた小さな試作を机代わりの台の上へ並べていった。


小さな回転部。

簡単な補助羽。

使い道が定まらず眠っていた小型機構。


「これ……」


琥珀が一歩近づく。


「前に作った、力足らずの失敗作じゃ。大きいもんを動かすには足りんかった。じゃが、小さい風を送るだけなら話は別じゃ」


ラファがその形を見つめる。


「補助送風用として再利用する、ということですね」


「まだできるとは言っとらん。じゃが、道は見えた」


ロクスは抱えてきた大きな部材をどすんと下ろし、肩を回した。


「で、こっちは?」


ベルグがそちらへ視線を移す。


「今は排熱用じゃ。中にこもった熱を、まず逃がさんと話にならん。小さい方で送る。大きい方で吐かせる」


ロクスがふうんと唸る。


「じゃあ、こっちは熱を出す側か」


「今は、な」


その短い言い方に、ロクスが片眉を上げる。


「……“今は”って何だよ」


ベルグはにやりともせず、ただ試作スーツと新衣装案を見比べた。


「役目は、組み方次第で変わる」


その言葉は短かった。

けれど、後で意味を持つ匂いがあった。


マーレも新衣装案の布を持ち上げながら、ベルグの手元を見る。


「風の通り道を服の中に作るなら、布の逃がし方も変えた方がよさそうだねぇ」


「そうじゃな。外から入る風と、送る風では通し方も違う」


マーレの目も、もう衣装だけを見てはいなかった。

布の流れと機構の置き場を、一緒に見始めていた。


鐘亭の庭先には、いつの間にか人の気配が増えていた。


避難している街の人。

様子を見に来た旅人。

通りがかりに足を止めた者たち。


遠巻きに、けれど気になって仕方がないという顔で、その様子を見ている。


「またベルグさんが何か始めたぞ……」

「今度は何を作るんだ?」

「さっきまで壊れたとか言ってなかったか?」


小さな囁きが、あちこちで揺れる。


今までなら、奇天烈な試作として笑って見られたかもしれない。

工房の隅で眠っていた半端なものとして、誰も気に留めなかったかもしれない。


けれど今は違った。


壊れたスーツの隣に、新しい衣装案がある。

危険を見て戻ってきた者がいる。

その上で、次の手を作ろうとしている。


今まで埋もれていた試作達が、初めて“役目のあるもの”として並び始めていた。


その光景に、見ている者たちの目も少しずつ変わっていく。


ベルグはそんな周囲の視線など気にも留めず、小さな試作を指先で回した。


「……これを、ここで生かせるかもしれん」


その声は、誰に聞かせるでもなく落ちた。

けれど、確かに熱を持っていた。


琥珀は、並び始めた試作達を見つめる。


壊れたもの。

途中のもの。

忘れられていたもの。


でも、それが今、少しずつ“次に進むためのもの”へ変わっていく。


ラファもまた、静かにその光景を見ていた。

マーレは布を持ち替え、ロクスは大きな排熱用部材の横でふうと息をつく。


止まっていたものが、動き始めている。


その感じが、そこにいた誰の目にも、少しずつ見え始めていた。


「こっちはこっちで、置いてみんと分からん」


ベルグは小さな試作を指先で持ち上げると、マーレの新衣装案のそばへ歩み寄った。


鐘亭の庭先には、布と金具と壊れたスーツと、掘り起こされた試作が並んでいる。

さっきまで別々だったものが、同じ場所に集まり始めていた。


「琥珀。ちょいと、こっちへ来い」


「うん」


琥珀が新衣装案の前へ立つ。

マーレは布を軽く持ち上げながら、ベルグが試作をどこへ当てるかを見ていた。


ベルグは小さな送風試作を衣装の脇へ寄せる。

そのまま少し位置をずらし、今度は背中寄りへ当ててみる。


「脇の方が邪魔にはなりにくいかねぇ。でも、寄せすぎると腕が動かしにくくなる」


「背に回しすぎると、今度は姿勢が変わる」


「ここ……かな」


琥珀が自分の脇腹の少し後ろを指さした。


「ここなら、腕もまだ動かせるし。風が通るなら、中に抜けていきそう」


ベルグはその位置を見て、ふむ、と低く頷く。


「悪くない。布の中に風を通すなら、入口はそこでもいい」


ラファも衣装の流れを見ながら口を開く。


「脇から入れて、内側を抜けるなら。熱の滞留を減らせる可能性があります」


マーレは布をつまみ、風の通り道を確かめるように形を整える。


「だったら、ここは少し浮かせた方がいいねぇ。ぴったり張り付いたら、せっかく風を通しても意味がない」


ベルグは小さな送風試作を衣装へ仮に添えたまま、細い管の位置も確かめていく。


「外へ出る時だけ、ここへ繋ぐ形かのぅ」


「うん。中にいる時は、風の通り道があるだけでも今より違うと思う。外へ出る時に、そこへ送れたら……もっと良さそう」


「まずは、通り道を作る。その上で、必要な時だけ送る。順番としてはその方が自然です」


服の中に風を通すための形は、ここで初めて輪郭を持ち始めていた。


まだ冷たい風ではない。

まだ、本当に送れるとも限らない。


けれど少なくとも、

“熱をこもらせないための形”は見え始めていた。


「で、問題はこっちじゃ」


ベルグが振り向いた先には、壊れた試作スーツと、ロクスが持ち帰った大きな部材があった。


ロクスは肩を回しながら、まだ少し顔をしかめている。


「問題しかない気がするんだけどな」


「その通りじゃ」


ベルグはあっさり言い切ると、スーツの背側と脚部、そして引き手側の位置を見比べた。


「中に熱がこもる。じゃから、まず逃がす。それがこっちの役目じゃ」


そう言って、大きな部材を軽く叩く。


「今は排熱用。大きい分、まずは中の熱を吐かせる」


ロクスはしゃがみ込み、引き手の位置に視線を落とした。


「でもよ。オレ、引いてる時ずっと外だろ。熱の中でこれ付けても、ただ吐くだけじゃ足りなくねぇか」


「じゃから繋ぐ」


ベルグの指が、馬力車の引き手の棒を示す。


「ここに管を通す。引き手のバーに沿わせて、おぬしのスーツへ持っていく」


ロクスが目を瞬かせる。


「バーに?」


「おぬしは馬力車を引く。なら、一番繋ぎやすいのはそこじゃ。外を走る間も、熱を逃がす流れは切らせんようにする」


ロクスは引き手の位置と、自分の立つ位置を頭の中で重ねた。


「……ああ。そこなら、走ってても邪魔にはなりにくいか」


「邪魔にならぬようにするんじゃ」


「そこは断言しろよ!」


マーレが思わず吹き出しそうになって口元を押さえる。


けれど、笑いだけでは終わらなかった。


ベルグはスーツの脇と背中を見ながら続ける。


「小さい方で送る。大きい方で吐かせる。まずはそれで、中のこもりを減らす」


ロクスは壊れた脚部に目を落とした。


「脚も直さなきゃだろ」


「当然じゃ。土台ごと見直す。熱にやられて歪むなら、そこからじゃ」


琥珀側の衣装より、ロクス側は明らかに大掛かりだった。


背負うもの。

繋ぐもの。

吐かせるもの。

支えるもの。


守るだけでは足りない。

引く役だからこそ、熱の中で動ける形が要る。


並べてみると、足りないものもはっきり見えた。


細い管をどこで留めるか。

動いた時に外れないか。

重さはどこへ逃がすか。

小型送風を衣装につけても、布が暴れすぎないか。

大きい排熱部材をロクスの側へ持たせた時、走る邪魔にならないか。


そして何より。


「冷やす方が、まだ無いねぇ」


マーレの言葉に、ベルグが頷く。


「そうじゃ。送る口と吐く口は見えた。じゃが、冷やす源はまだこれからじゃ」


「ただの風を回すだけじゃ、限界があるってことか」


「無いよりはましじゃろう。じゃが、それでは足りん」


ラファが試作を見つめたまま静かに続ける。


「耐えられる環境を作るには。熱を逃がすだけでなく、冷やす仕組みが必要です」


琥珀は並べられた試作を見つめる。


小さい送風試作。

大きい排熱部材。

壊れたスーツ。

新しい衣装案。


まだ全部は揃っていない。

まだ、完成なんて全然見えない。


けれど。


「……でも」


その声に、みんなの視線が集まる。


「服の風通りは、見えてきたよね」


マーレが頷く。


「見えたさねぇ」


「送る方と、逃がす方も。少しずつだけど……形になってきた」


ベルグは腕を組んだまま、馬力車の方へ目を向けた。


「次の問題は、冷やす方じゃ。馬力車の冷却機構をどう作るか……そこがまだ足りん」


服の風通りは見えた。

送る風と排熱の受け皿も見えた。


だが、冷気の源はまだ無い。


だから次に向かうべき場所が、ここで初めてはっきりした。


ラファは小さく頷く。


「全体像は見え始めています。次に詰めるべき点も、明確です」


ロクスは大きな部材の横で腕を組む。


「……正直、まだ無茶にしか見えねぇ。けど、さっきよりは“何するか分かる無茶”だな」


「無茶は前提かい」


「ベルグがいる時点でな!」


「褒め言葉じゃな」


鐘亭の庭先に、小さく笑いが落ちる。


けれど、手は止まらなかった。


試作を置き直す音。

布を裁つ音。

金具の位置を確かめる音。

誰かが息を呑み、誰かが頷く気配。


その一つ一つが、ただの思いつきを少しずつ形へ変えていく。


遠巻きに見ていた街の人や旅人たちの目も、少しずつ変わっていた。


「さっきより、なんか……本当に形になってきてないか」

「ただ並べてるだけじゃなさそうだな」

「ベルグさんの試作、ああやって使うのか……」


小さな声が、今度はさっきよりも少しだけ真剣だった。


今までなら、奇天烈な試作として流していたかもしれない。

半端な失敗作として笑っていたかもしれない。


けれど今は違う。


役目が見えてきている。

必要だから並んでいる。

そして、それを使って前へ進もうとしている。


埋もれていた試作達が、初めて“次へ繋ぐもの”として見られ始めていた。


その中には、ただ眺めるだけではない目も混ざり始めていた。

仕組みを追うような目。

形を覚えようとする目。

奇天烈さではなく、可能性を見る目。


ほんの小さな変化だった。

けれどそれは、いつか誰かが受け継ぐための、最初の芽みたいでもあった。


ベルグはそんな視線など気にも留めず、小さな試作をもう一度持ち上げる。


「……まだ足りん。じゃが、見えてきた」


その声は低かった。

けれど確かに、前へ進む熱を持っていた。


鐘亭の庭先に並ぶのは、壊れたものと、途中のものと、忘れられていたものばかりだ。


それでも今は、どれも止まっていなかった。


鐘亭の庭先に並んだ試作を前に、ひとつだけ、まだ埋まらない空白があった。


小さい送風試作。

大きい排熱部材。

壊れたスーツ。

新しい衣装案。


送る形は見えた。

逃がす形も見えた。


けれど、その真ん中にあるはずのものが、まだ無い。


「冷やす方、だねぇ」


マーレが布を持ったまま、ぽつりと呟く。


ベルグも腕を組み、馬力車の方へ目を向けた。


「そうじゃ。送る口と吐く口は見えた。じゃが、冷やす源が無ければ意味がない」


ロクスは大きな部材の横でしゃがみ込んだまま、唸る。


「ただの風を回すだけじゃ、限界あるもんな」


「無いよりはましじゃ。じゃが、それでは足りん」


ラファが静かに続ける。


「耐えられる環境を作るには。熱を逃がすだけではなく、冷やす仕組みそのものが必要です」


そこで初めて、全員の視線が同じ場所へ向いた。


馬力車だった。


琥珀は、その木の箱をじっと見つめた。


車輪。

荷台。

引き手。

まだ何も積まれていない、ただの運ぶための形。


けれど、見ているうちに、別のものが少しずつ重なってくる。


地下倉庫のひんやりした空気。

石壁の冷たさ。

水瓶の表面に溜まっていた冷気。

足元を抜けていく細い風。


あの場所は、広かった。


冷えていたのは、水瓶だけじゃない。

空気ごと、空間ごと、冷えていた。


「……広いままじゃ、持っていけないよね」


誰に言うでもなく、ぽつりと零れる。


マーレがそちらを見る。


「地下倉庫のことかい?」


琥珀は小さく頷いた。


「うん。あそこって、広い空間ごと冷えてたの。だから、あのまま持っていくのは無理」


「そりゃそうだねぇ」


ロクスも腕を組みながら、馬力車と琥珀を見比べる。


「地下ごと積むわけにもいかねえしな」


琥珀はそれでも、馬力車から目を離さなかった。


広い空間は無理。

でも、冷やしたいもの全部を広げる必要もない。


必要なのは――


「……小さく、できないかな」


ベルグの眉が、ぴくりと動く。


「何をじゃ」


琥珀は馬力車へ近づきながら、両手で何かの形を囲うみたいに動かした。


「冷えてる場所。広いままじゃなくて……もっと小さく。必要なところだけ、箱みたいにできたら」


ロクスが目を丸くする。


「箱?」


「うん」


琥珀は少し考えるように視線を上げたあと、言葉を探す。


「昔ね。氷を入れて、中を冷やす箱みたいなの、あったの。今みたいに勝手に冷えるんじゃなくて。冷たいものを入れて、その中を保つ感じの……」


ベルグの目が、はっきり変わる。


「……ほう」


低い声だった。

けれど今度のそれは、さっきよりずっと深かった。


「広い冷えを、そのまま持っていくんじゃない。小さい箱の中へ閉じ込める、か」


琥珀が頷く。


「うん。あの地下倉庫そのものは無理でも。小さくした場所だけ冷えてたら、そこから使えるかもって」


ラファが馬力車の内寸を目で追うように見ながら口を開く。


「冷却域を限定する、という考え方ですね。必要な空間だけを保てれば、効率は上がります」


「なるほどねぇ」


マーレは感心したように息をつく。


「広く冷やすんじゃなくて、閉じ込めるのかい。だったら、囲い方次第で保ちやすくもなるねぇ」


ロクスは馬力車の荷台を軽く叩いた。


「ってことは、この中に箱を作るのか?」


「作るなら、そうじゃな」


ベルグはもう完全に考える顔になっていた。


「箱の形。氷を置く位置。冷気を溜める場所。そこから、どこへ送るか」


ひとつひとつ、確かめるみたいに口にしていく。


「揺れる馬力車に積んで保てるか。開けた時にどれだけ逃げるか。補充はどうするか」


ロクスが思わず苦笑する。


「もう頭ん中で組み始めてんじゃねえか」


「当然じゃ」


その返しは早かった。


ベルグの目にはもう、ただの馬力車は映っていなかった。

その中に収まる箱。

そこへ溜まる冷気。

繋がる管。

送られる風。

吐き出される熱。


まだ形は無い。

けれど、機構の芯だけははっきり立ち始めていた。


しばらくのあいだ、誰も大きくは喋らなかった。


馬力車を見る者。

試作を見る者。

衣装を見る者。


それぞれの視線が、今出た発想を自分の持ち場へ引き寄せていく。


やがてマーレが、先に口を開いた。


「箱にするなら。中をあんまり広く取りすぎない方が良さそうだねぇ。隙間が多いと、それだけ逃げるだろうし」


「そうじゃな。広ければ広いほど保ちにくい」


「じゃあ、持っていくのは必要な分だけか」


「たぶん……そう」


琥珀はまだ馬力車を見ながら答える。


「全部を冷やすんじゃなくて。使う分だけ、ちゃんと冷えてたらいいのかも」


ラファがその言葉を受ける。


「冷気の保管と供給を分けて考えれば。構造としては整理しやすくなります」


ロクスは感心したように鼻を鳴らす。


「なんかもう、そこまで来ると本当に作れそうに聞こえるな」


「聞こえるだけでは困るんじゃがのぅ」


「すぐそういうこと言う」


小さく笑いが落ちる。


けれど、その笑いの奥にも、さっきまでとは違う実感があった。


冷却機構はまだ無い。

氷をどう保つかも、まだ分からない。

そもそも、大きな氷が作れるかどうかすら、まだこれからだ。


それでも。


「……でも」


また、小さく声が落ちる。


みんなの視線が、琥珀へ集まる。


「箱にするって考えたら。ちょっとだけ、できるかもって思えた」


それは、大きな宣言ではなかった。

絶対にできると言ったわけでもない。


ただ、進む先が見えた時の声だった。


ベルグはゆっくりと頷いた。


「箱の形は見えた。じゃが、中に入れる氷がまだ足りん」


その言葉に、琥珀も頷く。


「うん。小さいのはできたけど……もっと大きいのが要るよね」


ラファが静かに続ける。


「本格的な試作は、条件の良い時に行った方がいいでしょう。昼より、夜の方が冷えに寄せやすいはずです」


「夜、か」


「そっちの方が、少しはやりやすそうだねぇ」


服の風通りは見えた。

送る風と排熱の受け皿も見えた。

馬力車へ積む冷却箱の発想にも届いた。


けれど、その中に入れる“大きな氷”はまだ無い。


だから、次に進むために必要なものも、はっきりした。


ベルグは馬力車を見つめたまま、低く言う。


「次は、氷じゃな」


その一言に、誰も異を唱えなかった。


鐘亭の庭先には、壊れたものと、途中のものと、作りかけのものが並んでいる。

それでも今は、どれも無駄には見えなかった。


進む先が見えたからだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ