第9話
朝。
光はやわらかいのに、どこか輪郭が曖昧だった。
やわらかな光が、静かに差し込む。
琥珀は、ゆっくりと目を開けた。
「……あさ」
体を起こす。
昨日のことを思い出そうとする。
風。
止まった時間。
見られている感覚。
「……」
確かにあった。
でも——
うまく、繋がらない。
輪郭が、ぼやけている。
まるで、誰かに触れられて、少しだけずらされたみたいに。
「体調はどうですか」
隣で、ラファが言う。
「……うん、大丈夫」
少しだけ間を置く。
「……でも、なんか……変」
言葉にならない。
ラファは、静かに頷く。
「異常の可能性は継続しています」
琥珀は、小さく息を吐く。
「……だよね」
それでも——
朝は、いつも通りにやってくる。
⸻
朝食。
湯気の立つ料理。
少女が笑う。
女将が声をかける。
「今日はどうする?」
「少しだけ、手伝います」
「無理はしないでおくれよ」
「うん」
穏やかな時間。
何も変わっていないように見える。
——そう見えるだけで。
⸻
昼前。
畑。
土の匂い。
琥珀は、ゆっくりと手を動かす。
指先に伝わる感触。
少し、冷たい。
「……こう?」
少女が頷く。
「うん、それで大丈夫!」
しばらく、静かな時間が流れる。
琥珀は、ふと顔を上げる。
「……」
風は弱い。
空も、まだ明るい。
それなのに——
耳が、わずかに揺れる。
しっぽが、落ち着かない。
「……なんか、変」
理由は分からない。
でも。
来る。
ぽつり、と。
雨が落ちる。
小さな雨。
静かに、降ってくる。
「すぐ止むよ」
少女が言う。
琥珀は、手をかざす。
雨は、確かに触れている。
頬に。
指先に。
そして、
服も、少しだけ湿っていく。
「……」
琥珀は、手を見つめる。
確かに、触れていた。
なのに——
肌には、何も残っていない。
濡れていない。
まるで、
最初から触れていなかったかのように。
服だけが、少し湿っている。
それだけが、現実だった。
「……」
足元を見る。
土は、乾いたまま。
雨は降っているのに、
濡れていない。
音が、遅れる。
ほんの一瞬。
雨が、止まる。
空気だけが残る。
そのあと。
じわり、と。
遅れて、土が湿る。
「……さっき、降ってたよね」
小さく呟く。
少女は、首をかしげる。
「うん、降ってたよ?」
にこっと笑う。
そのまま、
ほんの一瞬だけ動かない。
……遅れて、瞬きをする。
琥珀は、視線を逸らす。
「……」
分からない。
でも——
分かっている。
⸻
夕方前。
琥珀は、女将の方を見る。
「……ちょっと、出かけてくる」
女将は、少しだけ眉をひそめる。
「暗くなる前に戻りな」
「うん」
短く答える。
少女が、こちらを見る。
何も言わない。
ただ——
微笑んでいる。
その笑顔は、
ほんの少しだけ、遅れていた。
「……」
理由はない。
でも——
行かなきゃいけない気がした。
まるで、呼ばれているみたいに。
⸻
外へ出る。
琥珀は、走り出す。
考えていない。
体が、先に動く。
足音が、軽い。
迷いがない。
ただ、
引かれるように。
「待ってください」
ラファの声。
すぐ後ろに気配。
ほんの少しだけ、
地面から浮いている。
静かに、距離を詰める。
「……分かってるんだよね」
琥珀が呟く。
「はい」
それだけで、
崩れなかった。
⸻
山へ。
道は、長い。
気づけば、
空の色が変わっている。
夕焼けが、薄れていく。
「……もう、こんな時間?」
空を見上げる。
三日月が——二つ。
少し離れて、浮かんでいる。
その形は、どこか歪で。
見ていると、
ふと——
笑っているようにも見えた。
「……」
琥珀は、目を逸らす。
薄暗い光。
空気が、少し冷たい。
⸻
さらに進む。
土の感触が変わる。
湿っているはずなのに、
冷たい。
奥へ。
静けさが、深くなる。
⸻
山肌の影。
岩の隙間。
暗い入り口。
坑道。
「……ここで、少し休もうか」
日は、もう落ちかけている。
ラファが周囲を見て、
静かに言う。
「安全を確認しました」
二人は、中へ入る。
空気が、変わる。
音が、吸われる。
外よりも、静かだ。
「……」
琥珀は、足を止める。
奥。
暗いはずの先。
何かが——ある。
理由は分からない。
でも。
行かなきゃいけない気がした。
琥珀は、そっと手を伸ばす。
ラファの手を、握る。
「……一緒に、行こ」
ラファは、静かに頷く。
「はい」
手は、離れない。
二人は、そのまま——
奥へ進んでいく。
⸻
やがて。
坑道の奥。
崩れた天井。
そこから、
月の光が差し込んでいる。
まっすぐではない。
わずかに、ずれている光。
その下に——
小さな祠。
「……ここ」
琥珀が立ち止まる。
一歩、踏み入れる。
その瞬間。
空気が、変わる。
風が、弱まる。
音が、整う。
「……」
息が、ゆっくりになる。
力が、抜ける。
「……落ち着く」
理由は分からない。
でも——
ここは、大丈夫だと分かる。
ラファが周囲を見る。
「流動が安定しています」
静かな声。
⸻
祠の中。
月の光が、静かに広がる。
空気が、
わずかに白く見える。
よく見ると——
何かが、漂っている。
触れられない。
でも、確かにある。
琥珀は、静かに座る。
「……ここで、少し休もう」
「はい」
短い返答。
外とは違う。
でも、
完全に切り離されてはいない。
静かだ。
けれどその静けさは、
何かを押し留めているようにも感じた。
⸻
目を閉じる。
遠くで——
何かが、回っているような気配。
音はない。
けれど。
それは——
本当は、動いていない。
壊れているはずのそれが、
なぜか、そこに“ある”と分かる。
まるで、止まったまま回り続けているように。
⸻
それは、
まだ見えない。




