第8話
朝。
光はやわらかいのに、どこか静かすぎた。
やわらかな光が、窓の隙間から差し込む。
静かな空気。
遠くで、誰かの声がする。
琥珀は、ゆっくりと目を開けた。
「……あさ」
体を起こす。
昨日より、少しだけ軽い。
指先を動かす。
遅れはある。
でも——確かに、戻っている。
隣には、ラファ。
すでに起きている。
「体調はどうですか」
「……うん、ちょっといい」
小さく笑う。
「少しなら、動けそう」
「無理はしないでください」
「しないよ」
軽く伸びをする。
窓の外を見る。
朝の光。
風が、ゆっくりと流れている。
——穏やかだ。
外へ出る。
空気は少し冷たい。
でも、気持ちいい。
少女が、ぱたぱたと駆けてくる。
「おはよう!」
「おはよう」
琥珀も笑う。
女将が、少し離れた場所から声をかける。
「体はどうだい?」
「大丈夫そうです」
「そうかい。なら、無理しない程度に手伝っておくれ」
「うん」
頷く。
⸻
昼前。
畑。
土の匂い。
琥珀は、ゆっくりと手を動かしていた。
まだ本調子ではない。
でも、動ける。
「……こう?」
少女が隣で頷く。
「うん、それで大丈夫!」
小さく笑う。
土を触る。
少し冷たい。
でも、どこか安心する。
——はずだった。
「……あれ」
ほんの一瞬だけ、指が止まる。
少しだけ、冷たすぎる。
でも——
すぐに、いつもの感覚に戻る。
「……気のせい、かな」
小さく呟く。
ラファは、少し離れた場所で見ている。
時折、手を貸す。
時間が、ゆっくり流れていく。
——穏やかだ。
⸻
夕方前。
「ちょっと汗かいちゃった」
琥珀は、額に手を当てる。
少女が笑う。
「お湯、使っていいよ!」
「ありがとう」
女将も頷く。
「無理はしないでね」
「うん」
ラファは、台所へ向かう。
「食事の準備を手伝います」
「助かるよ」
女将が笑う。
琥珀は、裏の湯へ向かう。
⸻
湯気。
静かな空間。
誰もいない。
琥珀は、ゆっくりと湯に身を沈める。
「……あったかい」
息が、ほどける。
音が、少ない。
水の音だけが、わずかに響く。
琥珀は、ふと目を細める。
「……ひとりだ」
小さく呟く。
この一週間。
ずっと、隣にいた。
当たり前のように。
声をかければ、返ってきた。
今は——
静かすぎる。
琥珀は、わずかに息を吐く。
「……なんか、変な感じ」
湯気が、ゆっくりと漂う。
……はずだった。
「……あれ」
動いていない。
空気が、止まっている。
音も、ない。
水面に触れる。
波紋が——遅れる。
一瞬、間が空く。
それから、揺れる。
まるで。
時間が、ずれているみたいに。
ほんの少しだけ、遅れて世界がついてくる。
琥珀は、じっとそれを見る。
何も言わない。
ただ、見ている。
——落ち着かない。
さっきまでの温かさが、
少しだけ、遠くなる。
「……気のせい、かな」
小さく呟く。
その瞬間。
湯気が、ふわりと動く。
遅れて。
音が、戻る。
何もなかったように。
でも——
さっきと、同じではない。
⸻
夜。
食事が並ぶ。
温かい湯気。
やわらかな光。
「いただきます」
琥珀が手を合わせる。
少女も、同じように。
「いただきます!」
女将が、少しだけ笑う。
食事は、静かに進む。
少女が、ふと口を開く。
「ねえ」
「なに?」
琥珀が顔を上げる。
少女は、少しだけ考えるようにして——
「……なんかね」
ほんの少しの間。
「二人が来るの、わかってたモン」
一瞬。
沈黙。
琥珀は、わずかに目を瞬かせる。
「……え?」
少女は首をかしげる。
「なんとなく」
にこっと笑う。
そのまま——
一瞬、動かない。
呼吸すら、止まったように。
……遅れて、瞬きをする。
女将も、何も言わない。
空気は、変わらない。
でも——
どこか、引っかかる。
⸻
食事が終わる。
外に出る。
夜の空気。
「……ねえ、ラファ」
琥珀が小さく言う。
「なんか、変だよね」
ラファは、少しだけ間を置く。
「異常の可能性があります」
風が、吹く。
葉が揺れる。
——はずだった。
止まる。
音が、消える。
虫の声も。
葉の揺れも。
すべてが、途切れる。
そのまま——
動かない。
完全な静止。
世界が、切り取られたみたいに。
琥珀は、瞬きをする。
「……あれ」
一歩、踏み出す。
音がしない。
空気も、動かない。
ラファも、止まらない。
「……周囲の時間流動、停止を確認」
ほんの一瞬。
次の瞬間。
風が、吹く。
音が戻る。
世界が、動き出す。
何事もなかったように。
琥珀は、息を吐く。
「……今の」
少しの沈黙。
その時。
背中に、感覚。
「……見られてる」
振り向く。
何もいない。
ただ、夜の空気だけ。
風が、遅れて吹く。
その瞬間。
琥珀の耳が、ぴくりと立つ。
しっぽが、わずかに揺れる。
首筋にかかる髪が、ふわりと浮く。
——触れていないはずなのに。
琥珀は、息を止める。
体が、固まる。
喉の奥が、かすかに鳴る。
振り向こうとして——
止まる。
まるで、岩のように。
動かない。
そこに、何かがいる。
確信に近い感覚。
それでも——
見えない。
風が、わずかに止まる。
空気が、張りつく。
——上から。
⸻
琥珀は、小さく呟く。
「……これ」
少し、間を置く。
「気のせいじゃない、よね」
ラファが、頷く。
「はい」
⸻
遠く。
視線の先。
空気が、わずかに歪む。
揺れている。
回っているような。
でも——
形が、ない。
⸻
次の瞬間。
それは、消えた。
何もなかったかのように。
風が、静かに流れる。
けれどその流れは——
ここにある風じゃなかった。
まるで、どこか別の場所から流れ込んできたみたいに。




