34. 手形
訓練を終えて宿に戻ると、日はもうすっかり傾いていた。パーティを組んだ日からずっと世話になっている、使い慣れたこの安宿も、すっかり我が家のようなものだ。夕食を終え、それぞれの部屋へ戻る頃には、外はすっかり暗くなっていた。
「今日は、疲れたな」
部屋に入るなり、カイルがベッドに大の字になった。慣れない技を初めて使った疲れが、まだ体のあちこちに残っている。
「うん。でも、悪くない疲れだったよ」
「だな」
カイルは天井を見上げたまま、しばらく黙っていた。
「明日から、いよいよ実戦か」
「まだ、ちゃんと使いこなせるか分からないけどね」
「なに言ってんだ。今日一日で、みんな確実に強くなってる。俺が保証してやるよ」
カイルはそう言って、にやりと笑った。根拠のない自信のはずなのに、なぜかそれだけで、少しだけ気持ちが軽くなった。
「あー、腹も膨れたし、そろそろ風呂に入りてえな」
カイルが体を起こしながら、そう言った。
「僕も、汗流したいかも」
「悪ぃ、先に入っててくれるか。得物、土まみれのままだったのを忘れてた。手入れだけ、ちゃちゃっと済ませてから行く」
「分かった」
僕は部屋を出て、廊下の奥にある浴場へと向かった。脱衣所で手早く服を脱ぎ、浴室へと続く扉を開ける。
次の瞬間、温かい湿った空気と共に、白い湯気がふわりと視界を覆った。その向こうに、あるはずのない人影が一つ。
「――っ!?」
短い悲鳴が上がる。湯気に包まれて、はっきりとは何も見えない。それでも、誰なのかは、声だけで分かった。
「も、申し訳ございませんでした……ッ!」
僕は反射的に扉を閉め、その場に立ち尽くした。動揺し過ぎて、次の言葉が出てこない。顔だけがどんどん熱くなっていくのが分かる。まるで、顔から湯気でも出ていそうなくらいに。
なんとか身なりを整え、逃げるように脱衣所を出ると、ちょうど廊下の向こうからルミナがやってくるところだった。
「リオン、どうしたの――」
湯上がりで涼んでいたらしいルミナが、髪をタオルで拭きながら廊下の向こうからやってくる。僕の顔を見た瞬間、その目つきが、すっと変わった。
「……あー、なるほどね」
「な、なんでもないよ」
「なんでもなくはなさそうだけど?」
べ、別に、何も――そう続けようとした声は、うまく形にならなかった。ルミナは意味深に笑うと、それ以上は追及せず、扉の方へ向き直る。
ルミナがにやにやと笑いながら、扉に耳を寄せる。中からは、湯を跳ねる音と、小さな悲鳴じみた声が漏れ聞こえていた。
「シエル、大丈夫ー?」
「だ、大丈夫、じゃ、ないです……! あの、私、つい……」
くぐもった声が、扉越しに返ってくる。
「つい?」
「長湯、しちゃってて……時間、過ぎてるの、全然気づかなくて……」
今日の訓練の疲れで、湯船の中でついうとうとしかけていたらしい。気づけば、男女の入れ替わりの時間をすっかり過ぎてしまっていたようだった。種明かしはあっけないものだった。それでも、一度上がってしまった羞恥心は、そう簡単には収まらない。
「――なんだ、えらい騒ぎだな」
得物の手入れを終えたらしいカイルが、欠伸交じりに廊下の向こうからやってくる。
「ちょうどいいところに! 待って、カイル、今はまだ――」
僕が説明しようとするのを、カイルは面倒くさそうに手で遮った。
「明日も早いんだから、さっさと風呂入るぞ」
そう言うが早いか、迷いなく扉に手をかけて開け放つ。
「――なっ」
次の瞬間、乾いた音が廊下に響いた。
「ぶっ、いってぇぇぇ!?」
悲鳴じみた声を上げながら、カイルが脱衣所から転がるように飛び出してくる。左頬には、くっきりと赤い手形が浮かんでいた。
「な、なんだよ、いきなり――」
「カイルさんの、馬鹿ぁ……ッ!」
扉の向こうから、涙声混じりのシエルの叫び声が飛んでくる。
「……だから、待ってって言ったのに」
ルミナが呆れたように額を押さえた。
それから数分後。部屋に戻った僕らの前には、なんとも珍妙な光景が広がっていた。正座をした僕とカイルの前に、シエルとルミナが並んで立っている。
「すまん……」
意外なほど神妙な顔で、カイルが深く頭を下げた。
着替えを済ませたシエルは、まだ髪も乾いていないまま、俯いて指先をもじもじと弄っていた。悪いのは時間を把握していなかった自分なのに、勢いで叩いてしまった申し訳なさと、収まらない羞恥心とが、ない交ぜになっているのが伝わってくる。
「あ、あの……叩いたりして、ごめんなさい……」
「いや、俺が悪い。ノックくらいすりゃよかった」
珍しく素直に反省するカイルに、シエルは小さく首を振った。
その隣で、ルミナは頭の後ろで手を組んだまま、面白がるようににやにやと笑っていた。
「よし、今度こそ入ってくるか」
最後に立ち上がったカイルが、懲りた様子もなく軽い足取りで浴場へ向かおうとする。
歩き出したカイルの背中を、ルミナが呆れたように見送る。
「……あれ、絶対また確認しないよね」
「ちょっと、心配になってきました……」
シエルが小さく呟いた。数分後、廊下の奥から「――っ、女将さん! まだ中にいたんですか!」という間の抜けた声が響いてきて、僕らは顔を見合わせて笑った。今度はカイル自身が、掃除に入っていた女将と鉢合わせただけの、正真正銘のうっかりだったらしい。
部屋に戻る前、階段の下でシエルとすれ違った。
「あの……さっきは、本当に気にしていませんから」
「ご、ごめん。ちゃんと確認しなかった、僕が悪かった」
「い、いえ……お互い様、ということで」
そう言って、シエルは小さく笑ってみせた。その笑顔に、ようやく僕も肩の力が抜ける。
「おやすみなさい」
「うん、おやすみ」
布団に入ってからも、僕はしばらく寝付けなかった。目を閉じると、あの短い悲鳴が、耳の奥で何度も蘇る。
それでも――こんな騒ぎがあっても、明日はまた、みんなで依頼に出る。この平和な失敗談も、いつか笑い話になるのだろう。そんなことを考えながら、ようやく瞼が重くなっていった。
明日は、いよいよ実戦だ。訓練場では見えなかった何かが、きっと待っている。
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