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32. 再起

 ルクスガルドに戻ってから、数日が経っていた。


 朝、宿の一階の食堂に降りると、いつも通りシエルとルミナが先に席についていた。カイルはまだ来ていない。


 窓から差し込む朝日は、以前よりいくらか角度を変えていた。並んだスープ皿からは白い湯気が立ち、遠征に出る前と、何も変わらないはずの光景。


「おはよう」


「あ……おはよう、ございます」


 シエルが小さく頭を下げる。以前より幾分か柔らかくなったその挨拶に、僕は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


「よく眠れた?」


 ルミナが尋ねると、シエルは少し考えるように視線を落とした。


「その……あまり、眠れなくて。目を閉じると、色々……思い出してしまって」


「そっか」


 ルミナは、それ以上は踏み込まなかった。ただ、隣の椅子を軽く引いて、座るよう促す。シエルは小さく頷いて、腰を下ろした。


 朝食を運んできた宿の女将が、いつものように世間話を振ってくる。無理に明るく振る舞う必要はない。他愛もない世間話に相槌を打つ、ただそれだけのことが、今は妙に温かい。


「悪ぃ、待たせたか」


 遅れてカイルが降りてくる。寝癖のついた髪をそのままに、大きく欠伸をしていた。


「相変わらずだね、寝坊助」


 ルミナがからかうと、カイルは決まり悪そうに頭を掻いた。いつも通りのやり取りに紛れて、そっと気遣いが滲んでいるのが、今日は妙にくすぐったい。


 朝食を終えても、今日の依頼の話は出なかった。輝度は上がった。新しい力も、確かに手に入れた。それでも、剣を取って森へ向かう気力までは、まだ戻りきっていなかった。


 それでも、夜な夜な、宿の中庭でこっそり素振りだけは続けていた。誰かに見せるためでも、腕を上げるためでもない。ただ、剣を握っていないと、落ち着かなかっただけだ。


 部屋に戻る道すがら、カイルが不意に足を止めた。


「――ガイウスの墓標、まだ立ってねえんだよな」


「ギルドの方で、手続きを進めてくれてるはずだよ」


 僕がそう答えると、カイルは小さく頷いただけで、それ以上は何も言わなかった。その横顔に、まだ整理のつかない何かが残っている。




 ギルドの掲示板の前に立っても、依頼票を選ぶ手は、いつもより鈍かった。


 周りでは、依頼を終えたばかりの冒険者たちの威勢のいい声や、新人らしき一団の緊張した空気が、いつも通り行き交っている。世界は、僕らの歩みを待ってはくれない。それでも今は、その速さに追いつける気がしなかった。


「わ、私……その、まだ、ちゃんと戦える自信が」


 シエルが俯きがちにそう漏らす。しかし、それを咎める顔は、どこにもない。むしろ、同じ気持ちを抱えていることが、表情だけで伝わってくる。


 様子を見かねたのか、受付にいたレティシアが、そっと声をかけてきた。


「無理に依頼を受ける必要は、ありませんよ。休むのも、大事な仕事のうちです」


「でも……いつまでも、こうしてるわけには」


「気持ちの整理は、人それぞれ時間がかかるものです。焦らなくて、大丈夫ですから」


 レティシアの言葉に、シエルは小さく頷いた。その優しさに、僕自身も、少しだけ救われた気がした。


「なあ」


 カイルが、掲示板を見つめたまま口を開いた。


「輝度は上がった。新しい技も、水晶に触れた時、なんとなく分かった。……けど、俺たち、まだ一度も使ったことねえよな」


「そう、だね」


 僕がそう答えると、カイルは振り返って、僕らの顔を順に見た。


「いきなり実戦で試すのは、怖い。だったら――まず、自分たちだけで、確かめる場所を作らねえか」


 その提案に、シエルが小さく顔を上げた。


「訓練、ということですか?」


「ああ。ガイウスを守れなかった、あの瞬間を、二度と繰り返したくねえ。だったら、今のうちに、自分の手札がどんなものか、ちゃんと知っておきたい」


 その言葉に、誰も異論はなかった。ルミナも、軽く肩をすくめてみせる。


「賛成。私も、正直ちょっと気になってるし」




「わ、私、実は――」


 シエルが、鞄の中から使い込まれた魔導書を取り出す。


「マナが増え始めてから、ずっと読み込んでた魔法があって……その、試してみたい、です」


 俯きながらも、その声には、確かな期待が滲んでいた。こうして自分から言葉にできることが、以前より少しずつ増えている。


「へえ、楽しみだな」


 カイルがそう言って、シエルの頭を軽く撫でる。シエルは照れくさそうにしながらも、振り払おうとはしなかった。


「僕も、剣を振るう時の手応えが、前と少し違う気がする。水晶に触れた時から、なんとなく」


 僕がそう言うと、カイルが頷いた。


「俺もだ。何かが、増えてる感じがする」


「私は、まあ、いつも通りだけどね」


 そう言った拍子に、ルミナはふと真顔になって、言葉を継いだ。


「――ああ、でも。あの時、マナが尽きても、それでも治さなきゃって思った……あんな思いは、二度としたくない」


 珍しく歯切れの悪いその言葉に、僕は思わずルミナの顔を見つめた。彼女はすぐにいつもの笑みに戻ると、それ以上は語らなかった。


「ルミナさんは、いつも涼しい顔ですもんね」


 シエルがそう言うと、ルミナは片目をつむってみせた。


「よし、決まりだな」


 カイルが戦斧の柄を、軽く叩いた。


「明日、ギルドの訓練場を借りようぜ。誰にも気兼ねなく、思う存分試せる」


「わ、私も……頑張ります」


「望むところだよ」


「私も、今度こそ、ちゃんと守れるようになりたいから」


 三人の返事に、カイルは満足そうに頷いた。


 ギルドを出ると、日差しが、少しだけ柔らかくなっていた。季節が、静かに移ろいでいるのが分かる。


「――ガイウスさんにも、見せたかったな」


 誰かがそう呟いた。誰の声だったのか、はっきりとは分からない。それでも、その一言を聞いて、悲しい顔をする者はいなかった。


「見てるさ、きっと」


 カイルがそう言って、空を見上げる。雲の縁がほんのりと色づき始めた空に、僕らはしばらく、無言のまま目を向けていた。


 まだ星の姿は見えない。それでも、この空のどこかで、ガイウスが笑っている気がした。


 宿への帰り道、誰の足取りも、来た時よりわずかに軽い。


 明日、それぞれの想いがどんな形をしているのか。僕は少しだけ、それを楽しみに思っていた。

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