30. 慟哭
辺りを包んでいた戦闘の音が、少しずつ、意味を持つ音として耳に戻ってくる。
統率していた意志そのものが失われたのか、群れの残りは統制を欠いたように暴れ始めていた。あちこちで悲鳴じみた咆哮が上がり、それを他パーティの戦士たちが手早く仕留めていく。
「――深追いするな! 残敵の掃討のみでいい、決して見失うな!」
遠くで、セドリックの声が響いた。いつもの軽い口ぶりは、どこにもなかった。
僕は、その声を、どこか遠くの出来事のように聞いていた。
膝の下の地面が、まだガイウスの血で湿っている。動かないその体は、さっきまで確かにここにいた人の重みを、まだ保っていた。
「ガイウス……さん……」
シエルが、両手で口元を覆ったまま、しゃくりあげるように声を漏らす。カイルが、遅れて駆けつけてきた。
「――間に、合わなかった」
掠れた声だった。カイルはガイウスの傍らに膝をつくと、拳を地面に叩きつけた。一度、二度。三度目は、力が抜けたように止まった。
「くそ……くそっ……!」
その声に、僕は覚えがあった。両親を、冒険先で亡くしたと聞いたあの日の、カイルの声と重なる。
「くそ……なんで、逃げなかったんだよ……!」
誰に届くでもない問いだった。カイルの肩が、震えていた。両親を奪ったあの日と同じ理不尽が、また目の前で誰かを奪っていく。
ルミナは、まだガイウスの傷口に手をかざしたままだった。淡い光は、もう灯っていない。ただ、光を失っていく自分の手のひらを、どこか遠い目で見つめている。
「――ごめん」
誰に向けた言葉なのか、僕には分からなかった。ルミナの声は、微かに掠れて、震えていた。これまで、一度も聞いたことのない響きだった。
やがて、その視線がふっと揺れ、ガイウスの顔へと戻る。
僕は、その横顔の意味を、うまく掴めなかった。
しばらくして、周囲の戦闘音が、完全に止んだ。
異形の個体を失った群れは、統率を失ったまま各所で仕留められ、あるいは、蜘蛛の子を散らすように山の奥へと逃げ去っていった。あれほど濃密だった気配が、嘘のように薄れている。
杭のあった場所には、黒い灰のようなものが、僅かに残っているだけだった。
「――終わった、のか」
誰かが、ぽつりと呟く声が聞こえた。歓声は、上がらなかった。
重装の戦士が、大剣を杖代わりに、ゆっくりと近づいてくる。傷一つつかなかった一撃を思い出したのか、その目は、地面に横たわるガイウスと、僕の手のひらとを、何度か往復した。
「――あんたが、あの杭を壊したのか」
答えられなかった。彼は、それ以上は何も聞かず、ただ静かに膝をつき、大剣を地に置いて、目を閉じた。他の戦士たちも、一人、また一人と、同じように膝をついていく。
言葉のない弔いだった。
ふと、前線基地での夜のことを思い出す。焚き火を囲みながら、ガイウスがぽつりと漏らした言葉。
――守れるもんは、守っておきたいだけだ。
あの時は、聞き流してしまった一言だった。まさか、それが自分自身に向けられた予言のようなものになるとは、思ってもみなかった。守り抜いた、その代償に。
セドリックが、青ざめた顔でこちらに歩み寄ってきたのは、それからすぐのことだった。彼は、倒れたガイウスを見て、一瞬だけ言葉を失う。
「……そう、ですか」
それだけ言うと、彼は静かに目を伏せた。それから、努めて事務的な声を作るように、周囲へ指示を飛ばし始める。
「負傷者の治療を最優先に。ガイウスさんの……お体は、丁重に運びます。他の未帰還者の捜索も、態勢を整え次第、再開します」
その声には、いつもの掴みどころのなさとは違う、静かな重みがあった。
僕は、自分の手のひらを見下ろした。ガイウスの血が、まだ乾かずにこびりついている。杭を砕いたのは、確かにこの手だった。だが、その代償を払ったのは、僕ではなかった。
……お前が、やれ。
……守れて、良かった。
その二つの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。答えの出ない問いを抱えたまま、僕は、動かなくなった、その大きな体を、ただ見つめ続けていた。
「リオン……さん」
シエルが、涙で濡れた顔のまま、僕の肩にそっと手を添えてくる。
「私も……何も、できませんでした。悔しい、です」
その一言に、僕は何も返せなかった。代わりに、シエルの手に、自分の手を重ねる。冷たく震えるその手の感触だけが、今の僕を、かろうじてこの場に繋ぎ止めていた。
カイルは、まだ拳を握りしめたまま、ガイウスの顔を見下ろしていた。何かを言おうとして、それでも言葉にならず、ただ、喉の奥で小さく唸るような声を漏らし続けている。
ルミナだけが、少し離れた場所で、一人、膝を抱えて座り込んでいた。
山の稜線の向こうに、日が傾き始めていた。橙色に染まる空の下、僕らはまだ、立ち上がれずにいた。
誰かが、静かに涙を拭う音だけが、いつまでも、その場に響いていた。
やがて、担架を担いだ、後方支援の一団が、静かにこちらへ近づいてくる。誰かが、自分の外套をそっと差し出した。ガイウスの体を覆うためのものだと、遅れて気づく。
「――運びます。よろしいですか」
隊員の一人が、僕らに向けてそう尋ねた。頷くことしかできなかった。外套に覆われていくガイウスの姿を見ながら、僕はようやく、これが夢ではないのだと、実感し始めていた。
担架が持ち上げられ、静かに運ばれていく。担架の縁からだらりと垂れた腕を見つめながら、カイルが、震える声で最後にもう一度だけ、拳を握りしめた。
「――また声かけるさ、って。あんた、そう言ったばっかりだろうが……」
誰に向けたつもりもない呟きだった。それでも、その一言をきっかけに、堪えていた何かが、堰を切ったように溢れ出す。
声にならない嗚咽が、喉の奥から次々とこみ上げてきた。膝から崩れ落ちるようにして、僕は、声を上げて泣いた。隣で、シエルも、カイルも、堪えきれずに肩を震わせている。
夕暮れの戦場に、堪えきれない慟哭が、いつまでも、いつまでも、響き渡っていた。
どれくらい、そうしていただろうか。
やがて、シエルが、洟をすすりながら、そっと立ち上がった。カイルも、拳で目元を拭うと、無言のまま僕の肩を軽く叩く。ルミナだけは、まだ膝を抱えたままだったが、それでもゆっくりと腰を上げた。
誰も、何も言わなかった。それでも、それぞれの足取りで、僕らは、下山を始める隊列の方へと、歩き出す。
冷たい山の風が、頬を撫でていく。あの場所が、少しずつ遠ざかっていく。
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