29. 背中
ガイウスの背中が、迫りくる巨躯へと、まっすぐに向かっていく。
「――待って、ください……!」
僕は叫びながら、なおも足を動かした。息が切れる。それでも、止まるわけにはいかなかった。
「リオン、俺も行く!」
カイルが、傷ついた体を引きずるようにして、僕の後を追ってくる。シエルとルミナも、悲鳴じみた声を上げながら、続いていた。
なおも群がる魔獣が、行く手を阻む。
「――ウィンクルムクラッド!」
カイルが声を振り絞ると、足元から鎖の幻影が伸びた。負傷した体のせいか、いつもより弱々しい鎖だったが、それでも数体の視線を引き寄せるには十分だった。
その隙に、カイルは戦斧を振るい、群がる魔獣を一体、また一体と薙ぎ払っていく。満身創痍のはずの体のどこに、まだそれだけの力が残っていたのか。
「わ、私も――アストラルバースト!」
シエルの杖から放たれた光の柱が、行く手を阻んでいた魔獣の群れへ降り注ぐ。悲鳴じみた唸り声があちこちで上がり、道が開けた。
その時だった。
「あれを見ろ……!」
誰かの声が、戦場に響いた。
異形の個体の後ろ――抉れた岩盤の中心に、それはあった。
禍々しい紫の光を纏った、黒い杭。人の腕ほどの太さのそれが、地面に深々と突き立てられ、まるで心臓のように、脈打つような明滅を繰り返している。異形の個体は、その杭を背にするようにして、行く手に立ち塞がっていた。他の魔獣たちもまた、力尽きてなお、群れの意志であるかのように、この一点を守ろうとするように群がっている。
「あれが……原因か……!」
誰かが、掠れた声でそう呟いた。
重装の鎧を纏った、一際大柄な戦士――他パーティの中でも、随一の膂力を誇ると言われる重装の戦士が、群れの隙間を強引にこじ開け、大剣を大上段に構えて杭へと斬りかかった。
「――ぬんんんんっ!」
渾身の一撃が、杭を捉える。
金属同士がぶつかったような、甲高い音が響く。
だが、杭には、傷一つついていなかった。
「――なんだと……!」
重装の戦士が、信じられないという顔で、自分の大剣を見つめる。刃こぼれ一つない一撃が、まるで鋼鉄にでも弾かれたかのように、何の効果も及ぼしていなかった。
異形の個体が、苛立たしげに咆哮を上げる。ガイウスは、その巨躯とほぼ同時に接敵していた。
「――くそっ……!」
僕は、がむしゃらに手を突き出し、スキルを発動していた。
「――ノヴァインペラトル!」
放たれた銀白色の光が、杭を貫いた。
その瞬間、杭の表面に、亀裂が走った。
「――嘘、だろ……あいつが全力でぶちかましても、傷一つつかなかったってのに……!」
誰かの呆然とした声が、耳に届く。
あれほどの一撃を弾いた杭に、確かに亀裂が走っている。何が起きたのか、僕自身、まるで理解できていなかった。それでも、手のひらに残る微かな痺れだけが、噓ではないと物語っていた。
「リオン……お前……」
カイルの声が、遠くから聞こえた。
それを確かめる間もなく、異形の個体が、杭を傷つけた僕へと、憎悪に満ちた視線を向けた。
「――リオン、動くな!」
ガイウスの怒声が響いた。
振り向く間もなく、目の前に、あの大きな背中があった。
「ガイウスさん……!」
「お前が、やれ……! その杭を、壊せるのは、お前だけだ……!」
血を吐くような声だった。ガイウスは、大剣を構え、僕を庇うようにして、異形の個体の前に立ちはだかっていた。
「駄目だ……! そんな、傷で……!」
「うるせえ……! いいから、やれ……!」
異形の個体の爪が、大きく振り上げられる。
僕は震える手で、もう一度、光を集めた。
「――ノヴァインペラトル……!」
光の奔流が、亀裂の奥深くへと突き刺さっていく。
先に動いたのは、ガイウスだった。命を懸けた渾身の一撃を、異形の個体へと叩き込む。それに一拍遅れるようにして、異形の爪が、肩口から腹にかけてガイウスの体を袈裟懸けに切り裂いた。身体が今にも二つに分かたれそうな、肉だけでかろうじて繋がっているような、誰の目にも明らかな致命傷だった。
「ガイウスさんっ――!!」
僕の絶叫と、杭が砕け散る音、そして、異形の個体が断末魔の咆哮を上げて崩れ落ちる音が、ほとんど同時に響いた。
辺りに、紫の光の粒子が、まるで星屑のように舞い散っていく。
その光の中で、ガイウスの体が、ゆっくりと後ろに向かって倒れていく。深く抉れた傷口が、そのまま夜気にさらされる。
「ガイウスさん――!」
僕は駆け寄り、その傍らに膝をついた。震える手をガイウスの手に重ねる。おびただしい血が、地面を赤く染めていく。
「……悪ぃ……な。無茶……しちまった」
言葉の切れ目ごとに、口の端から血が溢れる。潰れた肺からもれる息は、ひゅう、と乾いた音を立てていた。
「喋らないでください……! 今、ルミナが……!」
「ルミナ……!」
僕が叫ぶと、ルミナはすでに駆け寄り、震える手をガイウスの傷にかざしていた。
「マナは、もう……とっくにないの……!」
それでも、ルミナは声を振り絞った。
「――ヒール……! ――ヒール……! お願い……効いて……!」
無理やり絞り出すような、か細い光が傷を包む。だが、その光は、あまりにも頼りなかった。
「もう、いい」
ガイウスは、小さく笑った。
「お前ら……よくやった。あの杭を壊せたのは……お前だけの、力だ……」
その言葉の意味を問い返す余裕は、なかった。
「……守れて、良かった」
ガイウスの声が、そこで、途切れた。
掴んだ手から力が抜け、僕の手からこぼれ落ちる。開かれたままの目は光を失い、もうどこも見てはいなかった。
駆けつけたカイルが、その場に立ち尽くしていた。何かを言おうとして、それでも言葉にならず、ただ拳を強く握りしめている。
「わ、私……」
シエルが、両手で口元を覆ったまま、声を詰まらせていた。ルミナは、まだガイウスの傷に手をかざしたまま、動けずにいる。淡い光だけが、虚しく傷口を照らし続けていた。
辺りを包んでいた戦闘の喧騒が、遠くに感じられた。星屑のような光の粒子だけが、静かに、僕らの周りに降り注いでいた。
ほんの数十呼吸前まで、確かにそこにあった重み。武骨で、温かかった手のひら。それが、もう二度と動かない。
僕は、ガイウスの傍らで、しばらく動けなかった。
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