28. 咆哮
周囲の魔獣が、目に見えて数を減らし始めていた。他パーティとの連携も功を奏し、包囲の圧力は、確かに緩みつつある。
だが、その分だけ、異形の個体の苛立ちが増しているようだった。
地響きのような唸り声を上げると、その巨躯が、初めて自ら前へと踏み出した。
図鑑にも、伝承にも、これに近い姿の魔獣など、載っているはずがなかった。
「来るぞ……!」
ガイウスの声に、全員が身構える。
異形の一撃は、これまでの雑魚とは比較にならない速さだった。振るわれた爪の一薙ぎが、地面を大きく抉る。
「カイル、避けろ!」
僕の声は、間に合わなかった。
「――ぐっ!?」
カイルの体が、爪の一撃を受けて宙を舞う。地面に叩きつけられた音に、心臓が凍りついた。
「カイル!」
駆け寄ろうとした僕の前に、異形の個体が、ゆっくりと立ちはだかった。無数に並んだ赤黒い目が、一斉に僕を捉える。右肩から生えた禍々しい腕が、蠢くように震えていた。
あの日の黒い狼と対峙した時と同じ、いや、それ以上の圧力が、全身にのしかかってきた。
剣を握る手が震え、足も竦みそうになる。
それでも、退くという選択肢はなかった。倒れたカイルを、みすみす見捨てるわけにはいかない。
僕は剣を構え、震える足で、それでも一歩を踏み出した。
異形の爪が、振り上げられる。
その刹那。
「――どけッ!」
横合いから飛び込んだ大剣が、渾身の一撃を叩き込んだ。爪の軌道が、わずかに逸れる。
「ガイウスさん……!」
ガイウスは僕を突き飛ばすようにして前に出ると、異形の個体と真正面から対峙した。
「お前らは、カイルを連れて一旦下がれ」
「でも……!」
「いいから、行け!」
有無を言わせぬ声だった。僕は歯を食いしばりながら、倒れたカイルの体を支え、後方へと引きずるようにして下がった。
「わ、私、ヒール系統は使えないですけど……回復ポーションなら……!」
シエルが震える手で、カイルの傷口に回復ポーションを振り掛ける。指先が震え、うまく力が入らないのか、何度も小瓶を落としかけていた。ルミナも駆け寄ると、迷いなく手をかざした。
「――ヒール!」
ポーションの効き目にヒールの光が重なるようにして、カイルの体を包み込む。荒かった息が、みるみる整っていくのが分かった。
「ポーションと合わさって、よく効いてくれた……傷は、塞がった。大丈夫、これなら」
ルミナがそう言って、額の汗を拭った。声には、これまでにない充実感が滲んでいた。
その間も、ガイウスは一人、異形の個体と斬り結んでいた。大剣が幾度となく振るわれ、そのたびに火花じみた衝撃が弾ける。互角――いや、わずかにガイウスが押している。
「――やれる……!」
僕が思わずそう呟いた、次の瞬間だった。
正面の一対の腕と激しく切り結んでいたガイウスの意識は、真っ向からの攻防にだけ向けられていた。その隙を突くように、右肩から生えたもう一本の腕が、死角から鋭く伸びる。
「ガイウスさん、危ない――!」
僕の叫びは、届かなかった。
伸びた腕の爪が、ガイウスの脇腹を深々と抉った。
「――っ」
声にならない呻きと共に、ガイウスの体が、大きくよろめいた。
「ガイウスさん……!」
僕は思わず駆け出そうとした。だが、その瞬間、ガイウスは信じられないほどの気迫で体勢を立て直し、大剣を大きく振りかぶった。
「――喰らえッ!」
脇腹から血を流しながらも、その一撃には、これまでと寸分変わらぬ重みが込められていた。ガイウスに深手を負わせた、あの右肩の腕が、根元から断ち切られる。
絶叫にも似た咆哮が、辺り一帯に響き渡った。
異形の個体が、痛みに悶えるようにのたうち、後退る。その隙に、ガイウスは僕らの方へ、片手で脇腹を押さえながら後退してきた。
「傷が……!」
シエルが悲鳴のような声を上げる。ガイウスの装束は、すでに真っ赤に染まっていた。
「大した傷じゃねえ」
そう言う声には、明らかな痩せ我慢が滲んでいた。膝が、小さく震えている。
「嘘だ……! こんなに血が……!」
シエルが咄嗟に鞄を探るが、指先に触れたのは、空になった小瓶だけだった。
「わ、私……ポーション、もう、残ってなくて……!」
ルミナが叫びながら、震える手をガイウスの傷口に翳した。
「――ヒール」
淡い光が傷を包むが、傷の深さに見合うだけの効果は、得られそうにない。
「マナも……もう、これ以上は」
ルミナの声が、絶望の色を帯びる。
「――そうだ! マナポーションは!?」
僕は思わず叫んでいた。出発前、シエルが多めに買い込んでいたはずだ。
「それも、もう……! ここまでの戦いで、とっくに使い切ってて……!」
ルミナが上ずった声でそう返す。
「気にすんな。それより、あいつだ」
ガイウスは荒い息のまま、傷ついた異形の個体を睨みつけた。右肩の腕を失ってもなお、無数に並んだ赤黒い目に宿る怒りは、いまだ衰えていない。ガイウス自身も、血に濡れた大剣を、それでも片手でしっかりと握り締めている。
「まだ、終わっちゃいねえぞ……」
ガイウスがそう呟いた声は、これまでで一番、掠れていた。
「ガイウスさん、もう十分です……! 下がってください……!」
僕が叫んでも、ガイウスは首を振らなかった。
「怪我を負った獣ほど、厄介なものはねえ。これ以上、暴れさせるわけにはいかねえんだよ」
その目には、まだ確かな戦意が宿っていた。だが、傷口から流れ続ける血の量を見れば、それがどれほどの無理を押しているか、誰の目にも明らかだった。
ガイウスは自分の上着の裾を素早く引き裂くと、脇腹にきつく巻きつけた。だが、巻いたそばから布地に血が滲み、みるみるうちに赤く染まっていく。
異形の個体が、右肩の腕を失った姿のまま、それでも通常の一対の腕を振り乱し、咆哮を上げてこちらへ突進してくる。
「――俺が、引き受ける」
ガイウスは大剣を構え直し、ふらつく足を、それでも一歩、前へ踏み出した。
「待って……!」
僕の声は、獣の咆哮にかき消された。
その時、後方で呻き声が上がった。目を覚ましたカイルが、上体を起こす。
「……くそ、どれだけ気を失ってた……」
カイルは状況を確かめるように辺りを見渡した。その視線が、大剣を構え直すガイウスの後ろ姿を捉えた瞬間、表情が凍りついた。
「――っ、ガイウス、さん……!」
「駄目だ……そんな体で、突っ込むな……!」
叫びながら、カイルは戦斧を支えに、よろめく体を引きずるようにして立ち上がろうとしていた。今にも参戦しようとするその姿に、痛切な焦りが浮かんでいる。冒険者の両親を亡くしたカイルにとって、目の前の光景は、他の誰よりも重く映っているはずだった。
だが、ガイウスの足は止まらない。
僕は剣を握りしめ、地を蹴った。少しでも早く、あの背中に追いつかなければ。
だが、その距離は、あまりにも遠かった。
ガイウスの背中が、迫りくる巨躯へと、まっすぐに向かっていく。
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