23. 岐路
あの紫の光を目にしてから、野営地は一晩中、落ち着かない空気に包まれていた。
僕らも交代で見張りに立ったが、誰も深くは眠れなかったはずだ。焚き火の傍らで膝を抱えるシエル、黙って戦斧の手入れを続けるカイル、遠くを見つめたまま動かないルミナ。それぞれのやり方で、あの光の残像と向き合っているようだった。
僕自身も、見張りの間中、ずっと山の方角を気にしていた。光はあれきり現れなかったが、一度見てしまった以上、簡単に忘れられるものではない。隣で火の番をしていた別のパーティの誰かも、同じように無言のまま夜空を睨んでいた。誰もが、言葉にできない不安を抱えたまま、夜明けを待っていた。
夜が明けると、各パーティの代表がセドリックのもとに集められた。僕らも隊列の端で、その様子を見守っていた。
「昨夜のあれは、なんだったんだ」
誰かが苛立たしげに問う。セドリックは眼鏡の奥の目を伏せ、しばらく言葉を選んでから答えた。
「断定はできませんが……聖痕の異常が、私たちの想定よりも進行している可能性があります」
「想定より、って、どれくらいだよ」
「分かりません。それを確かめるための遠征です」
その返答に、周囲がざわつく。セドリックは一度深呼吸すると、いつもの軽妙な調子を無理やり取り戻すように、口の端を持ち上げた。
「進むか退くか、この場で決めていただいて構いません。無理に連れていくつもりはありませんので」
沈黙が落ちる。誰も、すぐには答えを出せずにいた。
近くにいた重装備の戦士が、低い声で口を開いた。
「今更、退けるかよ。ここまで来て、手ぶらで帰ったら、笑い者だ」
その一言が呼び水になったのか、あちこちで小さくざわめきが起こる。
「――俺は、行く」
最初に口を開いたのは、カイルだった。
「あの山の麓に、俺の故郷がある。何が起きてるのか、確かめないままじゃ、帰るに帰れねえよ」
「わ、私も……行きます。皆さんと、一緒なら」
シエルが震える声で、それでもはっきりとそう続けた。
「ここまで来て、今更ね」
ルミナが肩をすくめる。その表情の奥に、隠しきれない緊張が一瞬よぎったが、すぐに消えた。
僕は三人の顔を順に見てから、頷いた。
「僕も、同じです」
周囲でも、次々と声が上がり始めた。
「うちも進むぞ。ここで尻尾を巻いたら、格好がつかねえ」
「同感だ。ここまで来たんだ、正体くらいは見届けたい」
他のパーティの間でも、似たようなやり取りが交わされていた。結局、隊列から離脱を申し出た者はいなかった。誰もが、ここまで来た理由を、それぞれの胸に抱えているのだろう。
「では、予定通り進みましょう」
セドリックがそう告げると、隊列は静かに、しかし確かな決意を纏って動き出した。
振り返れば、あの日、クリムゾンベアの前で足が竦んでいた自分からは、随分遠くまで来たものだと思う。今の僕には、隣に三人がいる。それだけで、恐れよりも前へ進む気持ちの方が、確かに勝っていた。
山へ近づくにつれ、道はさらに険しさを増していった。切り立った岩肌の合間を縫うように、隊列は一列になって進む。荷馬車は既に隣街で預けてきており、残りの道のりは各自の足で踏破するしかない。
「この先、俺の故郷の村を通ることになる」
カイルが地図を覗き込みながら、そう呟いた。声には、緊張と、隠しきれない懐かしさが同居していた。
「立ち寄れるかな?」
「セドリックさん次第だな……頼んでみる」
カイルはそう言うと、隊列の先頭へ向かって足早に歩いていった。その背中を見送っていると、隣を歩いていたルミナが小さく声をかけてきた。
「あんなに急いで、珍しいね」
「うん。でも、無理もないよ」
僕がそう答えると、ルミナは少しだけ表情を和らげた。
しばらくして、カイルが戻ってきた。
「立ち寄れることになった。休憩の予定を、村の近くまでずらしてもらえたらしい。寄れるといっても、少しだけだけどな」
その報告に、シエルとルミナが顔を見合わせ、小さく頷き合う。
「緊張してる?」
僕が尋ねると、カイルは苦笑を浮かべた。
「そりゃ、するだろ。何年ぶりだと思ってるんだよ」
そう言って、彼は自分の頬を軽く叩いた。気合を入れ直すような、いつもの仕草だった。
誰にとっても、この山は何かを試される場所なのかもしれない。そんな予感だけが、胸の奥に静かに残っていた。
予定より少し早めの休憩に、隊列が足を止める。荷を下ろし、思い思いに体を休める他パーティを尻目に、僕らはカイルの案内で列を離れ、村へ続く脇道へと足を向けた。
昼を過ぎた頃、木々の隙間から、小さな集落の輪郭が見え始めた。煙突から立ち上る、細い煙。畑を耕す人影。木組みの家々が、山の斜面に沿うようにぽつぽつと並んでいる。慎ましくも、確かに人の営みが息づいている村だった。
「――あそこだ」
カイルが声を詰まらせながら、そう呟いた。
カイルの横顔は、これまで見たどの表情とも違っていた。期待と不安、懐かしさと後ろめたさ。そのすべてが入り混じった複雑な表情で、彼は遠くの村をじっと見つめていた。
「行くか」
誰にともなく呟いたその声は、いつもより幾分か掠れていた。
村へ近づく前に、シエルが念のためにと杖を掲げた。魔獣の気配がないか確かめる、いつもの手順だった。
「――サーチライト」
淡い青の光が、村の方角へ向けて広がっていく。
「魔獣の反応は、ありません。大丈夫、だと思います」
「ありがとな、シエル」
カイルがそう言って、小さく頷いた。
畑のあぜ道を進んでいくと、鍬を手にした村人の一人が、こちらに気付いて顔を上げた。日に焼けた顔に、深い皺が刻まれている。老人は目を細め、まじまじとカイルの姿を見つめた。
「……坊主? まさか、カイルか?」
その声に、カイルの足が、ぴたりと止まった。シエルとルミナも、驚いたように顔を見合わせる。
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