20. 支度
出発まで、あと五日。
その五日間を、僕らは装備の調達に費やすことになった。
「山岳地帯ってことは、まず防寒だな」
市場通りを歩きながら、カイルが真っ先にそう言った。ルクスガルドの気候しか知らない僕にとって、山の寒さは想像するしかない。
「防寒着、街だとどこで買えばいいのかな」
「防具屋の裏手に、旅装専門の店があるんだよ。前に一度だけ寄ったことがある」
案内された店は、外壁沿いの目立たない一角にあった。棚には、厚手の外套や手袋、丈夫な旅靴がずらりと並んでいる。
「わ、私、こういうの、選ぶの苦手で……」
シエルが心細そうに、棚の前で立ち尽くしていた。
「サイズだけ合わせりゃいい。あとは店員に任せとけ」
カイルがそう言って、店主に声をかける。手慣れた様子で寸法を確認し、シエルの分の外套をてきぱきと選び出していく。
「カイルさん、詳しいんですね」
「まあな。故郷じゃ、冬になりゃ雪が積もる土地だったから」
その一言に、僕は思わず耳を留めた。カイルが故郷について語るのは、珍しいことだった。
「僕の分も、頼んでいい?」
「任せろって。お前、細身だから、丈は短めがいいな」
店主に耳打ちすると、すぐに一着の外套を持ってきてくれた。羽織ってみると、思ったより軽く、動きやすい。
「悪くない」
「だろ?」
カイルは得意げに笑った。
装備を一通り揃え終える頃には、日が傾き始めていた。四人分の荷物を抱え、宿への帰り道を歩く。
「にしても、随分買い込んだな」
カイルが自分の荷袋を担ぎ直しながら、満足そうに笑う。
「防寒着に、保存食、ロープに、回復ポーション……足りないものはないと思う、けど」
「わ、私、マナポーションも、多めに買っておきました」
シエルが誇らしげに、鞄の中身を軽く叩く。以前より積極的になった彼女の様子に、僕は密かに嬉しくなった。
「これだけあれば、心配ないでしょ」
ルミナがそう言いながら、荷物の中身を確認するように覗き込む。
その傍らで、シエルが自分の鞄の隅に、使い込まれた魔導書をそっと滑り込ませているのが見えた。表紙の角が丸くすり減っている。
「それも、持っていくの?」
僕がそう尋ねると、シエルは少し慌てたように本を鞄の奥へ押し込んだ。
「あ……その、荷物になるかもしれない、ですけど……夜、眠れない時とかに」
「いいと思う。息抜きも大事だから」
「が、頑張って、その分は荷物を軽くするので……」
照れくさそうに俯くシエルを見ながら、僕は少し口元が緩むのを感じた。
宿に戻り、夕食を終えた後のことだった。四人で部屋に集まり、荷物の最終確認をしていると、カイルがふと手を止めた。
「なあ、聞いてほしいことがあるんだ」
珍しく、改まった声だった。僕らは顔を見合わせ、荷物を整理する手を止める。
「今度の遠征先だけどよ」
「うん」
「北西の山岳地帯だろ。……実は、あの辺り、俺の故郷に近いんだ」
思いがけない言葉に、僕は思わず顔を上げた。あの日、目的地を告げられた時にカイルの表情がわずかに曇ったのは、これだったのか。
「実は、あの村に……妹がいる」
打ち明けられた告白に、シエルが小さく息を呑んだ。
「妹、さん」
「ああ。俺が家を出た時、まだ小さかった。冒険者になったのも、正直に言うと、力自慢のためだけじゃない。あいつを守れるくらい、強くなりたかったんだよ」
カイルは戦斧の柄を撫でながら、少し照れくさそうに続けた。
「今まで、言い出せなかった。柄にもねえこと言うのが、恥ずかしくてよ」
「そんなの、恥ずかしいことじゃないよ」
僕がそう言うと、ルミナも小さく頷いた。
「勘だけどって、前に言ったの、当たってたんだね」
「……悪いか」
「悪くない。むしろ、聞けてよかった」
ルミナの声には、いつもの軽さの中に、確かな温かさが滲んでいた。
「わ、私も……カイルさんの妹さんに、会えたら、嬉しいです」
シエルがそう言うと、カイルは少し驚いたように目を丸くし、それから照れくさそうに頭を掻いた。
「まあ、道中で寄れるかどうかは分からねえけどな。護衛の任務が優先だし」
「故郷、寄れるといいね」
僕がそう言うと、カイルは一瞬だけ黙り込み、それから小さく頷いた。
「……ああ。そうだな」
その横顔には、これまで見たことのない、柔らかい表情が浮かんでいた。誰かに話したことで、少しだけ肩の荷が下りたのかもしれない。
その夜、荷物の整理を終えた僕は、鞄の底から小さな布の包みを取り出した。ほどくと、古びた鍵と、色褪せた手紙が出てくる。隣のベッドでは、カイルがもう横になっていた。
『いつか、あなたが知るべき時が来たら』
母の字で綴られたその一文の意味を、僕はこれまで何度も探ろうとしては、行き止まりに突き当たってきた。
この鍵が意味するものを、僕はまだ何も知らない。それでも、鍵を、ぎゅっと握り込む。掌に食い込む硬い感触が、今はどこか心強く感じられた。
母は、いつも困ったように笑うだけで、父のことをはぐらかしてきた。その奥に、何を抱えていたのか。今となっては、確かめる術もない。
「大事なものなのか?」
抑えた声に顔を上げると、薄闇の中、カイルがこちらに目を向けていた。まだ眠っていなかったらしい。視線の先には、僕の手の中の鍵と手紙がある。
「母の、忘れ形見なんだ。『いつか、あなたが知るべき時が来たら』って……。何のことか、僕にも分からないけど」
カイルは少しの間黙って僕を見てから、小さく頷いた。
「見つかるといいな。答え」
短い一言だったが、それだけで十分だった。ふと、長旅の間しまいっぱなしでは、いつか失くしてしまうかもしれないと思い至る。
「――そうだ。紐、余ってないかな」
「紐?」
「これ、道中はずっと首から下げておこうと思う。鞄の底だと、落としても気付けなさそうだから」
「ああ、それなら」
カイルは自分の荷物袋を探り、丈夫そうな革紐を一本、放って寄越した。鍵の輪に紐を通し、結び目を確かめてから、僕はそれをそっと首にかける。服の内側に隠れた鍵の重みが、ひんやりと胸に触れた。
「これで、失くす心配はなさそうだ」
「大事にしろよ」
カイルはそう言うと、軽く笑って自分のベッドへ戻っていった。
翌日、装備や備品の追加の買い出しのために市場へ向かう道すがら、ルミナがふと足を止めた。
「私、ちょっと野暮用があるから、買い出し任せちゃっていい?」
「野暮用?」
「うん、ちょっとね。夕方には戻るから」
軽い調子でそう言うと、ルミナは片手を振って、人混みの中へ足早に消えていった。
「相変わらず、自由なヤツ」
カイルが苦笑しながら呟く。
「わ、私たちは、先に道具屋、行きましょうか」
シエルの提案に頷きながらも、僕はルミナの後ろ姿が消えた方角を、少しの間だけ見つめていた。
出発まで、あと三日。
準備は、着実に整いつつあった。それでも、言葉にできない何かが、胸の奥に小さく残っている。
まだ形にならない予感を抱えたまま、僕は市場の喧騒の中へ足を踏み入れた。
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