18. 胎動
ギルドの扉をくぐった瞬間、いつもと違う空気を感じた。
今日もいつも通り、依頼を終えての報告に来ただけのはずだった。
受付前に、人だかりができている。誰もが声を潜め、それでいて落ち着かない様子で、奥の方を窺っていた。ざわめきの中に、これまで聞いたことのない緊迫した響きが混じっている。
「――何かあったのか?」
カイルが眉を寄せながら、人だかりの隙間に目を凝らす。
その視線の先、馬を乗り継いで来たのだろう、旅装のまま土埃と汗にまみれた一人の冒険者が、両脇を衛兵に支えられながら、よろよろとギルドの中へ運び込まれてくるところだった。顔は青白く、足取りは今にも崩れそうなほど頼りない。
「担架を、早く……!」
職員の一人が奥へ向かって叫ぶ。慌ただしく人が行き交う中、支えられていた冒険者が、掠れた声で何かを訴えていた。
「――そっちの、聖痕でも……」
聖痕――神殿関係者が、式典の挨拶などで時折口にするのを耳にしたことがある。てっきり、この街の『星紋の泉』を指す、格式張った呼び方なのだとばかり思っていた。
「見たこともない、化け物みたいな個体が……手に負えず……応援を……」
途切れ途切れの声は、それだけ言うと、奥の部屋へと運ばれていった。残された喧騒だけが、しばらくその場に漂っていた。
「今の、聞いた……?」
シエルが不安げに僕らを見る。
「見たこともない個体、って……まさか」
ルミナが呟いた言葉に、僕はあの日の黒い狼を思い出さずにはいられなかった。図鑑にも載っていない、得体の知れない姿のまま、カイルの腕をあっさりへし折った、あの圧倒的な脅威。
「わ、私たちの街だけじゃ、ないってこと……?」
シエルの声が、震えていた。
人だかりが少しずつ引いていく中、僕らのもとへレティシアが小走りにやってきた。いつもの落ち着いた物腰が、今日はどこか慌ただしい。
「皆さん、いいところに」
「今の人、大丈夫なんですか?」
僕が尋ねると、レティシアは小さく頷いた。
「治療師が付いています。命に別状はありません。ただ……」
彼女は声を落とし、周囲を一度見回してから続けた。
「遠方の聖痕で、見たこともない魔獣が発生したという報告です。皆さんが以前、東の森で遭遇したという黒い狼と、状況がよく似ています」
「聖痕って、他にもあるんですか? てっきり、星紋の泉だけを指す言葉だと思ってました」
僕がそう尋ねると、レティシアは少し間を置いてから、静かに口を開いた。
「本来は、星霊が降り立ったとされる土地全般を指す言葉なんです。この街の『星紋の泉』も、そのひとつに過ぎません。同じような土地は、世界の各地に他にもあると言われています」
「他にも、あるんですね」
「はい。今の報告で、その聖痕でも同じ異変が起きていると、はっきり確認が取れました」
彼女はそこで一度言葉を切り、僕らの顔を順に見た。
「実は、皆さんやガイウスさんたちの報告のおかげで、今回の状況を早く飲み込むことができました。本来その土地に出るはずのない、図鑑にも載っていない個体が現れて、周囲の手に負えないほどの脅威になる――あれと同じ現象が、遠く離れた場所でも起きているようです。もう、偶然では片付けられないと思います」
その言葉に、僕は胸の奥がざわつくのを感じた。あの日の記憶は、まだ何一つ終わっていない。
役に立てたことは、素直に嬉しい。それでも、あの日感じた無力さは、今もどこかに、消えずに残ったままだった。
「聖痕の異常が、魔獣を桁違いに強くしている……ってことか」
カイルが低く呟く。
「断定はまだできませんが、可能性は高いと考えています。私個人としては、東の森の一件と、無関係とは思えません」
いつになく硬い声だった。
「では、本日の依頼の手続きは以上です。お疲れ様でした」
レティシアはそう言って、僕らの依頼票に判を押していく。
僕らが立ち去ろうとした、その時だった。
「――あ、待ってください。リオンさん」
呼び止められ、僕は足を止めた。
「なんでしょう?」
「実は……これは正式な話ではないんですが」
彼女は珍しく、言葉を選ぶように間を置いた。
「先日、本部――星紋鏡を管理している神殿組織の方から、問い合わせが来ていて。リオンさんの固有スキルの判定について、詳しい経緯を知りたいと」
「僕の……固有スキル?」
思わず、自分の手のひらを見つめた。『???』――今も表示されたままの、あの文字。
「固有スキルの記録は、本来すべて神殿組織に集まる仕組みなんです。今回の聖痕の異変を受けて、何か関連がないか、分類できない記録を洗い出している一環だと思います。他の聖痕でも、同じように分類できない固有スキルの持ち主がいないか、本部が調べているそうです。前例がほとんどないことだけに、リオンさんの件も、詳しく知りたいのだと思います。まだ詳しいことは、私にも分かりません。ただ、気に留めておいていただければと」
それだけ言うと、レティシアは軽く頭を下げ、次の対応へと戻っていった。
ギルドを出た後も、彼女の言葉が、頭の隅にずっと引っかかっていた。
「リオンだけの話じゃない、ってことか……」
カイルが呟くように言う。
「なんか、思ってたより大きな話になってきたな」
「気にしすぎ、じゃない?」
ルミナは笑ってそう言ったが、その指先は、意味もなく袖の端をいじっていた。
「わ、私……なんだか、急に、怖くなってきました」
シエルが杖を強く抱きしめながら、小さな声でそう漏らす。
「大丈夫だって。何かあっても、四人でどうにかしてきたろ」
カイルがそう言って、シエルの頭を軽く撫でた。彼女は俯きながらも、小さく頷いた。
夕暮れの通りを歩きながら、僕はもう一度、自分の手のひらを見つめる。
『???』――この力の正体を、僕自身、まだ何一つ知らない。
だが、遠くの聖痕で起きているという異変と、この手のひらに眠る何かが、どこかで繋がっているとしたら。
考えたところで、答えの出る話ではなかった。それでも、隣を歩くシエルの何気ない横顔や、前を歩くカイルとルミナの軽口を聞いていると、不思議と、いつまでもこの毎日が続くような気がしてしまう。
振り返ると、ギルドの窓越しに、慌ただしく行き交う職員たちの影が、まだ揺れていた。あの喧騒の重さが、胸の奥にそのまま残っている。
橙色に染まる空を見上げながら、僕は静かに、拭いきれない予感を噛みしめていた。
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