13. 沈黙
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森を抜けてから、街に着くまでの道のりを、誰も多くは語らなかった。
カイルの右腕は、添え木代わりに巻いた布でしっかりと固定されていた。ヒールで骨は繋がったとはいえ、まだ本調子には程遠い。歩くたびに顔をしかめているのが分かるのに、本人は「平気だ」と繰り返すばかりで、痛みを訴えようとしない。
「無理しないで、持つよ」
ルミナがそう言って、カイルの戦斧に手を伸ばそうとしても、カイルは首を振った。
「これくらい、自分で持てる」
その意地の張り方に、僕は何も言えなかった。今日、あの黒い狼の前で、最初に崩れたのはカイルだった。誰よりもそのことを、本人が一番分かっているのかもしれない。
シエルは、何度も後ろを振り返っていた。森の方角を見ては、また前を向く。その繰り返しに、彼女がまだ怯えを引きずっているのが分かった。
「わ、私……ちょっと、耳が変な感じがして」
誰も何も聞いていないのに、シエルはそう言い訳するように呟いた。
ギルドに駆け込むと、レティシアの顔色が変わった。
「黒い、狼……? 討伐推奨は?」
「分からない。資料にも、載ってなかった」
カイルが答えると、レティシアはまず僕らの怪我を手早く確認していった。カイルの腕を見た瞬間、その表情がこわばる。
「これは……もうくっついているみたいですが、油断は禁物です。しばらくは戦闘を控えてください」
「大袈裟だって」
「大袈裟で結構です。座ってください」
レティシアの語気の強さに、カイルもさすがに口をつぐんだ。彼女はそう言うと、すぐさま奥へ向かい、担当の治療師を呼びに走っていった。戻ってきた治療師が腕の具合を確かめると、念のためにと、より頑丈な添え木に付け替えていく。カイルは顔をしかめながらも、それ以上は文句を言わなかった。
治療の間、僕はレティシアに、あの窪地で見たものをできる限り詳しく話した。体格、毛並みの黒さ、赤く光る瞳、二本足で立つ異様な姿。話すほどに、レティシアの表情は険しくなっていく。
「そんな個体が、東の森に現れるなんて……前例がありません。少なくとも、私が知る限りは」
「じゃあ、あれは一体」
「分かりません。ですが、しばらくは東の森全域への立ち入りを制限します。上位の方々による、正式な調査隊が編成されるはずです」
レティシアはそう言って、帳簿に何かを書き記していく。ペン先が紙を叩く音だけが、やけに大きく響いた。
「皆さんは、よくぞご無事で……本当に」
彼女がそこまで言って、言葉を切った。それ以上は、続けられなかったのかもしれない。
ギルドを出ると、夜風が頬の傷に染みた。歩き出してすぐ、シエルがふとこちらの顔を覗き込んでくる。
「その傷……大丈夫、ですか?」
「え……あ、これ、いつの間に……」
「でも、血が、滲んでます……歩いてる間に、また開いちゃったのかも」
シエルは鞄をごそごそと探ると、小さな薬包を取り出した。すり潰した薬草を練り込んだ、安物の傷薬らしい。迷いながらも、それを僕の頬にそっと塗ってくれる。ひんやりとした感触に、思わず身を固くする。
「わ、私、治癒魔法は……使えないので……回復ポーションは、高くて買えなくて……その、これくらいしか」
「十分だよ。ありがとう」
シエルは少し俯いたが、それでも手を止めようとはしなかった。誰かにこうして気にかけてもらえることが、まだ僕にはどこか不慣れで、それでいて、悪くない気恥ずかしさだった。
カイルは片腕を庇いながら、そんな僕らを横目に、無理に軽口を叩いた。
「お前ら、俺の腕より心配そうな顔すんなよ」
シエルの目から、堪えきれなかった涙がぽろりとこぼれた。
「心配してないわけ、ないじゃないですか……っ! 私、カイルさんが……死んじゃうかと……」
言葉が上ずり、涙声になる。カイルは面食らったように目を丸くしてから、慌てて笑ってみせた。
宿に戻った頃には、夜もすっかり更けていた。
カイルはベッドに腰掛け、固定された腕を所在なさげに眺めていた。
「悪かったな、今日は」
「もう聞いたよ、その台詞」
僕がそう返すと、カイルは力なく笑った。
「タンクが真っ先にやられちまったんじゃ、話にならねえだろ」
「誰も、そんなこと思ってない」
「俺が思ってんだよ」
それきり、カイルは黙り込んでしまった。窓の外を見つめる横顔に、いつもの豪快さはなかった。僕は何か言おうとして、結局、うまい言葉が見つからなかった。
代わりに、拳を軽く握って、彼の左手の前に突き出す。
「……なんだよ、それ」
「今日は、右じゃできないから」
カイルは一瞬呆けたように僕を見て、それから、ふっと息を漏らした。
「お前も、いつの間にか様になってきたな」
静かな部屋に、こつん、と小さな音が響く。それだけのことなのに、胸の奥が少しだけ軽くなった気がした。
カイルの寝息を聞きながらも、僕はなかなか寝付けずにいた。喉の渇きを口実に、水を汲みに部屋を出る。宿の裏手、井戸のそばにルミナが座り込んでいた。膝を抱え、夜空をぼんやりと見上げている。いつもの、力の抜けたような空気が、今はどこにもなかった。
「眠れない?」
声をかけると、ルミナは少し遅れてこちらを向いた。
「ん……ああ、リオンか」
その一瞬の間が、妙に引っかかった。
あの窪地で見た、ルミナの動き。うまく言葉にできないけれど、駆け出しの回復役が持つはずのないものだった気がする。訊きたいことは、喉元まで出かかっていた。
だが、いざ口を開こうとすると、言葉が出てこなかった。彼女が、今この瞬間だけは、いつもの軽口を叩く余裕を失っているように見えたからだ。踏み込んでいい距離なのか、僕にはまだ分からなかった。
「別に、何も」
結局、そう言うだけに留めた。ルミナは少しだけ意外そうな顔をしてから、いつもの調子を取り戻すように、口の端を持ち上げた。
「てっきり、根掘り葉掘り訊かれると思ったのに」
「訊いた方がいい?」
「さあ。どっちでもいいよ」
軽い調子だったが、その声には、微かな疲れが滲んでいた。僕はそれ以上、何も言わなかった。ただ、隣に腰を下ろす。
しばらくの間、二人とも黙ったまま、夜空を見上げていた。星は変わらず、いつも通りの数だけそこにあった。
「――カイルの腕、いつ治るかな」
ルミナがぽつりと呟いた。
「治療師は、二週間くらいって」
「短くはないね」
「うん。ただのヒールだけでどうにかなる話でもないみたい。骨がちゃんと固まるまでは、時間をかけるしかないって」
ルミナは小さく頷いただけだった。
それきり、また沈黙が落ちた。訊けなかった問いは、胸の奥に小さくしこりのように残ったままだった。答えの出ない夜が、また一つ過ぎていく。
「そろそろ、戻ろっか」
ルミナが先に立ち上がり、膝についた土を軽く払った。差し出された手を取って、僕も腰を上げる。彼女の手は、いつもと変わらず、少し驚くくらい力強かった。
「明日には、また元気なカイルの説教が始まるだろうね」
「それは、それで」
「うん。それでいいんだよね、きっと」
ルミナはそう言って、いつもの笑みを浮かべた。少しだけ無理をしているようにも見えたけれど、僕はそれ以上、何も尋ねなかった。
東の森の方角を見やる。今夜は、翳りは見えなかった。ただ、いつもより暗く、深く、静かに感じられるだけだった。
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