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12. 崩壊

今後も毎日投稿頑張りますので、どうかお付き合いをお願いしますm(_ _)m

 森は、記憶にあるものと同じはずなのに、どこか違っていた。


 鳥の声がしない。虫の音もしない。木々の隙間から差し込む光だけが、いつもと変わらず柔らかく地面を照らしていて、それがかえって不気味だった。


「静かだね……本当に」


 僕が呟くと、シエルが小さく震える声で答えた。


「音が、ないんじゃなくて……何かに怯えて、みんな息を潜めてる気がします」


「怯えてる?」


「うまく、言えないんですけど……気配、みたいなものが」


 シエルの言葉に、誰も茶化さなかった。それだけ、空気が張り詰めていた。


 奥へ進むほどに、異変ははっきりしてきた。地面のあちこちに、獣が争ったような爪痕。折れた木の幹。そのどれもが、僕らが今まで見てきたどんな痕跡よりも、深く、大きい。


「……これ、グレイウルフの爪痕じゃないな」


 カイルが屈み込み、爪痕の幅を指で測る。


「もっとでかい何かだ」


「戻る?」


 僕が尋ねると、カイルは少し迷ってから、首を振った。


「もう少しだけ。何があったのか、痕跡だけでも記録しておきたい」




 異変の中心らしき場所――木々がまばらに開けた、小さな窪地に差し掛かったとき、それは起きた。


 地面が、揺れた。


「――伏せろ!」


 カイルの声に、全員が反射的に地面へ身を伏せる。ほぼ同時に、僕らの頭上を、黒い影が飛び越えていった。


 着地の衝撃で、土埃が舞い上がる。土埃が晴れたそこに立っていたのは、見たこともない魔獣だった。狼に似た顔つきをしているが、後ろ足二本だけで直立し、人よりも長い腕の先には、鋭い鉤爪が伸びている。毛皮は闇そのもののように黒く、瞳だけが炉の炎のような赤で光っている。


「な、なんだ、あれ……!」


 カイルの声には、僕が初めて聞く種類の緊張があった。


「この威圧感、ここに出るような魔獣じゃない。こんなの、どう転んだって敵うわけがねえ」


 カイルの言葉通り、目の前の魔獣が纏う気配は、あのクリムゾンベアよりも明らかに禍々しかった。喉の奥から漏れる低い唸り声だけで、腹の底が冷えていく。


「退くぞ! シエル、援護を! リオンは俺の後ろに! ルミナは――」


 カイルが指示を出しかけた、その瞬間だった。


 黒い狼が咆哮し、地を蹴った。標的は、まっすぐカイルだった。


「くっ……!」


 戦斧で受け止めたカイルの体が、まるで紙屑のように吹き飛ばされる。数メルティ先の木の幹に叩きつけられ、幹そのものが軋むほどの鈍い音がした。


「カイル!」


 僕は思わず駆け寄ろうとしたが、シエルの叫びに引き戻された。


「リオンさん、危ない――!」


 黒い狼の視線が、今度は僕へと向いていた。牙が剥き出しになる。


 考える暇はなかった。剣を構え、迫る一撃に備える。だが、相手の速さは、これまで戦ってきたどの魔獣とも比べ物にならなかった。


 衝撃が腕を伝う。受け流したつもりの一撃が、それでも体を大きく後ろへ弾いた。地面を転がり、なんとか体勢を立て直す。


「がは……っ」


 カイルの呻き声が聞こえた。木の根元に倒れたまま、立ち上がれずにいる。口の端から一筋、血が滲んでいた。腕は、おかしな方向に曲がっている。


 タンクが、動けない。


 その事実が、頭の中で鈍く響いた。今まで当たり前のように、カイルの大きな背中の後ろで戦ってきた。その盾が、今はない。


「シエル、魔法を――」


 僕が叫ぶと、シエルは震える手でワンドを構えた。


「い、今――」


 だが、黒い狼の動きは、シエルの詠唱よりも速かった。標的を変え、無防備なシエルへと踏み込む。


 間に合わない。


 そう思った瞬間、視界の端で何かが動いた。


 ルミナだった。


 低い姿勢で地を這うように距離を詰め、黒い狼の突進の軌道へ、正確に割り込む。手にした短剣が閃いた。


 一瞬。本当に、瞬きよりも短い一瞬。


 黒い狼の横腹に、浅い切り傷が走った。致命傷には程遠い、けれど相手の意識を微かに逸らすだけの一撃。


「シエル、下がって!」


 ルミナの声は、焦りに上ずっていた。いつもの軽やかな余裕は、どこにもない。


「――っ、はい!」


 シエルが後退する。黒い狼は苛立たしげに咆哮すると、標的を、いまだ動けずにいるカイルへと切り替えた。


「――僕が、やる」


 声に出したつもりはなかったのに、口からこぼれていた。


 守れなかった。母を。あの日、何もできなかった自分を。


 今、目の前で、また誰かが傷つこうとしている。


 剣を握る手に、力がこもった。頭の芯が、痺れるように熱い。


「――ぁあああああっ!」


 その叫びが、想いが身体の底から溢れ出る。


 僕は地を蹴り、カイルと黒い狼の間に割り込んだ。


「リオン、無茶――」


 黒い狼の爪が振り下ろされる。僕はそれを、真正面から受け止めた。


 衝撃に、骨が軋む。腕が痺れる。それでも、僕は意地でも剣を離さない。


 金色の、光。


 ほんの微かに。本当に、瞬きの間だけ。剣の刃に、見たことのない輝きが宿った気がした。あの日、クリムゾンベアを弾き飛ばした時と、同じ熱。


 だが、それは長くは続かなかった。力が拮抗したのは一瞬で、次の瞬間、僕は弾き飛ばされ、地面に叩きつけられていた。


 視界が、揺れる。


「リオン!」


 ルミナの声が、遠くから聞こえる。


 黒い狼が、とどめを刺そうと僕へ迫った――その時。


「――もう十分だ! みんな、下がれ!」


 カイルの怒声が響いた。


 よろよろと立ち上がったカイルの手には、腰の袋から取り出した何か――ギルド支給の緊急信号弾があった。空に、赤い光の筋が上がる。


「誰か、近くにいるはずだ……!」


 カイルがそう叫んだ、次の瞬間だった。木々の隙間を割るようにして、一人の冒険者が飛び出してくる。年季の入った大剣を一閃させると、黒い狼の巨躯が数メルティも吹き飛び、木々をなぎ倒しながら転がった。


「戦闘音が聞こえて警戒しちゃあいたが……信号弾を撃ったのはお前らか? なんだこいつは……見たことがねえな」


 冒険者が低く呟いた。歴戦を感じさせる声にすら、微かな戸惑いが滲んでいた。


 黒い狼が体勢を立て直そうと唸る。その隙に、冒険者は振り返りもせず短く言った。


「今のうちに、退け!」


 鋭い声に弾かれるように、カイルは僕を抱え上げるようにして走り出す。


「カイル、腕が……」


「こんくらい、大丈夫だ! 喋ってないで走れ!」


 僕らは森を駆け抜けた。背後で、黒い狼の咆哮が響く。だが、追ってくる気配は――幸いにも――なかった。




 森を抜け、街道に出たところで、僕らはようやく足を止めた。全員、肩で息をしていた。


「はぁ……はぁ……み、みんな、無事……?」


 シエルが震える声で確認する。


「怪我はあるけど、生きてる」


 ルミナがそう答えた。いつもの軽い口調に、戻っていた。


「カイル、腕は」


「あぁ、手が動かねぇ」


 カイルは顔をしかめながら答えたが、右腕はだらりと下がったまま、明らかに不自然な方向へ曲がっていた。動かそうとする素振りすら見せない。


「折れてるよ、それ」


 答えたのはルミナだった。歪んだ腕を一瞥した彼女の声に、迷いはなかった。カイルは一瞬言葉に詰まり、それから力なく笑った。


「……ハハ、道理で、痛いわけだ」


 強がる余裕すら、もうほとんど残っていないようだった。よほどの激痛を堪えているのは、誰の目にも明らかだった。


「みんな、すまん。俺はなんの役にも立てなかった」


 カイルがぽつりと呟いた。それだけの言葉に、僕は何も言えなかった。頼りにしていた背中が、こんなにも小さく見えたのは、初めてだった。


「――カイル、腕、見せて」


 ルミナがそう言って屈み込む。歪んだ角度のままの腕を一瞥すると、彼女の表情がわずかに強張った。


「このまま治癒魔法をかけても、歪にくっついちゃう。誰か、真っ直ぐに戻してあげないと」


 ルミナやシエルに任せるわけにはいかない。これ以上カイルを痛めつけることになるのは心苦しかったが、それでも――カイルの相棒は、他でもない自分だ。覚悟を決めるしかなかった。


「僕にやらせて」


「頼む」


 短い言葉に、覚悟が滲んでいた。僕はカイルの腕にそっと手を添える。震える手を叱咤しながら、ゆっくりと、けれど一息に、正しい位置へ戻す。


「――っ、があぁっ……!」


 カイルの絶叫が森に響いた。額に脂汗が滲み、歯を食いしばっている。それでも、彼は最後まで、腕を振り払おうとはしなかった。


「ごめん、ごめん……」


「謝るな……お前は、悪くない」


 途切れ途切れの声で、カイルがそう言った。


 ルミナが静かに手をかざす。「――ヒール」 囁くような詠唱と共に、淡い光が腕を包んだ。腫れが少しずつ引き、カイルの息が、わずかに落ち着いていく。


「これで、応急処置は済んだと思う。でも……」


 ルミナは言葉を濁した。


「治りきってはいない、ってことか」


「うん。骨はもう繋がったと思う。でも、無理に動かしたらまたずれるかもしれないから、しばらくは安静にしてないと」


 カイルは小さく頷くと、それ以上は何も言わなかった。


 僕は自分の手のひらを見た。あの一瞬の、金色の光。あれは、何だったのだろう。


「リオン、さっきの……」


 ルミナが何か言いかけて、口をつぐんだ。


「さっきの?」


「ううん。なんでもない。それより、早くギルドに報告しに行こう」


 彼女はそう言って、先に歩き出した。その背中を見ながら、僕はもう一度、自分の手のひらを見つめた。


 あの黒い狼の姿は、ギルドの資料にも、これまで聞いたどんな魔獣図鑑にも載っていなかった。


 あれが何だったのか。なぜ、あれほどの強さを持つ魔獣が、こんな浅い森にいたのか。


 そして、ルミナが見せたあの動きは、いったい何だったのか。


 答えは、まだ何も分からない。


 ただ一つ、はっきりしたことがあった。


 僕らの日常は、思っていたよりずっと早く、綻び始めている。

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