11. 静寂
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街のあちこちで、奇妙な噂が囁かれ始めてから、三日が経っていた。
商団の護衛依頼はあれから減り、代わりにギルドの掲示板には「東の森・調査依頼」という見慣れない札が増えていった。緊急依頼につき輝度ランク不問。だが、「浅層で発生している異変の原因調査」という文言に、僕は思わず身構えた。
掲示板の周りには、いつもより多くの冒険者が集まり、ひそひそと言葉を交わしていた。「森の奥で、何かとんでもないものが出たらしい」「うちの村の近くまで魔獣が出るようになった」――そんな噂の断片が、耳に飛び込んでくる。
「今回は、さすがに見送りだよね」
僕がそう言うと、依頼票を睨んでいたカイルが、意外にも首を横に振った。
「いや、これ、受けようと思ってる」
「え?」
思わず聞き返した。数日前の夜、東の空に見えたあの翳りが、頭の片隅を掠める。
「緊急依頼だから、ランク不問になってるんだよ。それだけ、ギルドも切羽詰まってるってことだ」
「危なくないんですか、それ」
「危なくない、とは言わねえ。だが、危なくなったら即撤退が基本条件になってるだろ。それに――」
カイルは声を落とした。
「最近の魔獣の動き、俺たちも無関係じゃなくなってきてる。グレイウルフの一件だってそうだ。原因が分かれば、他の依頼にも活きるはずだ。それに、緊急依頼だけあって、報酬も格段にいいんだよ」
その言葉に、僕は少し迷った。確かに、あの日のグレイウルフも、シエルが感じた森の静けさも、ずっと胸の奥に引っかかったままだった。それでも、討伐でも護衛でもない「調査」という響きには、得体の知れない不安があった。
それに、もし本当に何かが起きているのなら、見て見ぬふりをすることが、正しいとも思えなかった。母を守れなかったあの日から、僕はずっと、何かを守れる自分になりたいと思ってきた。だとしたら、ここで目を逸らすわけにはいかない。
「わ、私も……賛成、です。気になっていたので」
シエルが小さく頷く。それでも、その声には隠しきれない怯えが滲んでいた。
ルミナは腕を組んだまま、しばらく黙っていた。いつもならすぐに軽口を叩く彼女が、珍しく考え込んでいる。
「ルミナは?」
僕が尋ねると、彼女はようやく口を開いた。
「正直、気は進まない。けど――放っておいて、もっと悪いことになるくらいなら」
やがて、彼女は肩をすくめた。
「まあ、カイルがそう言うなら。危なくなったらすぐ逃げる、それが条件ね」
「もちろんだ」
カイルは自信ありげに頷くと、受付へ向かった。その背中を見送りながら、僕はもう一度、依頼票の文字に目を落とした。
――浅層で発生している異変の原因調査。
嫌な予感が、拭えなかった。
受付では、レティシアが緊張した面持ちで詳細を説明してくれた。
「東の森の浅層で、明らかに異常な痕跡が複数報告されています。討伐や捕獲ではなく、あくまで状況確認が目的です。今回は複数のパーティに区画を分けて調査を依頼していて、森の入り口付近には待機部隊も配置しています。何か遭遇した場合は、無理に交戦せず、必ず信号弾で応援を要請してください」
彼女は一人一人の顔を見回しながら、念を押すようにそう言った。
「正直に言うと、皆さんがこの依頼を受けると聞いて、少し驚きました。無理をしてほしいわけではないので」
「気にすんな。俺たちも、ただ黙って様子見してるのは性に合わねえよ」
カイルが軽い調子でそう言うと、レティシアは一瞬だけ表情を緩めたが、すぐにまた真剣な顔つきに戻った。
その様子を見ながら、僕はふと、この人が本気で誰かを心配していることに気づいた。事務的な物言いの裏に、確かな不安があるのだろう。
「信号弾は、こちらに」
カイルの手に、赤い筒状の道具が手渡される。
「何かあったら、迷わず使ってください」
「ああ、分かってる」
カイルは信号弾を腰の袋にしまいながら、いつもより硬い声で答えた。
装備を整え、ギルドを出る。空は分厚い雲に覆われ、いつもより薄暗かった。
剣を腰に差しながら、僕は自分の手のひらをじっと見つめた。あの日、クリムゾンベアを弾き飛ばした一瞬の熱。あれ以来、あの光が戻ってくることはなかった。今日、もしまた何かが起きたとして、僕にどれだけのことができるのか、正直なところ自信はなかった。
「大丈夫だよ」
隣を歩くルミナが、僕の心を読んだように、ぽつりと呟いた。
「危なくなったら、すぐ逃げるから」
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
外壁沿いの通りを歩いていると、いつもより多くの冒険者たちが、慌ただしく行き交っているのに気づいた。誰もが、心なしか表情を硬くしている。すれ違った顔見知りの冒険者が、僕らの装備を見て小さく声をかけてきた。
「お前らも、調査依頼か。気をつけろよ」
「ありがとうございます」
「本当に、洒落になんねえ噂ばっかりだ。俺は今回、見送ることにしたよ」
その一言に、シエルの表情が、ますます強張るのが分かった。
「わ、私たちも、無理はしません、から」
シエルが、自分に言い聞かせるようにそう言った。
東の森の入り口が見えてくる頃には、日が高く昇っていた。以前、山羊の捜索で訪れた時とは、明らかに空気が違っていた。木々の緑は同じはずなのに、どこか色褪せて見える。
「一度、確認な」カイルが足を止めて振り返った。「危なくなったら、迷わず信号弾を上げる。誰かが遅れても、絶対に一人で戦おうとするな。いいな」
「はい」
「わ、分かりました」
「了解」
三人の返事を聞いて、カイルは満足そうに頷いた。それから、深く息を吸い込む。
「よし、行くぞ!」
カイルの声には、いつもの豪快さに混じって、微かな緊張が滲んでいた。それに気づいたのは、きっと僕だけではなかったはずだ。
こうして、僕らは東の森――試し依頼で訪れたあの森の、さらに奥へと足を踏み入れることになった。
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