いつも通りの朝
翌朝、店の厨房には、いつも通りの小麦の匂いが満ちていた。
「おはよう、みっちょ。今日は少し捏ねが早いわね」
「お、おはよう、母様」
リエラは、昨夜のことなど何もなかったかのように、いつもの穏やかな顔で窯の様子を見ていた。けれど、みっちょにはわかった。目の下にうっすらと残る隈。いつもより一拍遅れる相槌。小さな綻びが、静かな朝の中に、確かに滲んでいた。
「あの……昨日、遅くまで誰かと話してた?」
思い切って尋ねると、リエラの手が、ほんの一瞬だけ止まった。
「昔の知り合いが、少し寄っただけよ。心配しなくていいわ」
それ以上、何も聞くなという空気が、柔らかく、けれど確かに張られていた。みっちょは、喉元まで出かかった問いを、そのまま飲み込んだ。
◆ ◆ ◆
学校でも、みっちょはどこか上の空だった。
「――みっちょ、聞いてる?」
ノアの声に、はっと我に返る。昼休み、いつもの中庭で、フィンとノアと三人で昼食を広げていたところだった。
「ご、ごめん。何の話だっけ」
「次の依頼の話。ブロムさんが、そろそろランクアップの推薦を考えてもいいって言ってたって」
「本当?」
驚いて聞き返すと、フィンが小さく頷いた。
「E帯の依頼、ほとんど問題なくこなしてるからな。D帯への昇格試験、受けてみないかって話だ」
本来なら、飛び上がって喜ぶような知らせだった。けれど、みっちょの心のどこかは、まだ昨夜の会話に囚われたままだった。『封印牢』『セラ』――その言葉たちが、頭の隅で燻り続けている。
「みっちょ? なんか、上の空だぞ」
フィンに指摘され、みっちょは慌てて笑顔を作った。
「ごめん、大丈夫。ちょっと、家のことでいろいろあって」
「家のこと?」
「うん……なんでもない。それより、昇格試験、受けてみたい。みんなで頑張ろう」
話を逸らすように言うと、ノアとフィンは顔を見合わせたが、それ以上は深く追及しなかった。二人なりの、距離の取り方だった。
◆ ◆ ◆
放課後、店の手伝いをしながら、みっちょはさりげなく父トーマスの様子を窺った。父は、いつもより少しだけ、口数が少ない気がした。
「父様、最近、忙しい?」
「ん? ああ、まあ、ちょっとな」
「昨日来た人、母様の昔の知り合いなんだって」
トーマスの手が、パン生地の上でわずかに止まった。それから、努めて何気ない調子で答える。
「そうだな。お前が生まれる前の話だ。母さんにも、俺の知らない時代があったんだよ」
「父様は、その頃のこと、知ってるの?」
「少しはな。でも、母さんが話したくないことを、俺が先に話すわけにはいかないだろう」
父の声には、隠し事への後ろめたさよりも、母への配慮のようなものが滲んでいた。それが、両親の間にある、みっちょの知らない時間の長さを感じさせた。
「――いつか、教えてくれるかな」
「きっとな。今は、まだ早いだけだ」
トーマスはそう言うと、みっちょの頭をぽんと撫でた。子供扱いされているようで、少しだけむず痒かったが、その手の温かさに、みっちょは素直に頷いた。
◆ ◆ ◆
その夜、店を閉めたあと、みっちょはいつものように窯の前に座った。母のリエラが、静かに隣に腰を下ろす。
「ランクアップの試験、受けるんですって?」
「うん。ブロムさんが、推薦してくれるみたい」
「そう。頑張りなさい」
短い言葉だったが、そこには確かな誇らしさが滲んでいた。みっちょは、しばらく火を見つめてから、思い切って口を開いた。
「母様。わたし、探索者になるの、応援してくれてる?」
「もちろんよ。なぜ、そんなことを聞くの」
「なんとなく。昨日から、母様、少し違う顔してたから」
リエラは、しばらく黙って火を見つめていた。その横顔に浮かんでいたのは、迷いと、それを上回る何かへの覚悟のようなものだった。
「――いつか、話すわ。全部」
「今じゃなくて?」
「今じゃなくて。あなたが、もう少し強くなってから」
それは、はぐらかしではなく、約束のように聞こえた。みっちょは、それ以上は聞かず、ただ小さく頷いた。窯の火は、今夜も静かに、けれど確かに燃え続けていた。




