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剣を置いた人

その男が店に現れたのは、閉店間際の、客もまばらな夕暮れ時だった。


外套のフードを目深に被った、痩身のエルフ。年齢は母と同じくらいだろうか。パンを買うでもなく、ただ入り口に立ち尽くし、店の奥にいるリエラを見つめている。その視線には、明らかに「客」とは違う、何か切迫したものがあった。


「いらっしゃいませ……」


みっちょが声をかけようとした瞬間、母が横からすっと前に出た。その顔から、いつもの穏やかさが消えていた。


「――アルド」


その一言だけで、店の空気が変わった。


「みっちょ、奥で片付けをしていて」


「でも……」


「いいから」


有無を言わさぬ声だった。みっちょは戸惑いながらも、奥の厨房へと下がった。けれど、扉を完全には閉めず、わずかな隙間から、二人の様子を窺ってしまう。それが良くないことだとわかっていても、身体が勝手に動いていた。


◆ ◆ ◆

「十五年ぶりだな、リエラ」


「用件は。世間話をしに来たわけじゃないでしょう」


リエラの声は、みっちょが聞いたことのない硬さを帯びていた。アルドと呼ばれた男は、フードの下でわずかに顔を歪めた。


「――『封印牢』が、揺れている」


封印牢。その言葉に、みっちょは思わず息を止めた。二十五番迷宮『禁断の封印牢』。呪い系統、極難度――授業で名前だけ聞いたことのある、あの迷宮だ。


「まさか」


「まだ確定じゃない。だが、周辺の探索者から、深淵の嘆きの幻聴が、以前より広範囲で報告されてる。ギルドの一部は、もう気づき始めてる」


「それが、私に何の関係が……」


「関係ない、と言い切れるのか。あの日、封を強化したのは、俺たちだ。お前の――」


「やめて」


リエラの声が、鋭く遮った。厨房の隙間から見えたその横顔は、みっちょが初めて見る、何かに耐えるような表情をしていた。


◆ ◆ ◆

「私はもう、探索者じゃない。あの時に、全部終わらせたはずよ」


「終わらせた、と思っているのは、お前だけかもしれない」


アルドの声は、静かだが、有無を言わせぬ重みがあった。


「セラの分まで、俺たちが見張ると約束した。忘れたとは言わせない」


その名前が出た瞬間、リエラの肩がわずかに震えた。みっちょの知らない名前だった。けれど、母がこれほどまでに動揺する名前だということは、確かに伝わってきた。


長い沈黙のあと、リエラは静かに息を吐いた。


「――わかった。詳しい話を聞かせて」


「ここでは話せない。娘さんに聞かれる」


「大丈夫。あの子はもう、寝る時間だから」


その言葉に、みっちょは慌てて厨房の扉からそっと離れた。心臓が、うるさいくらいに音を立てていた。聞いてはいけないものを聞いてしまった、という自覚と、それ以上に――母の知らない顔を見てしまった、という戸惑いが、胸の中でぐるぐると渦を巻いていた。


◆ ◆ ◆

その夜、みっちょはベッドに横になりながら、天井をじっと見つめていた。眠気はまったく訪れなかった。


『封印牢が揺れている』『セラの分まで』『あの日、封を強化したのは、俺たち』――断片的な言葉たちが、頭の中で何度も繰り返される。母がかつて探索者だったことは知っていた。けれど、それがどんな仲間と、どんな出来事を経て、今の静かな日々に繋がっているのか、みっちょは何一つ知らなかったのだと、今更ながらに思い知らされた。


階下から、かすかに、話し声が漏れ聞こえていた。母と、アルドという男の声。時折混じる、父の低い声。三人の会話は、深夜まで続いているようだった。


「……セラって、誰なんだろう」


誰に問うでもなく、みっちょは暗い天井に向かって呟いた。答えは返ってこない。けれど、その名前が、これから自分の知らないところで、何か大きなものと繋がっているような、そんな予感だけが、胸の奥に静かに沈んでいった。


窓の外、月明かりに照らされた迷宮都市の遠い稜線は、いつもと変わらず静かだった。けれどその静けさの下で、何かが、ゆっくりと動き始めているのかもしれない――そんな漠然とした不安を抱えたまま、みっちょはようやく、浅い眠りに落ちていった。



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