小さな風の後押し
その日の依頼は、二番迷宮『鳴動する岩山』での、地図作成補助だった。定期的に地形が組み変わるこの迷宮は、正確な地図が作りづらく、ギルドが定期的に最新の情報を欲しがっているのだという。
「地形が変わるって言っても、実際どんな感じなんだ?」
ノアが、岩山の切り立った崖を見上げながら言った。
「教科書だと、一定間隔で、地面や壁の一部が動くらしいよ。前兆として、小さな振動があるみたい」
みっちょの説明に、フィンが頷きながら、慎重に足を進めた。三人にとって、これまでの依頼とはまた違う種類の緊張感があった。
◆ ◆ ◆
崖沿いの細い道を進んでいたとき、それは、ほとんど前触れなく起きた。
「――地面が!」
ノアの叫びと同時に、足元の岩が、大きく崩れ始めた。フィンが咄嗟に飛び退いたが、みっちょの足場は、完全に崩落の範囲に入っていた。
「みっちょ!」
間に合わない――そう思った瞬間、みっちょの全身を、ふわりと柔らかな風が包み込んだ。まるで、誰かが後ろから優しく支えてくれるような感覚。崩れ落ちる岩の間を縫うように、みっちょの身体は、僅かに軌道を変え、辛うじて安全な足場へと運ばれた。
◆ ◆ ◆
「――大丈夫か!?」
駆け寄ってきたフィンに、みっちょは、まだ状況が飲み込めないまま、呆然と頷いた。
「うん……多分、大丈夫」
「今の、何だったんだ。お前、勝手に飛んだみたいに見えたけど」
みっちょは、自分の手のひらを見つめた。そこには、ほんの微かに、見覚えのある温もりの残滓が、まだ漂っている気がした。オルガの店で出会った、あの風の精霊と、よく似た感触だった。
「――多分、精霊が、助けてくれたんだと思う」
その言葉に、ノアとフィンは、驚いたように顔を見合わせた。
◆ ◆ ◆
依頼を終え、ギルドへの報告を済ませたあと、みっちょは、その足でオルガの店を訪ねた。
「――なるほどね。危機に反応して、無意識に力を借りたか」
事の顛末を聞いたオルガは、興味深そうに頷いた。
「まだ、あんたが自分で呼んだわけじゃない。あんたと店の精霊の間に生まれた、小さな繋がりが、とっさに反応しただけだ」
「じゃあ、まだ、自分の力で使えるようになったわけじゃ、ないんですね」
「まだ、だね。でも――繋がりが生まれてる証拠だ。悪くない兆しだよ」
オルガは、珍しく、満足げな笑みを浮かべた。
◆ ◆ ◆
「これから、どうやって修行を進めればいいですか」
みっちょの問いに、オルガは、少し考えてから答えた。
「次の段階は、『呼びかける』ことだ。危機に頼らず、自分の意志で、精霊に声をかける。もちろん、無理に従わせようとしちゃいけない。あくまで、お願いする、という気持ちでね」
「お願いする、か……」
「あんたなら、できると思うよ。あんたは昔から、誰かに何かを頼むとき、いつも、ちゃんと相手の都合を考えてから頼んでるだろう。それが、精霊相手でも変わらないなら――きっと、うまくいく」
オルガの言葉に、みっちょは、少し照れくさそうに笑った。それは、これまでの人付き合いの経験が、そのまま新しい力の土台になっているという、確かな実感だった。
◆ ◆ ◆
その夜、店に戻ったみっちょは、今日の出来事をリエラに報告した。話を聞いたリエラの表情には、驚きと同時に、深い感慨が滲んでいた。
「――もう、そこまで進んでるのね」
「うん。まだ、全然、自分で使えるわけじゃないけど」
「十分よ。わたしが精霊術を覚え始めた頃より、ずっと早い」
リエラは、娘の頭を、そっと撫でた。窯の火が、いつもより少しだけ、明るく灯っている気がした。危機を乗り越えたことへの安堵と、新しい力の芽生えへの高揚――みっちょの中には、両方の感情が、静かに、けれど確かに、溶け合っていた。
まだ、道のりは長い。それでも、一つ一つの積み重ねが、確かに、自分を、少しずつ前へ進めてくれている。その実感だけを胸に、みっちょは、次の修行の日を、静かに心待ちにしていた。




