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虚空の図書館

あの夜以来、みっちょの生活には、小さな変化が加わっていた。仕込みの前、学校に行く前、ほんの十五分だけ――知識を蓄える時間を、自分に課すようになったのだ。


「みっちょ、また迷宮図鑑読んでるのか」


朝、店先で古い迷宮図鑑を広げるみっちょに、配達に来たノアが声をかけた。


「うん。知らないことが多すぎるなって、最近すごく思うから」


「昇格試験も終わったし、少しくらいゆっくりしてもいいのに」


「ゆっくりする時間があるなら、その分、知らないことを一つでも減らしたいの」


みっちょの言葉には、以前にはなかった、静かな熱がこもっていた。ノアは、それ以上何も言わず、少しだけ眩しそうに彼女を見た。


◆ ◆ ◆

そんな折、三日月亭に舞い込んだのは、八番迷宮『虚空の図書館』での依頼だった。フィオナから直々の指名で、今回は古代研究部門の正式な調査補助という形になる。


「本に書かれた魔物が実体化するって、教科書で読んだ場所だよね」


「ああ。厄介なのは、実体化する魔物の強さが、本の内容によってバラバラなことだ」


ブロムの説明に、フィンが顔をしかめた。


「つまり、どの本が危険か、事前にわからないってことか」


「その通り。だからこそ、知識のある人間が必要とされる」


ブロムの視線が、自然とみっちょに向いた。これまでの依頼とは違う種類のプレッシャーを、みっちょは感じ取っていた。


◆ ◆ ◆

『虚空の図書館』は、天井の見えないほど高い書架が、無限に続いているように見える、異様な空間だった。埃をかぶった古い本の背表紙が、ランプの灯りに照らされて、ぼんやりと浮かび上がっている。


「うわ……この本の量、全部読むの無理だろ」


ノアが呆然と呟いた。フィオナが、慎重に一冊を取り出しながら答える。


「読む必要はありません。ただ、本の『気配』を見極める必要があります。禍々しい内容の本ほど、実体化する魔物も凶悪になる傾向がある」


「気配って、具体的にはどうやって……」


「これは、経験と勘の世界ですね。正直、私にも完全にはわかりません」


フィオナの正直な返答に、三人は顔を見合わせた。


◆ ◆ ◆

調査対象の本棚に近づいたとき、一冊の本が、棚から滑り落ちるように床に落ちた。開いたページから、黒い靄のようなものが立ち上り、見る間に、禍々しい姿の魔物へと形を変えていく。


「来るぞ!」


フィンが剣を構え、ノアが素早く距離を測る。みっちょは、震える手でナイフを構えながら、必死に頭を働かせた。


――落ちたのは、あの本。表紙の意匠、古びた血のような染み。教科書で読んだ、呪い系の記述に近い雰囲気がある。


「フィン、多分、あれは物理よりも、精神攻撃を仕掛けてくるタイプだと思う! 直視しすぎないで!」


とっさに叫んだ言葉に、確証はなかった。それでも、これまで蓄えてきた知識の断片が、頭の中で警鐘を鳴らしていた。フィンは、みっちょの指示を信じ、視線を逸らしながら間合いを詰める。


魔物が放った幻影のような攻撃は、フィンの意識を僅かに揺らがせたが、致命的な隙にはならなかった。その隙を突いて、ノアが的確に距離を詰め、フィンが仕留めの一撃を放つ。魔物は、黒い靄となって霧散した。


◆ ◆ ◆

「――今のは、賭けじゃなかったな」


フィンが、剣を収めながら言った。


「賭け、じゃない?」


「以前は、勘に頼ってた部分が大きかっただろ。今のは、ちゃんと理由があった。本の見た目、教科書の記述――ちゃんと根拠を積んでから、言葉にしてた」


フィンの指摘に、みっちょは自分でも気づいていなかった変化に、はっとした。確かに、以前のような「たまたま」「まぐれ」という感覚ではなかった。積み重ねてきた知識が、確かな土台になり始めている。


「――お見事です。私の予想以上の判断でしたよ」


フィオナが、感心したように言った。みっちょは、照れくささと同時に、確かな手応えを胸に感じていた。


強くなるというのは、きっと、こういう小さな積み重ねの先にあるものなのだろう。まだ、母の重荷に触れられるほどの強さには、遠く及ばない。それでも、確かに、一歩ずつ、近づいている――そんな実感が、みっちょの胸の中に、静かに灯っていた。



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