小さな綻び
「――母様、また同じところで木べら忘れてるよ」
朝の仕込み中、みっちょが指摘すると、リエラは慌てたように手元を確認した。
「あら、ごめんなさい。最近、なんだか物忘れが多くて」
軽い調子で笑ってみせたが、みっちょはその笑顔の奥に、拭いきれない疲れの色を見つけてしまった。母がこんな風にうっかりミスをするのは、珍しいことだった。
「大丈夫? 無理してない?」
「大丈夫よ。心配しないで」
いつもの返事だった。けれど、その「大丈夫」という言葉の重ねられる回数が、最近、少しずつ増えている気がした。
◆ ◆ ◆
その日の放課後、ギルドの掲示板に貼られた新しい依頼を、三日月亭の三人は眺めていた。
「――なんか、最近、深淵の嘆き周辺の依頼、やたら報酬が上がってないか?」
フィンが指摘した通り、二十二番迷宮周辺の警備・調査系の依頼は、これまでよりも明らかに報酬額が高くなっていた。ノアが、耳をぴくりと動かしながら言う。
「なんか、あの辺りの依頼、最近ずっと『Aランク以上限定』ってなってるよな。前は、そんなことなかったのに」
「ギルドの都合か何かじゃないか。俺たちには関係ない話だろ」
フィンは、あまり気にしていない様子だった。みっちょも、表面上は頷いたが、内心では、先日聞いてしまった母とアルドの会話――「深淵の嘆き」「封印牢」という言葉が、頭の隅にちらついていた。
――関係ない話、なんだろうか。
確信のない疑問が、静かに胸の中に沈んでいった。
◆ ◆ ◆
数日後、みっちょが夜遅く水を飲みに厨房へ下りたとき、店の裏口で、母と誰かが話しているのが見えた。フードを被った、痩身のエルフ――アルドだった。
とっさに柱の陰に隠れる。二人の声は、以前よりも低く、切迫した響きを帯びていた。
「――今度は、間に合わせる、って言ったでしょう」
「わかっている。だが、状況が」
「わかってる。だから、少しずつ準備は進めてる。剣は握らなくても、封印術の型くらいは、まだ覚えてるわ」
その言葉に、みっちょは思わず息を止めた。母が、封印術という言葉を、こんなにも生々しい響きで口にするのを、初めて聞いた。
「無理はしないでくれ」
「無理をしないでいい状況じゃないのは、あなたの方がよくわかってるでしょう」
リエラの声には、これまで聞いたことのない、静かな覚悟が滲んでいた。
◆ ◆ ◆
アルドが去った後、みっちょは音を立てないよう、そっと自室に戻った。ベッドに横になっても、鼓動はなかなか収まらなかった。
『封印術の型くらいは、まだ覚えてるわ』――その一言は、母がただの元探索者ではなく、今もなお、何かに備え続けている人だということを、はっきりと物語っていた。
知りたい。けれど、母が「まだ話さない」と決めているのなら、無理に踏み込んでいいものかわからない。優しさと不安が、みっちょの中でせめぎ合っていた。
――強くなってから、話す。母様は、そう言った。
ならば、今の自分にできることは、ただ一つしかない気がした。強くなること。目の前の依頼を、一つ一つ、確実にこなしていくこと。それが、いつか母の重荷に触れる資格を得るための、唯一の道なのかもしれない。
◆ ◆ ◆
翌朝、いつもと変わらない顔で厨房に立つ母を見て、みっちょは、あえて何も聞かなかった。ただ、いつもより少しだけ、丁寧に、生地を捏ねる母の手を見つめた。
「――どうしたの、今日はやけに見つめてくるわね」
「ううん。ただ、母様の手、すごく綺麗だなって思って」
「あら、なにそれ」
リエラは、少し驚いた顔をしてから、柔らかく笑った。その笑顔に、昨夜見た緊張の色は、すでに見当たらなかった。それが、母の強さなのか、あるいは、娘に見せないための努力なのか――みっちょには、まだ判断がつかなかった。
店の外では、いつもと変わらない朝の喧騒が、静かに始まっていた。だが、みっちょの中には、これまでとは違う種類の決意が、確かに根を張り始めていた。




