見習いの一歩
翌朝の教室は、いつもより少しだけ騒がしかった。
「聞いたか、翡翠の密林の話」「ノアが迷子になって」「みっちょが助けたんだって?」――そんな声が、あちこちの席から漏れ聞こえる。みっちょは自分の机につきながら、居心地悪そうに縮こまっていた。褒められることに慣れていない。窯の前で生地をこねている方が、よほど落ち着く。
「おはよう、みっちょ」
声をかけてきたのはノアだった。昨日の青ざめた顔とは違い、今朝は少しだけ晴れやかな表情をしている。それでも、耳はまだ少し伏せがちだった。
「あの、昨日は……ありがとう。おれ、格好悪いところ見せちゃって」
「そんなことないよ。ノアは先に進んで、確かめようとしただけでしょ? 勇気があったと思う」
「勇気じゃないよ。ただの、見栄っ張り」
ノアは自嘲気味に笑ったが、みっちょは首を横に振った。
「見栄でも、一歩踏み出したのはノアだよ。わたしは、後からついていっただけ」
その言葉に、ノアは少し驚いたように目を丸くし、それから、耳をぴんと立てた。
◆ ◆ ◆
昼休み、ガレン先生に職員室へ呼ばれた。何か叱られるのだろうかと身構えながら扉を叩くと、先生は書類の山の向こうから、いつもと変わらない静かな声で言った。
「座れ。説教じゃない」
「は、はい……」
「昨日の判断、もう一度聞かせてくれ。なぜ、風上だと思った」
みっちょは、しどろもどろになりながらも、教科書の記述と、店の客から聞いた話を説明した。話し終えると、ガレン先生はしばらく黙り、それから小さく頷いた。
「知識そのものは、教科書レベルだ。だが、それを組み合わせて、とっさに使う判断力は――教えて身につくものじゃない」
「そんな、大したことじゃ……」
「大したことだ。俺が現役の頃、パーティを組みたかったのは、剣が強い奴じゃなく、こういう判断ができる奴だった」
先生はそう言うと、机の引き出しから一枚の紙を取り出した。
「これは、低難度迷宮への課外実習許可証だ。希望者だけが受けられる、正式な探索者見習いの制度でな。もちろん強制じゃない。だが――お前には、向いていると思う」
紙には、都市のギルド紋章が押されていた。見習いとして、E帯の迷宮に、正式な監督のもとで挑戦できる権利。心臓が、どくん、と大きく跳ねた。
◆ ◆ ◆
「――で、もらってきたのがこれ」
夕方、店の片付けをしながら、みっちょは母に許可証を見せた。リエラは手を止め、しばらくその紙を見つめていた。
「参加費が、必要なのね」
「うん……装備の貸出料と、保険料だって。でも、無理なら断る。お店だって大変だし」
近頃、小麦の仕入れ値が上がっている。北方の鉄帝国が鉱山の産出を絞ったとかで、その影響が巡り巡って、遠く離れたパン屋の懐にまで届いているらしい。父のトーマスが帳簿を見るたびにため息をつくのを、みっちょは知っていた。
「断らなくていいわ」
リエラは、意外なほどはっきりと言った。
「お金のことは、母様たちが何とかする。あなたは、行きたいの? 行きたくないの?」
問われて、みっちょは自分の胸に手を当てた。怖くないと言えば、嘘になる。密林で聞いた葉擦れの音を、まだ覚えている。けれど、それ以上に――昨日、迷子のノアの手を取ったときの安堵と、ガレン先生の「向いている」という言葉が、胸の奥でずっと燻っていた。
「……行きたい、です」
「なら、行きなさい。ただし」
リエラは、娘の顔をまっすぐ見つめた。その目の奥に、これまで見たことのない、探索者だった頃の色が、一瞬だけよぎった気がした。
「迷宮は、優しくないの。強くなる前に、まず、怖がることを覚えなさい。怖がらない者から、先に死ぬから」
その言葉は、教科書のどこにも書かれていない、生きた重みを持っていた。みっちょは、静かに頷いた。
◆ ◆ ◆
その夜、みっちょは自分の部屋で、許可証を何度も見返した。実習で使う装備は、ギルドが貸し出す最低限のものと聞いている。武器を選ぶことになるらしい――弓か、それとも短剣か。
戦ったことなど、一度もない。人を傷つける道具を選ぶという行為が、どこか自分には不釣り合いに思えた。それでも、窓の外の暗い空を見上げながら、みっちょは小さく呟いた。
「……ノアを助けたときみたいに。誰かの役に立てるなら」
それが、なりたい自分の、最初の輪郭だった。
まだ何者でもない少女の夜は、静かに更けていった。




