パン屋の娘と翡翠の密林
朝焼けの匂いは、いつも小麦の香りに似ていた。
ミリッサ・ティーナは、まだ暗いうちから起き出して、店の裏口で薪をくべる。パン生地を発酵させる窯の温度は、季節と天候で微妙に変わる。母のリエラはいつも「勘じゃなくて、指で覚えなさい」と言うけれど、みっちょはまだ、指よりも先に勘が動いてしまう質だった。
「みっちょ、また生地触りすぎ」
厨房から聞こえた母の声に、みっちょは慌てて手を止めた。捏ねすぎた生地は、焼き上がりが硬くなる。わかっているのに、つい夢中になって手が止まらなくなる。真面目すぎるのか、不器用なのか——本人にもよくわからない。
「ごめんなさい、母様。今日はちゃんと数えます」
「数を数えるより、生地の呼吸を見なさいな」
母の横顔は、朝の光の中でも変わらず静かだった。エルフらしい涼やかな目元。けれど探索者だった過去を思わせるものは、店のどこにも見当たらない。壁に古い剣が飾ってあるわけでもなく、勲章の一つもない。ただ、たまに、ひどく遠い目をすることがある。それだけだった。
父のトーマスが、焼き上がったパンを木箱に並べながら笑った。
「今日は校外学習だろう。忘れ物はないか」
「大丈夫、ちゃんと確認したもの」
みっちょは胸を張ったが、内心では少しだけ、そわそわしていた。学校の必修科目「迷宮基礎学」の一環として、初めて本物の迷宮に足を踏み入れる日だったからだ。行き先は、都市の外縁にある低難度迷宮――**三番『翡翠の密林』**。植物が意志を持ち、侵入者を惑わすという話は、教科書で何度も読んだ。もちろん、教師の引率のもと、安全なルートだけを歩く「見学」にすぎない。危険なことなど、何もないはずだった。
◆ ◆ ◆
「密林迷宮の植物は、光と音、それに獲物の恐怖心に反応して枝葉を動かす。だから、慌てず、静かに、決められたルートから外れないこと。いいな」
担任のガレン先生は、片足を軽く引きずりながら、生徒たちの前に立った。かつてBランクの探索者だったという噂は、生徒の間でも有名だ。片足を失った経緯を語ったことは一度もないが、その落ち着いた声には、教科書の言葉にはない重みがあった。
密林の入り口をくぐると、空気の匂いが変わった。緑と土と、それから微かに甘い花の香り。頭上を覆う葉は分厚く、光は緑色に濾されて地面に落ちている。みっちょは思わず息を呑んだ。教科書の挿絵とは、まるで違う。生きている、と思った。森全体が、ひとつの大きな生き物のように呼吸している気がした。
「うわ……すご……」
隣で呟いたのは、ノア・グレイだった。獣人特有の耳がぴくぴくと動いている。索敵の才能に恵まれているはずの種族なのに、ノアはいつも自信なさげに肩をすくめている。今日も、みんなより一歩後ろを歩いていた。
一方、列の先頭を歩くフィン・ハーロウは涼しい顔だった。探索者の家系に生まれた彼にとって、この程度の迷宮は庭のようなものらしい。
「見学なんて退屈だな。もっと奥まで行けばいいのに」
フィンが小さくぼやいたのを、みっちょは聞き逃さなかった。けれど、それに答える前に――列の後方で、小さな悲鳴が上がった。
◆ ◆ ◆
「ノアがいない!」
誰かの声で、列が一斉に止まった。ガレン先生の顔色が変わる。
「落ち着け。誰か、最後に姿を見たのは」
「さっき……植物の実を触ろうとして、少し列から離れて……」
みっちょの心臓が跳ねた。ノアが見学ルートから外れて、ほんの少し前に進もうとしていたのを、実は見ていた。獣人の索敵能力を試したかったのだろう。誰かに手柄を見せたかったのかもしれない。いつも自信なさげなノアが、珍しく目を輝かせていたのを覚えている。
「先生、私、さっきノアが……」
みっちょが言いかけたとき、密林の奥から、かすかな葉擦れの音が聞こえた。風はない。なのに、木々がざわざわと揺れている。
「――誘導されている」
ガレン先生が低く呟いた。「密林迷宮の植物は、迷い込んだ者を、特定の方向へ少しずつ誘い込む。声を上げれば上げるほど、深く引き込まれる」
教師たちが浄化の雫や照明用の魔石ランプを確認する間にも、時間は過ぎていく。みっちょは、教科書の一文を思い出していた。「密林の植物は、光の弱い方向、静かな方向へと獲物を導く傾向がある」――そして、パン屋の店先で聞いた、常連の探索者たちの雑談も。
「密林で迷ったらな、風上に逆らって歩けって、昔の連中は言ってた。花の匂いが強くなる方は、大抵、罠がある方角だ」
ただの世間話だと思って、聞き流していた言葉。けれど今、頭の中でその二つが、かちりと音を立てて繋がった気がした。
「先生、風上です。花の匂いが強くなる方向に、ノアはいると思います」
「――何を根拠に」
「教科書の光の誘導と、風向きが……多分、逆に働いています。植物は獲物を、匂いの強い方へ集めているんだと思う。密輸の――ううん、蜜を集める虫と同じ理屈です、たぶん」
自分でも、うまく説明できている自信はなかった。声は震えていたし、天然な思いつきに聞こえたかもしれない。けれどガレン先生は、みっちょの目をまっすぐ見て、一瞬だけ黙り、それから短く頷いた。
「――行くぞ。ミリッサ、先導しろ」
◆ ◆ ◆
甘い花の匂いを頼りに、生徒たちとガレン先生は密林の奥へと進んだ。葉が触れるたび、みっちょの心臓は跳ね上がったが、足は止めなかった。ノアが一人で、怖い思いをしている。それだけを考えていた。
やがて、開けた場所に出た。太い蔓が幾重にも絡み合った小さな空間の中心で、ノアが座り込んでいた。怪我はないようだったが、顔は真っ青で、耳がぴったりと伏せられている。
「ノア!」
みっちょが駆け寄ると、ノアは驚いたように顔を上げ、それから、くしゃりと泣きそうな顔になった。
「……みっちょ。おれ、みんなより先に、何か見つけて……そしたら、気づいたら戻り道が、わからなくなってて」
「もう大丈夫。一緒に戻ろう」
差し出した手を、ノアはしばらく見つめてから、ゆっくりと握った。
ガレン先生が周囲を確認し、安全を告げると、生徒たちの間からどっと安堵の声が漏れた。フィンでさえ、珍しく神妙な顔でノアの無事を確かめていた。
「――ミリッサ」
帰り道、ガレン先生がそっと声をかけてきた。
「さっきの判断は、どこで学んだ」
「え、えっと……教科書と、あと、お店に来るお客さんの雑談、です……」
「雑談、か」
先生は少し笑って、それ以上は何も言わなかった。ただ、その日から、ガレン先生がみっちょを見る目には、これまでとは少し違う色が混じるようになった。
◆ ◆ ◆
その夜、店の窯の前で、みっちょはいつものように火の様子を見ていた。母のリエラが、隣にそっと腰を下ろす。
「今日、迷宮で何かあったんですって?」
「うん……ノアが迷子になって。でも、大丈夫だったよ」
「あなたが、助けたのね」
「たまたま。本当に、たまたまだよ」
みっちょは笑って誤魔化したが、母はしばらく火を見つめたまま、何も言わなかった。その横顔に浮かんでいたのは、心配でも、誇らしさでもない、もっと複雑な、遠い記憶を辿るような表情だった。
「……母様?」
「なんでもないわ。ただ——」
リエラは、娘の頭をそっと撫でた。
「迷宮は、優しい場所じゃないの。忘れないでね」
その声には、教科書のどの一文にもない重みがあった。みっちょはまだ、その意味を知らない。窯の火は、今夜も静かに燃えていた。




