幕間 深淵の嘆き、再び
極秘の調査枠が組まれてから、半月が経っていた。アルドが招集したのは、腕利きだが口の堅い、わずか四人のAランク探索者たちだった。表向きは「深淵の嘆き周辺の生態調査」という、当たり障りのない名目が与えられている。
「――結論から言おう。事態は、思っていたより進んでいる」
調査から戻ったばかりのAランク探索者の一人、寡黙な人族の剣士が、地図の上に印を置きながら報告した。
「幻聴の発生範囲は、確認できただけで、当初の報告よりさらに一回り拡大している。深淵の嘆きの最奥では、以前は聞こえなかったはずの――言葉の断片のようなものまで、拾えるようになっていた」
「言葉、だと?」
アルドの声が、思わず硬くなった。
「単なる幻聴の域を超えている、ということか」
「断定はできない。だが、あの迷宮の性質を考えれば、無視できる兆候じゃない」
◆ ◆ ◆
報告を聞き終えたギムレが、深く息を吐いた。
「封印牢そのものへの立ち入り調査は?」
「まだ手をつけていない。あそこはSランク相当だ。今のメンバーでは、下手に踏み込めば、こちらが呑まれる」
アルドの言葉に、部屋の空気が重くなった。ギムレが、探るような視線を向けてくる。
「――そろそろ、腹を括る時期じゃないか」
「リエラのことか」
「他に、あの封印術式を完全に理解している人間がいるか?」
アルドは答えなかった。答えられなかった、というべきかもしれない。十五年前、リエラに全てを背負わせたまま、自分だけがギルドの裏方に逃げ込んだという負い目が、今もアルドの中で消えずに燻っていた。
「もう少し、時間が欲しい」
「時間は、こちらの都合で流れてくれるとは限らんぞ」
ギムレの言葉は、静かだが、有無を言わせぬ重みを持っていた。
◆ ◆ ◆
会議のあと、アルドは一人、ギルド本部の屋上に上がった。中央区の夜景が、静かに広がっている。遠くに見える居住区の灯りの中に、ティーナ家のパン屋も、きっとあるはずだった。
あの日、リエラは全てを失ったような顔をしていた。それでも、娘を育て、パン屋という新しい居場所を、確かに築き上げていた。その静かな幸福を、再び壊すようなことを、自分がしていいのか――アルドは、何度も自問していた。
『あの子が、もう少し強くなってから』
先日、リエラが漏らした言葉が、アルドの頭に蘇る。あれは、娘に話す時期の話だったはずだ。だが、その「もう少し」が、どれほどの猶予を意味するのか――今の状況を見る限り、その猶予は、思っているより短いのかもしれない。
「――すまない、リエラ」
誰にも届かない謝罪を、アルドは夜風に向かって呟いた。
◆ ◆ ◆
数日後、アルドは再び、あのパン屋の扉を叩いた。閉店間際、店にはリエラ一人だけがいた。
「――また、あなたなのね」
リエラの声には、諦めにも似た静けさがあった。アルドは、フードを外し、まっすぐに彼女を見た。
「悪い知らせだ。深淵の嘆きの幻聴に、言葉の断片が混じり始めている」
リエラの顔から、一瞬にして血の気が引いた。
「……それは、つまり」
「まだ、確定的なことは言えない。だが――お前の力が、いずれ必要になる。その可能性が、日に日に高くなっている」
長い沈黙が、店の中に落ちた。窯の残り火だけが、静かに二人を照らしていた。
「みっちょには、まだ話さないで」
やがて、リエラが絞り出すように言った。
「もう少しだけ、時間をちょうだい。あの子が、自分の足でしっかり立てるようになるまで」
「――それが、いつになる」
「わからない。でも、母親として、それくらいの我儘は、許してほしいの」
アルドは、その言葉に、何も返すことができなかった。ただ、静かに頷き、店を後にした。夜道を歩きながら、彼は、いつか訪れるだろう「その時」が、思っているよりずっと近いことを、はっきりと予感していた。




