幕間 遠い日の誓い
眠れない夜だった。隣では、トーマスが規則正しい寝息を立てている。リエラは音を立てないよう、そっとベッドを抜け出し、窓辺に腰を下ろした。
月明かりが、静かな寝室を淡く照らしている。娘の部屋からは、物音一つ聞こえない。あの子は今、何を思って眠っているのだろう。アルドが訪れて以来、みっちょが自分に向ける視線に、これまでとは違う色が混じっていることに、リエラは気づいていた。
――いつか話す、と約束した。けれど、それがどれほど重い約束か、あの子はまだ知らない。
目を閉じると、十五年前の光景が、昨日のことのように鮮やかに蘇ってきた。
あの日、パーティは五人だった。アルド、リエラ、そして――セラ・ヴァンダイン。他に二人の仲間がいたが、その顔は、もう朧げにしか思い出せない。
『禁断の封印牢』――二十五番迷宮、極難度、Sランク相当。都市の記録が「古代の悪魔が封じられ、脱出不可能」と伝える、その最奥。定期的な封印の補強は、代々、限られた封印術士にのみ許された、秘匿の任務だった。
リエラは、若くしてこの都市でも稀有な封印術の才を持つエルフとして、その役目を任されていた。セラは、パーティの精霊術士。誰よりも明るく、誰よりも危険を恐れない、リエラにとって、姉のような存在だった。
「今日はいつもより、封の綻びが大きいわね」
祭壇の前で、リエラが呟いた言葉に、誰も答えられなかった。長年の補強にもかかわらず、封印は着実に、そして予想より遥かに速く、弱まりつつあった。
◆ ◆ ◆
祭壇の奥、封じられた何かが、目覚めかけていた。姿は見えない。ただ、空間そのものが軋むような、圧倒的な気配だけが、そこにあった。
「このままじゃ、通常の補強じゃ間に合わない」
リエラの声は震えていた。封印術の理論上、完全な破壊は不可能。できるのは、封を「鎮める」ことだけ。だが、それには、生きた依代――魔力と意志を持つ「錨」が必要だった。
「わたしがやるわ」
セラが、あまりにもあっさりと言った。
「精霊術士なら、依代としての適性が一番高い。リエラの封印術と組み合わせれば、一時的な鎮静なら、できるはずでしょう」
「一時的、って――あなたが、犠牲になるということよ」
「犠牲、じゃないわ」
セラは、いつもと変わらない笑顔で、リエラの手を握った。
「わたしはただ、しばらくの間、あそこに留まるだけ。いつか、もっといい方法が見つかるまでの、時間稼ぎ」
「そんな都合のいい話、あるわけ――」
「あるかないかは、これから探せばいい。でも、今は、これしかない。都市を守るために、誰かがやらなきゃいけないなら――わたしがやる。それだけよ」
◆ ◆ ◆
術式は、思っていたよりも静かに完了した。祭壇の中心に、淡い光の膜が張られ、セラの姿が、その奥へとゆっくりと溶けるように消えていく。
「リエラ」
消える直前、セラが最後に呼んだ名前は、恐怖ではなく、むしろ穏やかな響きを持っていた。
「あとは、頼んだわよ。わたしの分まで、ちゃんと生きてね」
「――待って、セラ!」
リエラの叫びは、閉じていく光の膜に、虚しく吸い込まれていった。祭壇は静まり返り、都市を脅かしていた気配は、確かに鎮まった。だが、それと引き換えに、リエラは、大切な仲間の姿を、その手で永遠に封じてしまったのだ。
あの日から、リエラは二度と剣を握らなかった。封印術士としての力も、封じたまま。パン屋という、迷宮とは無縁の生業を選んだのは、逃げだったのかもしれない。それでも、あの温もりのある小麦の匂いの中でしか、自分を保っていられなかった。
◆ ◆ ◆
窓の外、月が雲間に隠れていく。リエラは、静かに目を開けた。
封印が揺らいでいるという知らせは、あの日の約束――「もっといい方法が見つかるまでの、時間稼ぎ」――が、いよいよ限界を迎えつつあることを意味していた。
いつか、あの子に話さなければならない。母が何を背負い、何を置いてきたのか。けれど、それを話すのは、みっちょがもう少し、自分の足で立てるようになってから。そう思うのは、単なる先延ばしではなく、リエラなりの、精一杯の願いだった。
――あの子を、あの子の意志で立てる場所まで、まず送り出したい。そのあとで、この重荷を分け合うかどうかは、あの子自身に選ばせたい。
リエラは、そっと娘の部屋の方角に目を向けた。扉の向こうから、規則正しい寝息が、微かに聞こえてくる気がした。
「――もう少しだけ、待っていて。セラ」
誰にも聞こえない声で、リエラは静かに呟いた。窓の外の月が、再び雲間から顔を出し、静かな寝室を、淡く照らし出していた。




