1-3 小さな願い
今回は、少女が初めて「不思議な薬」を使う場面です。
1-3
少女は、元々裕福な家の娘だった。
温かな部屋があり、使用人もいた。
食事に困ることもない。
母は幼い頃に亡くしたが、義母や義妹と穏やかに暮らしていた。
食卓で三人、笑い合った記憶もある。
だが――父が事業に失敗し、自ら命を絶った。
義母の実家へ移ってから、全てが変わる。
義母は、人が変わったように少女を責め始めた。
言葉の一つ一つに棘がある。
義妹も、それに合わせるように嫌味を口にするようになった。
見下すような目。
冷たい声。
少女は、毎日怯えながら生きるようになった。
何をすれば怒られないのか。
それだけを考えて動く。
だが、それでも怒られる。
理由は分からない。
それが、いつしか日常になっていた。
そうして、十年以上の歳月が過ぎた。
少女は、あの夢を忘れようとした。
あの存在も、袋も。
(何も願いたくない……)
何かを望めば、それを失う。
これまでの経験が、そう教えていた。
だが、捨てようとすると指が止まる。
まるで、自分の一部のように離れない。
少女は結局、物置の奥へ袋を隠した。
古びた木箱の裏。
布で包み、誰にも見つからぬよう押し込む。
(せめて、このまま忘れたい……)
それが精一杯だった。
ある朝。
義母の機嫌は、最悪だった。
朝から空気が張り詰めている。
床を踏む音も、物を置く音も荒い。
「遅い!」
怒鳴り声に、少女の肩が震えた。
(いつもより早く起きていたのに……)
水も汲み終えている。
火も入れていた。
それでも――
「水が少ない!」
「火が弱い!」
「音がうるさい!」
叱責だけが飛んでくる。
「位置が悪い!」
皿を置いた瞬間、手を叩かれた。
乾いた音が響き、指先に痛みが走る。
少女は頭を下げ続ける。
それしかできない。
胸がひりつき、呼吸が浅くなる。
その時だった。
(『願いが分かった時に、飲みなさい……』)
ふいに、あの言葉が浮かぶ。
少女は、気づけば物置へ向かっていた。
薄暗い中、木箱の裏へ手を伸ばす。
布越しに、袋の感触が伝わる。
中では、淡い光が揺れていた。
見ているだけで、心が引き寄せられる。
少女は紐を緩める。
震える指で、一粒だけ取り出した。
淡い光が、静かに明滅している。
わずかな躊躇。
だが少女は、そのまま口へ運んだ。
(……怒られませんように)
願いは、それだけだった。
粒は舌の上ですぐ溶ける。
味はほとんど無い。
その直後、胸の奥がわずかに温かくなった気がした。
(……これだけ?)
少女は、拍子抜けする。
同時に、少し安堵もしていた。
(何も無いのが、一番いい……)
袋を戻し、少女は仕事へ戻った。
しかし――
それから数日、まったく怒られなかった。
少女は、最初気づかなかった。
いつものように水を運び、火を調整し、皿を並べる。
今までは、どこかで必ず声が飛んできた。
怒られる直前までは、同じだった。
義母はいつものように少女を見る。
そのたび少女は身構える。
だが――
「……ッ、……」
義母は何か言いかけ、すぐ黙る。
まるで、怒る理由を忘れてしまったようだった。
(……なぜ?)
何も言われないことが、逆に怖い。
数日経つうち、その不安も少しずつ薄れていく。
少女は、ふと立ち止まった。
自分を取り巻く空気が、妙に澄んでいる気がした。
胸の奥の痛みが、薄れている。
身体を締めつけていた圧迫感も、前ほどではない。
自分の手を見る。
まだ少し震えている。
(――夢じゃ……ない)
そう思った瞬間、胸の奥で何かが弾けた。
その夜。
少女は再び、物置で袋を手にしていた。
だが、すぐには飲まない。
袋を握ったまま、じっと動けずにいる。
(もし、二粒飲んだら……)
怒られない。
それだけで、呼吸が楽だった。
胸の痛みも薄れ、身体も軽い。
そんな当たり前のことが、信じられないほど嬉しかった。
少女は、ためらいながら二粒取り出す。
指先は、まだ震えていた。
(ご飯が、少しでも増えますように……)
そう願い、粒を飲み込む。
翌朝。
少女の食事は、変わっていた。
いつもは残り物ばかりだった。
固いパン。
切れ端の野菜や肉。
冷めたスープ。
何も無い日すらある。
見かねた使用人が、あとで分けてくれることもあった。
だが、その日の皿には、柔らかなパンが置かれていた。
肉も野菜も、普通に並んでいる。
湯気の立つ温かなスープまであった。
義母や義妹と、変わらない食事。
少女は、思わず手を止める。
(誰かの物と間違えたのかも……)
だが、誰も何も言わない。
義母も義妹も、使用人たちも。
まるで、それが当たり前であるかのように。
少女は恐る恐る口へ運ぶ。
(温かい……)
それだけで、胸が満たされた。
それから数日。
少女は、食事のたびに幸福を感じていた。
しかし――
やがて、少しずつ元へ戻り始める。
パンは固くなり、量も減り、食事も冷えていく。
それでも、一粒の時より長く続いていた。
(間違いない……)
(あの粒は――願いを叶える薬だ……!)
少女は、自分の手を見る。
小さな荒れた手が、震えている。
だが――恐怖ではない。
かけがえのない宝を見つけたような感覚。
身体の奥から、熱が込み上げる。
少女の心へ、少しずつ光が差し込んでいく。
それは、初めて知る感覚だった。
次回【1-4 冬祭り】は、本日19時に公開予定です。




