第42話:揺らぐ予知夢と、国境に落ちていたモノ
バウムガルト領、国境付近の深い森。
木漏れ日が差し込む穏やかな景色の中、辺境伯であるカシアンは愛馬に跨り、鋭い視線を隣国の方角へ向けていた。
「……隣国の防護の術式が、弾け飛んだか」
大気を震わせる微かな魔力の乱れ。
カシアンは、最愛の妻リゼットの平穏を脅かす隣国の動向を常に警戒し、定期的に自ら少数の護衛を連れて国境の視察に出ていた。
「旦那様! あそこの茂みに、誰か倒れています!」
先行していた護衛の騎士が声を上げる。
カシアンは馬を降り、警戒しながら茂みへと近づいた。
「……子供、だと?」
倒れていたのは、プラチナブロンドの髪に泥をつけた小柄な少女だった。
華奢な体には到底似合わない、金糸の刺繍が施された重厚な法衣。
そして、限界まで魔力を搾り取られた者に特有の、痛ましいほどの顔の青白さと、目の下に深く刻まれた濃い隈。
その法衣の意匠を見た瞬間、カシアンの眼光が鋭く研ぎ澄まされた。
「隣国の、聖女……」
カシアンの脳裏に、『予知夢』の記憶がフラッシュバックする。
リゼットが教会の権力争いや他国の陰謀に巻き込まれ、無残にも処刑される最悪の未来。
その悪夢の中で、リゼットを「異端」として糾弾していた者のひとりが、『隣国の聖女』だったはずだ。
カシアンの手が、無意識に腰の剣の柄に伸びる。
リゼットの安眠を脅かす芽は、ここで摘み取っておくべきではないか。
(……いや、奇妙だな)
殺気を放ちかけたカシアンは、ふと微かな違和感を覚えた。
かつては鮮明だったはずの処刑台の光景が、最近、少しずつ輪郭を曖昧にしているのだ。
断罪の声を上げていた者たちの顔に靄がかかり、まるで『別の結末』を探るように、夢の光景自体がノイズを起こして揺らいでいる。
……不確定な未来への変化。
しかし、妻の命を不確かな希望に賭けるわけにはいかない。
カシアンが剣を半分ほど引き抜いた、その時だった。
(……待て。ここで隣国の重要人物を斬り捨てれば、最悪の場合、戦争になる。そうでなくとも国境は封鎖され、領地は厳戒態勢を敷くことになるな)
カシアンの優秀な頭脳が、その先にある『真の絶望』を弾き出した。
領地が騒がしくなれば、当然、領主の妻であるリゼットの耳にも入る。
面倒な外交問題や避難対応に巻き込まれれば――あの幸せそうな『寝顔』が消滅してしまう!
「っ……! だめだ。それだけは絶対に避けねばならない」
カシアンは青ざめ、慌てて剣を鞘に収めた。
リゼットの安らかな寝顔を失うことこそが、彼にとっての本当の『世界の終わり』である。
波風を立てず、こっそりと保護し、監視下に置いて無害化(飼い殺し)するのが、彼女の平穏を守るための最も合理的な選択だ。
「……こいつを領館へ運ぶ。客室の一つを監視部屋として使え」
カシアンは護衛の騎士に指示を出した。
「だが、極力リゼットの視界には入れるな。……これほどボロボロに酷使された姿を見れば、慈悲深いリゼットが気にするだろうからな」
「は、はいっ!」
かくして、過労で倒れた隣国の「聖女」は、最も警戒すべき男の『妻の昼寝第一主義』という判断によって、図らずも最高のホワイト環境(バウムガルト領館)へと運び込まれることとなったのである。




