第40話:初夏の絶対定刻と、国境で震える隣国の聖女
季節は巡り、バウムガルト領にも初夏の風が吹き始めていた。
私室の風通しの良い窓辺で、リゼットはよく冷えた果実の蜜煮を口に運び、うっとりと目を細めていた。
足元には、周囲の熱を吸い取るように体温を調整した黒嶺竜のノア、腕の中には夏毛に生え変わって極上の手触りとなった白銀のフェンリル・シロが陣取っている。
「……奥様。本日の領地運営におけるすべての事務手続き、および魔力循環の調整が完了いたしました。現在時刻、十七時ちょうど。これより我々は『絶対休息』の時間へと移行いたします」
執務室から顔を出したジュリアンが、銀縁の眼鏡をスッと押し上げながら報告した。
狂信的な不眠不休労働により、ついに視力を落とした王都の神童。だが、今の彼は無駄に夜更かしをすることはない。
(……ええ、それでいいの。前世の私のように、限界を超えて壊れるまで働くなんて絶対に間違っているわ。私の視界に入る場所で、血を吐くような無茶な働き方なんて絶対にさせない。私の安眠の妨げになるもの)
春の終わり。
限界を超えて働き続ける自称・守護者たちに耐えかねたリゼットは、「定刻(十七時)以降の業務」と「休日出勤」を、強固な不可視の魔術契約によって完全に禁止した。
結果、ジュリアンをはじめとする面々は「奥様から賜った慈悲深い休息を汚すことなかれ」と、いかに定刻内に完璧な成果を出すかという、執念にも似た時間管理能力を開花させていた。
「ええ、ご苦労さま、ジュリアン。しっかり休んでちょうだい」
「はっ! 奥様の御心に従い、命に代えても全力で休息をとらせていただきます!」
一礼して去っていくジュリアンを見送り、リゼットは小さく欠伸を一つこぼす。
(……うんうん。皆が健康的に休んでくれると、私の寝覚めも良くて最高ね)
平和な初夏の午後。
リゼットは冷たい果実の甘みを口いっぱいに広げながら、二体の神獣と共に安らかな微睡みへと落ちていった。
***
同時刻。
バウムガルト領と国境を接する、隣国の辺境砦。
初夏だというのに、どんよりとした重い雲が垂れ込めるその場所で、一人の少女が荒い息を吐いていた。
「……はぁっ、くっ……!」
アリア、十六歳。
プラチナブロンドの美しい髪とエメラルドの瞳を持つ彼女は、その華奢な体には到底見合わない、金糸の刺繍が施された重厚な法衣を着せられていた。
湿気と暑さの中、彼女の真っ青な顔には滝のような汗が浮かび、目の下にはくっきりと濃い隈が刻まれている。
「何をしているのですアリア! 『神の使い』たる聖女の祈りが足りないから、障壁が揺らぐのですよ!」
安全な砦の後方から、丸々と太った教会上層部の司祭が怒鳴り声を上げる。
アリアはギュッと唇を噛み締め、持っていた杖にさらに魔力を流し込んだ。
(……私は、神の使いなんかじゃない。ただ、少しだけ魔力が多いだけの平民なのに……)
奇跡など起こせない。
ただ、己の魔力――すなわち生命力そのものを削り、防護の術を維持し続けているだけだ。
アリアはここ数日、意識を落とすことすら許されていなかった。
「報告! 国境の森より、魔物の群れが接近! 普段の倍近い数……ざっと数十体は確認できます!」
「ヒィッ!? なぜこの時期にこれほど……! 聖女よ、早く防壁を補強しなさい! 私の命を守るのがお前の役目だろうが!」
喚き散らす司祭を背に、アリアは震える足で一歩前に出た。
私がやらなければ、この砦の兵士たちも死んでしまう。
過労と重圧に押し潰されそうになりながら、アリアは森から這い出てくる魔物たちを見据えた。
だが、その瞳が、ふと奇妙な違和感に気づいて見開かれる。
(……おかしいわ。あの魔物たち……こちらを威嚇していない。牙も剥き出しにしていないし、戦意すら感じない)
ただ、ただ――必死なのだ。
アリアは、防壁に激突してくる魔物たちの瞳に宿る感情を正確に読み取った。
それは獲物を狙う捕食者の目ではない。自分よりも遥かに恐ろしい存在から、命からがら逃げ惑う『被食者』の目だ。
(……この圧……森の奥から“満ちてくる”……? 魔物たちが、逃げている? バウムガルト領の方角から、こちら側へ向かって、押し出されてきているだけ……?)
アリアの背筋に、冷たい汗が伝った。
凶暴な魔物たちをパニックに陥らせ、住処を捨てさせてまで追い立てるほどの「何か」が、あの国境の向こうにいる。
(あのバウムガルト領で……一体、どんな恐ろしい怪物が目覚めたというの……!?)
部屋に集まった二体の神獣が放つ、無意識の威圧。
そしてリゼットが最適化した魔力炉により強化された結界の余波。
それが森の生態系をわずかに押し出し、隣国に未曾有の緊張をもたらしていることなど、知る由もない。
「……私が、止めなければ……っ。この命に代えても……ッ」
ハリボテの聖女は、国境の向こうにいるであろう「恐るべき災厄(※現在、果実の余韻に包まれて爆睡中)」に震えながら、悲壮な決意と共に杖を構えたのだった。




