第39話:ノア視点
静寂に包まれたバウムガルト領主の館、その主寝室。
極上の柔らかさを誇る天蓋付きベッドの上で、黒嶺竜・ノアは、ただ一人、主の帰還を待っていた。
トスン、と。
ふいに、大気の底が抜けるような奇妙な感覚がノアの鱗を撫でた。
(……空気が、歪んだ)
ノアは竜種特有の縦長の瞳をうっすらと開く。
城の遥か外、広場の方角から、見覚えのある――いや、ノアの魂そのものに刻み込まれた、絶対的な魔力の波動を感じ取ったのだ。
(主の魔力……。だが、いつもの静かな波長ではない。何かに干渉し、理そのものを『創り変えて』いる波動だ)
ノアはベッドに顎を乗せたまま、遠隔でその事象を読み解いていく。
致死性の毒草。
消えゆく命。
そして……神話に名を残す頂点捕食者、フェンリルの幼体の核。
主であるリゼットの黄金の魔力が、その消えゆく核を強引に縛り上げ、猛毒を無害な光へと還元していくのが手に取るように分かった。
そして、ノアは理解した。
主が、また何かを「拾った」のだと。
(……哀れな獣よ。己が何を失ったのか、理解することすら許されぬか)
ノアは、同情とも呆れともつかない、長いため息を鼻から漏らした。
フェンリル。
極寒の地を支配し、その牙で万物を引き裂く誇り高き白銀の魔獣。
だが、ノアには見えていた。
その神獣の核に、たった今、主の絶対的な従魔契約――『専属抱き枕・雇用誓約』が刻み込まれたことを。
(お前はもう、己の意思で牙を剥くことすら許されない。ただ、主の安眠のために『最高の触り心地』を提供するだけの存在へと書き換えられたのだ……)
かつて、屋敷を焼き払おうとして物理的に叩き落とされ、「門番」としての生を与えられた己の姿が重なる。
それが、主の傍に在ることを許された証でもあった。
とはいえ、ノアの中でフェンリルの幼体に対する評価は明確だった。
(所詮は下位の個体。しかも、右も左も分からぬ幼体だ。この聖域における主の第一の従者は、この我であることに揺るぎはない)
そう、ノアは自らの優位性を確認し、目を閉じようとした。
だが――一瞬、ノアの思考が揺れる。
(……いや。待て)
あの幼体は、主が自らの手で直接魔力を注ぎ込み、毛並みの質感まで分子レベルで再構築した存在だ。
いわば、主の『こだわり』が詰まった特別枠。
……ほんの一瞬だけ、ノアの尾がわずかに揺れた。
(主の腕の中に収まるのは、第一の従者である我であるべきではないのか……?)
ノアの胸の奥底で、黒嶺竜としての矜持とは別の、どす黒く熱い感情――『嫉妬』と『独占欲』が鎌をもたげる。
だが、ノアは即座にその感情を理性で押さえ込んだ。
(愚かな。主の選択は絶対であり、主の意志こそがこの世界の理だ。我がそれに異を唱えるなど、万に一つも許されない)
ノアは己を戒める。
主がその獣を望んだのなら、ノアが成すべきことはただ一つ。
主の聖域を守り、主の所有物となったその幼体ごと、すべてを外敵から守り抜くことだけだ。
(……また、守るべきものが増えたか)
ノアは遠い目をしながら、小さく喉を鳴らした。
ガチャリ、と。 その時、主寝室の扉が開いた。
「ノア、ただいま……。新しい抱き枕よ。絶対に喧嘩しないでね」
疲労の限界を迎えたリゼットが、腕の中に白銀の毛玉――シロを抱えてベッドへ倒れ込んできた。
シロはノアを見ると、ビクッと身をすくませたが、すぐに主の腕の中という「絶対安全圏」であることを悟り、『黒くてかっこいいお兄ちゃん!』と無邪気な念話を飛ばしてきた。
(……ふん。調子の良い小僧だ)
ノアは内心で鼻を鳴らした。
リゼットはシロをしっかりと胸に抱きかかえたまま、スゥ、スゥ、と数秒で安らかな寝息を立て始める。
その足元には、いつものようにノアが丸まり、絶妙な温度の「極上の湯たんぽ」として控えていた。
……しばらくして。
主が完全に深い眠りに落ちたことを確認すると、ノアはゆっくりと顔を上げた。
主の腕の中で、幸せそうに丸まる白い毛玉。
ノアは音もなく立ち上がると、その長くしなやかな漆黒の体を、ベッドの縁に沿ってスルスルと這わせた。
そして、リゼットの背中側からぐるりと大きく半円を描くように回り込み、長い首と尻尾を使って、シロを抱くリゼットの体を外側から「すっぽり」と包み込んだのだ。
外敵から守るため――そして、それ以上に、主を他の何者にも明け渡さぬために。
内側に抱き枕。
外側に絶対の防壁。
ノアは、主と新入りをまとめて自分の腕(体)の中に収めることで、己の密かな独占欲を完璧に満たした。
シロが『お兄ちゃん、あったかい!』とすり寄ってくるのを、ノアは満更でもない様子で受け入れ、ゆっくりと目を閉じる。
扉の外では、主の休息を巡って人間のオスたちが何やら愚かな口論を繰り広げているようだが、そんなものはノアの知ったことではない。
この場所は、主が眠る限り、何者にも侵されぬ。
――ここは、我が守る聖域だ。




