第38話:神獣の契約と、身分を越えたマウント合戦
「リゼット、危ない! そいつから離れるんだ!」
白銀の幼体を抱きかかえるリゼットに対し、悲鳴のようなカシアンの声が飛んだ。
彼と騎士団長アルフレッドは、その小さな獣から放たれる恐るべき捕食者の気配に気づき、今にも剣を抜きそうなほどに殺気をみなぎらせている。
「……伝説の魔獣フェンリル。いくら幼体とはいえ、不用意に近づけば一瞬で喉笛を食いちぎられますぞ!」
アルフレッドの警告に、周囲の騎士たちにもビリビリとした緊張が走る。
だが、その騒ぎの中心にいるリゼットは、心底うんざりしたような顔で深い溜息を吐いた。
(……うるさいわね。せっかくタルトが手に入ったのに、ここで『伝説の魔獣騒動』なんて起こされたら、騎士団の事情聴取やら何やらで絶対に私のティータイムが削られるじゃない!)
これ以上のタイムロスは、彼女の忍耐の限界だった。
リゼットは抱きかかえたシロの額にそっと指先を当てた。
(この子の魔力、無駄にダダ漏れで鬱陶しいわね。……よし、あの時と同じ『誓約』の理で縛りましょう)
リゼットは淡々と、不可視の契約条項を読み上げた。
「【専属抱き枕・雇用誓約】」
「一、騒音の制限:主の安眠を妨げる無駄吠え、および威嚇の禁止」 「一、品質保持:常に最高の毛並みと温もりを主に提供すること」
リゼットの冷徹な声が響くたびに、シロの首に黄金の光の輪が刻まれていく。
「罰則:違反した場合は、魔力供給の停止……。同意するかしら?」
『きゅんっ!(はいっ!)』
光の輪が弾け、契約が完了した瞬間、頭の中に幼く甘えるような念話が響いた。
『ご主人様、あったかい……! お腹いっぱい……眠い……』
(よし。ただの食いしん坊の甘えん坊ね。絶対に大人しくしているのよ)
主従の契約が完全に結ばれたことで、シロからダダ漏れになっていた圧倒的な魔獣の威圧感は、主であるリゼットの管理下に置かれ、綺麗に霧散した。
目の前にいるのは、ただの最高に毛並みが良くて愛らしい、白くてふわふわの小動物でしかない。
「カシアン様。何を仰っているのですか? 完全に無害な、ただの可愛いポメラニアン(犬)ですわ」
「……いいですね?」
有無を言わさぬ事後報告と、静かなる脅迫。
そしてリゼットは、彼らの返答すら待たなかった。
「それじゃ、私はこれで」
くるり、と。
見事なまでに未練なく背を向ける。
後ろで男たちがどんな顔をしていようが、彼女には微塵も興味がない。彼女の意識はすでに「いかにタルトを美味しく食べて寝るか」に全振りされていた。
「……あっ、おいリゼット!」
「お疲れ様でした。おやすみなさい」
リゼットはノアとシロを従え、侍女のジャネットと共にさっさと城の中へ消えていった。
広場に残されたのは、完全に置いてけぼりを食らった男たちである。
だが、彼らの「重すぎる解釈」は、リゼット不在の空間で勝手に加速していく。
「……そうか。この場にいる領民たちがパニックを起こさぬよう、リゼットは瞬く間にあの神獣を契約でねじ伏せ、『ただの犬』として振る舞うよう我々に命じたのだな……!」
カシアンが冷や汗を拭いながら、戦慄と尊敬の入り混じった声を震わせる。
「ああ……なんと深き慈悲と圧倒的な御力。……本当だ、実に可愛らしい『ワンちゃん』ですな!」
アルフレッドも必死に話を合わせた。
すると、その後ろからライネルがずいっと歩み出た。
「おお……あの犬にまで慈愛を……! リゼット様が望まれるのなら、このライネル、散歩からブラッシングまで、王都から特注のブラシを取り寄せて完璧にこなしてみせましょう!」
「甘いな、ライネル」 鼻で笑ったのは、ジュリアンだった。
彼の手には、先ほどへし折ったペンの代わりに、新しい万年筆が握られている。
その瞳には、もはや論理的な神童の面影はなく、ただ一つの至高の存在に仕えるという異様な熱狂だけが宿っていた。
「伝説の竜に続き、今度はフェンリル。これほど強大な魔獣を二体も同時に使役されるとなれば、その魔力負担と周辺環境への影響計算は尋常ではない。お前が呑気に犬の散歩などしている間に、俺がバウムガルト家の全予算と魔力炉の出力を完璧に再計算し、奥様の御手を一切煩わせない体制を構築してやる!」
侯爵の嫡男からの強烈なマウント。
しかし、奥様への忠誠心に燃えるライネルも、決して引き下がりはしなかった。
「ジュリアン様! 恐れながら申し上げます! 物理的な安らぎを提供し、奥様の心の平穏を身近でお守りするのは、我ら騎士の務めにございます! 書類仕事などよりも、私のブラッシングこそが奥様の癒やしとなるはず!」
「ふん、身の程を知れ。お前のような筋肉騎士の雑事など、俺の論理と計算で生み出す絶対的な休息環境の前では無力だ! 今夜は徹夜で領地の計算書類をすべて仕上げてやる!」
広場の片隅で、王都のエリート嫡男と、それに仕えるはずの侯爵家のエリート騎士が、身分も忘れて「いかに奥様に尽くすか(激務を奪い合うか)」で醜くも熱いマウント合戦を繰り広げ始めた。
***
一時間後。リゼットの部屋。
「……はぁぁ〜……最高。やっぱりこれがないと、春って感じがしないわ」
届いた『春の木の実のタルト』の最後の一口を堪能し、リゼットはうっとりと息を吐いた。
足元には、絶妙な温度でぽかぽかと温めてくれる黒嶺竜のノア。
そして腕の中には、最高級のシルクよりも滑らかな白銀のフェンリルのシロ。
極上のモフモフたちに挟まれ、リゼットは至福の二度寝へと落ちていく。
空になったティーカップを片付けながら、ジャネットは静かに報告した。
「奥様。広場に残った方たちは、現在『犬の世話』と『書類仕事』のどちらがより奥様の役に立つかで争っております」
「……ふふっ、そう。勝手に働いてくれるなら、助かるわね。おやすみ……」
誰も真実に気づかないまま。
辺境の春は、最高にカオスで平和な日々へと続いていくのだった。




