第37話:視界の隅の毛玉と、どうにもならないお人好し
狂乱のフェス会場と化した広場に、一台の荷馬車が猛スピードで滑り込んできた。
バウムガルト家御用達のお菓子屋の屋号を掲げた馬車から、店主が飛び出してくる。
彼もまた道中でスープのおこぼれを飲んだらしく、異常なテンションでタルトの箱を掲げていた。
「奥様ァ! お待たせいたしました! 昨夜から寝込んでおりましたが、先ほど配られたスープを一口いただいた途端、今は王都まで往復できそうな活力がみなぎっております! 春の木の実のタルト、お届けにあがりましたッ!!」
「……ええ、ありがとう。とても、助かるわ……」
半ば白目を剥いていたリゼットの薄紫の瞳に、パァッと光が戻る。
箱を受け取った瞬間、彼女の今日のミッションはすべて完了した。
あとは自室のふかふかのベッドへ直行し、ノアを抱いてタルトを食べ、至福の二度寝へと落ちるだけだ。
「さあ、カシアン様。帰りましょう。私の体力の限界が、もう三周くらい回っています」
「ああ、よく頑張ったなリゼット! すぐにベッドへ――」
リゼットは大切に箱を抱え、城へと歩き出そうとした。
だが、その矢先。
広場の隅に放置された、壊れた古い荷車の影。
そこから、今にも途切れそうな「微弱な命の気配」が、リゼットの鋭敏な魔力感知に引っかかった。
(……え? なに、あの消えそうな気配)
リゼットは視線だけを動かし、荷車の車輪のそばを見た。
泥にまみれた、小汚い「白い毛玉」のようなものが転がっている。
内側で乱れる魔力の波長からして、致死性の猛毒草を誤食してしまったらしい。
放っておけば、数分のうちに命の灯火は消えるだろう。
(…………)
リゼットは無言で前を向き、城へ向かって一歩、足を踏み出した。
(見なかった。私は何も見ていない。限界を超えた足でわざわざあそこまで歩いたら、明日は絶対に酷い筋肉痛になるわ)
二歩。
カシアンに促されながら、さらに進む。
(そうよ、今世こそ私は自分ファーストで生きるんだから。あんなの、知ったことじゃ――)
三歩目で、ピタリと足が止まった。
リゼットは深い、深い溜息を吐いた。
ゆっくりと振り返り、荷車の影と、城の入り口を交互に見つめる。
(……だめだわ。あんなの見殺しにしてベッドに入っても、絶対に夢見が悪くなる。良質な睡眠の妨げになるわ……!)
リゼットは、必死に「自分の安眠のため」と利己的な言い訳を心の中で並べ立てながら、生まれたての小鹿のように震える膝を叩き、Uターンして荷車の方へ歩き出した。
「リゼット!? ば、馬鹿な、もう君の体は限界のはずだ! それ以上歩けば、本当に倒れてしまうぞ!」
カシアンが慌てて彼女を制止しようとする。
だが、リゼットは青ざめた顔で首を横に振った。
「止めても無駄ですわ。あそこに、まだ救うべきものが……。あれを放っておけば、私は安らかに眠ることすらできないのです……っ」
リゼットとしては「気になって寝覚めが悪くなる」というありのままの事実を述べただけだった。
だが、カシアンは息を呑み、目を見開いてその場に立ち尽くした。
「……っ! 己の命が尽きかけているというのに、『目の前の命を救えなければ、良心の呵責で安らかに眠ることすらできない』と……君は、そういうのだな……!」
カシアンの胸に、重すぎる感動が突き刺さる。
その後ろでは、ライネルが己の無力さにギリッと強く唇を噛み締め、ジュリアンに至っては異常な速度で手帳に何事かを猛烈な勢いで書き殴っていた。
彼らの重すぎる視線を背中で受け流し、リゼットは荷車のそばにしゃがみ込んだ。
泥だらけの毛玉を、そっと抱き上げる。
あまりの軽さと、微かな体温を求めてすり寄ってくる痛々しい姿に、リゼットの胸の奥がチクリと痛んだ。
「……本当にお馬鹿さんね。私のタルトの時間を邪魔した罰として、今日から徹底的に私の抱き枕として働いてもらうんだから」
悪態をつきながらも、リゼットの手つきはひどく優しかった。
彼女は手元に残っていた最後の一滴のスープを幼体の口に流し込み、同時に解毒の術式を直接その体に編み込んでいく。
猛毒の成分が瞬時に中和され、乱れていた理が正常な状態へと再構築される。
(……よし。あとはついでに、私が抱きしめて寝る時に最高に気持ちいいように、毛並みの質感を『最上級のふわふわ』に書き換えておくわ)
リゼットが己の欲望(もふもふへの執着)のままに魔力を流し込むと、抱きしめていた毛玉の体が、まばゆい光に包まれた。
泥だらけだったはずの体は瞬く間に白銀の輝きを取り戻し、冬の雪よりも白く、雲よりも柔らかい、最高品質の毛並みを持つ美しい獣へと変貌を遂げたのである。
「きゅーん!」
目を覚ました幼体は、薄紫の瞳をパチリと開くと、嬉しそうにリゼットの胸元に顔をすり寄せた。
「……ふふっ。実家で飼ってた犬にそっくりね。よし、あなたの名前は今日から『シロ』よ」
一方、その光景を背後で見守っていた広場の人々は、水を打ったように静まり返っていた。
死にかけの小汚い獣を、一瞬で神々しき『白銀の聖獣』へと変えてしまう奇跡。
背後でジュリアンのペンが、バキッ! と音を立てて折れた。
「……解毒と同時に、獣の生体構造そのものに干渉し、毛並みの質感まで分子レベルで再構築したというのか……。ああ……なんという無駄のない、完璧な御業だ……ッ」
完全に常軌を逸した狂信者の目を丸くするジュリアンの横で、騎士団長アルフレッドとカシアンの二人は、その美しさとは別の、恐るべき真実に気づき顔を蒼白にさせていた。
「……だ、団長。あの四肢の紋様と、幼体とはいえ隠しきれぬ強大な魔力……」
「ええ……。おとぎ話に語られる、伝説の魔獣フェンリルで間違いありません……!」
神話の竜に続き、今度は伝説の捕食者。
緊張に包まれる男たちを前に、リゼットは限界の足でゆっくりと立ち上がった。
いよいよ、彼女にとっての最大の試練(タルトを食べて寝るための誤魔化し)が始まろうとしていた。




