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『魔力炉の最適化? いいえ、二度寝の環境整備です。~怠惰な生活を送りたいだけなのに、なぜか国中のエリートが私を「聖女」と崇め始めました~』  作者: こもり詩


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第36話:春風の狂乱と、崩壊する神童の矜持

 

 

 バウムガルト領の広場は、少し冷たい春の風と、あり得ないほど芳醇なスープの香りに包まれていた。  

 石畳の上に設けられた配給所では、騎士たちが手際よく領民たちへ「黄金のスープ」を配っている。


「おお……」


「息が、苦しくない……」


 一口飲んだ領民たちの、肺を焼くような熱は瞬時に引いた。

 青ざめていた顔に赤みが差し、咳の音がピタリと止まる。


 広場の端からそれを見守っていたジュリアンは、一つ息を吐いた。


(……やはりな。見事な治癒効果だが、所詮は『効きの良い薬湯』の域を出ない。領地全域の病を治療するなどという、ことわりを超えた現象は起きていな――)


  …………。


 パリンッ!


 一人の農夫が、持っていた空の器を取り落とした。


「……おお?」


 農夫は自分の両手を見つめた。


 ピクリ、と指先が震える。


 カッ! と両目を見開いた。


 彼の全身から、春の陽だまり……いや、真夏の太陽のような過剰な活力が、文字通り爆発的に吹き上がり始めたのだ。


「なんだこの力は!? 体の底から、何かをしなければならないという猛烈な衝動が湧き上がってくるぞ! うおおおおお! 今すぐ隣の村まで走って、休耕地を全部耕してきます!!」


「な、なんだあいつ!?」


「俺も…体が…!」


「私もだ! 昨日の夜から寝込んでいたはずなのに、今なら素手で城壁を磨き上げられる気がする! 行くぞお前ら!!」


 農夫がくわを片手に広場を猛ダッシュで飛び出し、商人たちが空の荷車を引いて尋常ではない速度で走り始める。  

 さらには、スープの残りを飲んだ見回りの騎士までもが、目を血走らせていた。


「私としたことが、こんな所で立ち止まっている場合ではない! すぐに城の周囲を二十周走り、すべての石畳の隙間を指で清掃してまいります!!」


「おお! 私も行こう!!」


 瞬く間に、広場は「意味不明な善行と異常なモチベーション」に突き動かされる人々の、恐怖の狂乱フェス会場と化した。  

 本来の目的である「病の治癒」を遥かに通り越し、リゼットが付与した『過剰な体力回復バフ』が、領民たちのエネルギーを完全に暴走させていたのである。


(……うるさい。なによこれ……なんでみんな走ってるのよ……私のせい?)


 大騒ぎの広場の端。  

 用意された椅子に座るリゼットは、両手で耳を塞ぎ、完全に白目を剥きかけていた。  

 絶望的な運動不足の彼女にとって、外の空気を吸い、騒音の中で座り続けている今の状況は拷問でしかない。


「おお……見ろ、リゼット」


 そんな限界寸前の妻の姿を見て、カシアンが夫としての誇りと独占欲に満ちた熱い吐息を漏らした。


「皆が君の慈愛に触れ、喜びに震え、命の輝きを爆発させている。己の限界を超えてまで、我が領地にこれほどの奇跡をもたらしてくれた君を……私は夫として、心から誇りに思うぞ」


 感極まるカシアン。

 その後ろでは、ライネルが天を仰いで祈りを捧げている。  

 その時だった。  

 背後に控えていた侍女のジャネットが、無表情のまま、氷のように冷たい声で現実を突きつけた。


「旦那様。……恐れながら、奥様はただ騒音に疲れて帰りたいだけかと存じます」


 ピタリ、と。カシアンとライネルの動きが止まった。  

 二人はゆっくりと振り返り、信じられないものを見るような目でジャネットを睨みつける。


「……馬鹿なことを言うな。奥様のこの気高き自己犠牲の姿を見て、本気でそんな俗物的なことを言っているのか!?」


「妻の崇高な御心を愚弄するならば、たとえ長年仕えた侍女であろうと容赦はしないぞ!」


 怒気を孕んだ二人の男からの圧。  

 しかしジャネットは、微塵も表情を崩すことなく、スッと綺麗に四十五度のお辞儀をした。


「……左様ですか。私の目が曇っておりました。大変失礼いたしました」


(本当に、勝手に神輿を担ぎ上げるのがお好きな方々ですね)  


 ジャネットは秒で現実を引っ込め、静かに一歩下がる。


 そして――このカオスな空間において、誰よりも深く、致命的な絶望に叩き落とされている男が一人いた。  

 王都の神童、ジュリアンである。


(……ありえない。魔力薬による一時的な興奮状態? いや、違う。術式の規模と質がおかしい)


 ジュリアンは、猛ダッシュで広場を何周も走り続けている騎士たちを見つめた。  

 人間の限界を超えた無尽蔵のスタミナ。

 治癒の枠を超えた、生命力そのものの改変。


(……あの時、厨房で彼女が鍋に定着させた術式は、王都の最高魔導師が一生をかけても到達できないほどの密度だった。そして今、この広場で起きているのは、もはや『魔術』などというちっぽけなものではない。……生命の理を直接書き換える、神の御業だ)


 ジュリアンは、白目を剥いてぐったりと椅子に座るリゼットを見つめた。

 周囲の狂乱など一切意に介さず、ただ虚空を見つめるその姿。  

 それはジュリアンにとって、下界の騒ぎなど一瞥もせず、ただ静かに世界の理を回し続ける『至高の創造主』の姿そのものであった。


「……俺は……今まで、神の箱庭で砂遊びをして喜んでいたのか……」


 ボソリとこぼれ落ちたその呟きとともに、王都の神童としての彼の矜持は、音を立てて完全に崩壊した。  

 今までの自分の論理、計算、魔導の探求。そのすべてが、彼女の足元にも及ばないゴミ屑のように思えた。


「……ライネル。お前は、リゼット様の安全を何よりも優先させろ」


 ジュリアンは、虚ろだった瞳に異様な熱を宿し、静かに立ち上がった。


「はっ? ジュリアン様、突然何を……」


「この領地の計算や実務で、あの御方の崇高な思考をこれ以上わずかでも煩わせることは、この俺が許さん……! 睡眠など不要だ。あの御方の前で、非効率は許されない……!」


 ここに、王都の未来を背負うはずだった神童は死んだ。  

 辺境の地で、一人の「限界ブラック秘書(狂信者)」が産声を上げた瞬間であった。

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