第35話:理解を拒む黄金のスープと、コンロ代わりの神獣
リゼットたちが厨房へ辿り着いた頃には、城の厨房は、熱気と怒号に包まれていた。
流行り病のせいで欠員だらけの中、料理長ハンスをはじめとする数少ない料理人たちが、領民へ配るための巨大な鍋を必死にかき混ぜている。
「ふぅ……」
厨房の入り口。
急遽用意された粗末な丸椅子に、リゼットは吸い込まれるように崩れ落ちた。
肩が小さく上下している。自室からここまで歩いただけで、彼女の体力ゲージはすでに黄色信号だ。
コトン、と。
黒嶺竜のノアが降り立った。
漆黒の竜は、そのまま当然のように巨大な竈の下へと潜り込む。
そして、コックに火加減を指示される前に、小さく「ふぅっ」と息を吐いた。
絶妙な温度に制御された黒い炎が、鍋の底を均一に包み込む。
最後尾から厨房に入ってきたジュリアンは、その光景を見てピクリと頬を引きつらせた。
(……伝説の黒嶺竜を、コンロの種火代わりに使っているだと……っ!?)
だが、彼の驚愕はそこで終わらなかった。
丸椅子に浅く腰掛けたリゼットが、けだるげに両手を上げ、指先で空中を弾きだした。
詠唱はない。
杖も、魔法陣もない。
ただ、それだけで。
ボコッ、ボコッ……。
鍋の中のスープが、不気味なほど規則的に対流し始めた。
三秒に一度、寸分の狂いもなく中央から黄金の泡が湧き上がる。
数日煮込まなければ絶対に引き出せないはずの深い照りと香りが、ほんの数十秒のうちに、魔法のようにスープ全体へと広がっていく。
「な……んだ、これは」
ハンスの手から、お玉が滑り落ちた。
カラン、と乾いた音が厨房に響く。
三十年料理人をやっている彼の常識が、今、目の前で音を立てて崩れ去っていた。
そして、それ以上に深刻なダメージを受けている男がいた。
(……ありえない。液体という極めて不安定な媒体に、これほど多重の術式を定着させるなど。魔力が霧散して自壊するのが道理だ!)
ジュリアンは、額にじっとりと冷や汗を浮かべながら、必死に目の前の現象を「王都の魔導理論」に当てはめようと試みる。
(……待て。鍋の中を泳ぐ野菜の繊維……あれを、一時的な魔力回路の代替として利用しているのか!? いや、それだけじゃない。底から炙る黒嶺竜の魔炎が、外側に逃げようとする術式を圧力で押し込めているんだ……!)
仮説。
検証。
そして矛盾。
彼の中で、信じてきた数式が次々とエラーを吐き出し、ちぎれ飛んでいく。
(どんな異常な演算能力があれば、こんな芸当を無詠唱でこなせる? 彼女の頭脳は、一体どうなっているんだ……っ)
ジュリアンが必死に理性を保とうと戦っている最中、当のリゼットは、退屈そうに頬杖をつきながら鍋を見つめていた。
(……ただ風邪を治すだけじゃダメね。病み上がりだからって、タルトの配達を明日以降に回されたら困るわ)
(とにかく、今すぐ走れるくらい元気になってもらわないと)
リゼットは、極めて利己的な思考のもとで指先を弾いた。
スープの中に、病の治癒だけでなく、前世の徹夜明けのエナジードリンクもかくやというレベルの『過剰なまでの体力回復』の加護を、容赦なく編み込んでいく。
一瞬、鍋全体が眩いほどの黄金色に発光し――そして、静かに完成の湯気を上げた。
「できたわ。すぐに広場へ持っていって」
リゼットのけだるげな声に、我に返ったアルフレッドたち騎士が慌てて巨大な鍋を運び出し始める。
「さあ、リゼット。我々も広場へ……歩けるか?」
「ええ……。這ってでも行きますわ」
リゼットは、カシアンに支えられながら、プルプルと震える足で立ち上がった。
すべては愛しのタルトの到着を、広場の最前列で出迎えるために。
一行が厨房を去った後。
ジュリアンは一人、空になった竈の前に立ち尽くしていた。
(……確かめねば。あのスープが領民にもたらす『結果』を見れば、俺の推測が正しいかどうかが証明されるはずだ)
王都の神童は、まだ己の敗北を認めてはいなかった。
この直後、広場で待ち受ける「理屈を超えた地獄の狂乱」を知る由もなく、彼は震える足で一行の背中を追った。




