第33話:解読不能な神の術式と、激マズ特製ジュースで沈む創造主
厳しい冬が終わりを告げ、辺境の地に雪解けの春が訪れていた。
柔らかな春の朝日が差し込む、バウムガルト領主の館の食堂。
身支度を整えたジュリアンは、爛々と目を輝かせながら食堂の扉を開けた。
あの至高の湯殿で疲労を完全に回復した彼は、今や「いかさまを暴く」という目的を忘れ、ただ一つのことだけを考えていた。
――カシアンから渡されたあの魔力炉の稼働記録と、湯殿に刻まれた魔力回路。
その二つは、完全に同じ理で構築されていた。
つまり、あの『神の術式』を組み上げた正体不明の天才が、この館のどこかにいるのだ。
「おはよう、ジュリアン殿。昨夜はよく眠れたか」
上座には、コーヒーの香りを漂わせる辺境伯カシアンが座っていた。 そしてその隣には、銀糸の髪の儚げな女性が、深く椅子に腰掛けている。
(……あれが、父上が崇めていた辺境伯夫人か。俺と同じ十九歳のはずだが、随分と顔色が悪いな)
ジュリアンが席に着きながら観察する中、リゼットは目の前に置かれたグラスを、完全に死んだ目で見つめていた。
そこには、見事に青々とした茹で草(温野菜)と、ドロドロの紫緑色をした激マズ確定の謎の液体が置かれている。
「……奥様。侯爵様から届きました『薬草を用いた温野菜』と、『特製ジュース』でございます」
侍女のアンが恭しく差し出したそれを、リゼットは震える両手で持ち上げる。
(……臭い。苦い。侯爵様、なんでわざわざこんな物送ってくるの……)
リゼットは息を止め、一気に紫緑色の液体を喉に流し込んだ。
あまりの不味さに彼女の白い肌がさらに青ざめ、口元を上品にハンカチで覆いながらも、その目からは完全に光が失われる。
「リゼット……っ!」
その痛ましい姿を見て、カシアンが悲痛な声を上げた。
「すまない……。だが、少しでも飲めば君の体が確実に丈夫になるはずだ。俺が君を健康にしてみせるから、どうか少しだけ堪えてくれ……!」
(ただの激マズ野菜ジュースなんだけど……)
リゼットは反論する気力すら湧かず、ぐったりと背もたれに寄りかかりながら力なく首を振った。
そんな重すぎる愛情劇を横目に、ジュリアンは内心で呆れ果てていた。
(父上は、あの弱り切った女性の姿に同情して心酔しただけか。くだらない。それよりも俺は、あの『創造主』を探さねばならないというのに)
「……辺境伯閣下。夫人のご体調が優れないようであれば、私はこれで。それよりも、お尋ねしたいことがあります」
ジュリアンは身を乗り出し、熱を帯びた声で問いかけた。
「あの魔力炉と湯殿の魔力回路を構築したのは、どなたですか!? 王都の常識を覆す、あの無駄のない完璧な理。あのような神の如き術式を操る天才が、この館のどこかにいらっしゃるはずだ!」
「天才?」
カシアンは不思議そうに眉を寄せた。
そして、ハンカチで口元を押さえたまま放心しているリゼットへと視線を移す。
「……ああ、あれか。あれは以前の大掃除の時、妻が術式を書き換え**て**くれたのだ」
「……は?」
王都の神童のプライドは、ここで完全に粉砕された。
ジュリアンが言葉を失い、わななきながら彼女を見つめていると――ふと、リゼットの足元の『影』が蠢いた。
「……キュ、キュルル……」
そこには、リゼットと全く同じ死んだ目をした、漆黒のトカゲが丸まっていた。
いや、ただのトカゲではない。
小型化されてはいるが、光を呑み込むような漆黒の鱗、周囲の空気を歪ませるほどの圧倒的な魔力の密度を放っている。
(間違いない……おとぎ話に登場する伝説の『黒嶺竜』だ……!)
ジュリアンの熱い眼差しになど一切気づかず、リゼットは足元の影に向けて、声に出さず『念話』を飛ばしていた。
(……ノア。お願い、これ多すぎるの。悪いけど草の処理手伝って……。食べてくれたら、あとでデザート(魔力)あげるから)
「キュ、キュルルゥ!(我、その契約乗りました!)」
(ありがとう……。じゃあ、私はもう一回この不味いジュース飲むから、せーのでいくよ……)
「キュルッ!(応!)」
主と神獣は固く視線を交わすと、悲壮な覚悟で同時に激マズ野菜へと挑み始めた。
その光景を目の当たりにしたジュリアンの脳内処理が、完全に限界を突破する。
(俺が三日三晩かけても理解を絶した『神の術式』は、大掃除のついで。そしてあの神話の厄災を、完全に飼いならしている……!?)
ありえない。
人間の常識で測っていい存在ではない。
底知れぬ恐ろしい化け物……いや、もはや人知を超えた神そのものだ。
(逆らってはいけない。あの御方を前に、俺の論理などなんの意味も持たない……ッ!)
圧倒的な力の差。
強烈な恐怖と畏怖がジュリアンの全身を貫き、傲慢な頭脳派エリートの矜持は粉々に砕け散った。
あまりの事態に正気を失い、彼はただ震える目で「至高の創造主と竜」を見つめ続けるしかなかった。
***
【ジャネット視点】
一方。
食堂の壁際に控えていた侍女のジャネットは、目の前で繰り広げられるカオスな食卓を前に、無表情のまま静かに目を伏せていた。
(王都の神童様は、恐怖と畏怖のあまり完全におかしくなってしまわれましたね)
そして肝心の奥様と伝説の竜は、周囲の熱狂などどこ吹く風。
ただ『いかにして不味い草を互いに処理するか』という極めて次元の低い裏取引を、無言のまま繰り広げているだけである。
(……ふふっ。本当に、毎朝飽きない方々です)
ジャネットは内心でこの凄まじいすれ違い空間を面白がりながらも、優秀な侍女として、その感情を微塵も表には出さない。
ただ完璧な所作で背筋を伸ばし、涼しい顔でカオスな食卓を見守るのだった。




