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『魔力炉の最適化? いいえ、二度寝の環境整備です。~怠惰な生活を送りたいだけなのに、なぜか国中のエリートが私を「聖女」と崇め始めました~』  作者: こもり詩


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第32話:神の数式と、至高の全自動風呂

 


 グラナート侯爵の嫡男、ジュリアンが客室に籠もり、渡された稼働記録の束と格闘し始めてから三日が経過していた。


 カシアンの命により、彼は「客人」ではなく「手駒」として扱われている。  そのため、彼が寝食を忘れて部屋に引きこもっていても、誰一人として気遣う者はいなかった。


「……信じられない。何故ここで魔力干渉が起きない……? この術式、あまりにも美しすぎる……」


 かつて王都で「神童」と持てはやされたハニーブロンドの貴公子は、今や見る影もない。  

 髪は乱れ、目の下には深い隈が刻まれ、仕立ての良い服はシワだらけ。

 三日三晩、一睡もせずに未知の「圧倒的な知能の結晶」に挑み続けた結果、彼の肉体はとうに限界を迎えていた。


「……だめだ。思考がまとまらない」


 ペンを握る力すら失せたジュリアンは、幽鬼のような覚束ない足取りで部屋から這い出した。  

 通りかかった使用人を呼び止め、湯殿の場所を聞き出す。


(どうせ辺境の風呂だ。薪で沸かした、温度もまばらな泥水のような湯だろう。だが、今は贅沢は言っていられない……)


 不快な汗と脂を流せればそれでいい。  

 王都の豪奢な大浴場を思い出し、辺境の不便さに内心で毒づきながら、ジュリアンは湯殿の扉を開けた。


 しかし、そこに広がっていたのは、彼が想像していたような薄汚れた水場ではなかった。  

 磨き上げられた清浄な空間に、豊々と澄んだ湯を湛える広い湯船。


「……ほう。田舎にしては、随分と小綺麗にしているじゃないか」


 ジュリアンは衣服を脱ぎ捨て、泥のように重い体を湯船へと沈めた。


「――っ!?」


 その瞬間、ジュリアンの全身を雷に打たれたような衝撃が貫いた。


「な、なんだ、この湯は……ッ!?」


 熱すぎず、ぬるすぎず、肌に吸い付くような完璧な温度。  

 いや、それだけではない。

 湯に浸かった先から、三日間の徹夜で凝り固まった筋肉がほぐれていく。  

 湯に微量に溶け込んだ『疲労回復の加護』が、ジュリアンの肉体に活力を注ぎ込み、急速に修復し始めたのだ。


 酷使によって濁っていたジュリアンの思考の霧が、一瞬にして晴れ渡る。

 本来の冴えを強制的に取り戻した天才の頭脳は、すぐさまこの異常な現象の正体を突き止めようと、湯船の底や壁に微かに刻まれた魔法陣を分析し始めた。


「……この魔力効率。そして、一切の無駄を省いたこの結界の構築……」


 ジュリアンは息を呑み、震える手で湯殿の壁に触れた。


「間違いない……あの書類に記されていた『神の術式』と、完全に同じことわりだ……!」


 理解してしまった。  

 この湯殿には、王立魔導院の百年先を行く超高次元の魔術が組み込まれている。

 常に水温を監視し、入浴者の体調に合わせて加護の強弱を調整する、恐るべき『自律型の魔力回路』。


 ジュリアンの脳内で、自らが信じてきた王都の常識が致命的な音を立てて崩れ去る。


(馬鹿な……! 既存の魔術理論を根底から覆すあの神の如き術式を、この領の術者は……『風呂の湯を適温に保つため』だけに使っているというのか!?)


 もしこの理論を軍事に転用すれば、一国を易々と滅ぼせる。  

 医療に転用すれば、歴史に名を残す聖者になれる。


 それほどの圧倒的な才能を。

 世界を変えうる至高の知性を。  

 あろうことか、こんな「ただの湯沸かしと娯楽」のために浪費しているのだ。


(狂っている……! だが、なんという圧倒的な余裕……なんという『真の怠惰』……!)


 自分が王都でソファーに寝転がり、偉そうに語っていた「余裕」がいかに薄っぺらく、惨めなものであったかを、ジュリアンは骨の髄まで思い知らされた。  

 父の言葉が、ようやく真の意味を持って彼の胸に突き刺さる。


『本物の余裕とは、圧倒的な力と奇跡の上にのみ成り立つものだ』


「一体誰だ……! 辺境の理を書き換え、この風呂を作った異端の天才は、一体どこにいる……ッ!!」


 ジュリアンは湯殿の中で天を仰いだ。  

 辺境のいかさまを暴くという傲慢な目的は、完全に消え去っていた。


 彼の中に今あるのは、己の知性が遠く及ばない「圧倒的な創造主」への激しい畏怖と、狂気的なまでの探求心だけだった。


 ***


【ジャネット視点】


 一方、その頃。

 領主の館、主寝室。


 奥様付きの侍女であるジャネットは、部屋の隅で静かに控えていた。


「……ふかふか。信じられないくらい、柔らかい……」


 天蓋付きの広いベッドの上。  

 ライネルから献上された最高級安眠枕に頬を埋め、リゼットがうっとりと吐息を漏らす。


「グルルゥ……ッ!」


 だが、その平穏な空気を裂くように、低い唸り声が響いた。  

 声の主は、ベッドの端に丸まっていた黒い影――伝説の黒嶺竜、ノアである。


 普段なら、リゼットの腕の中という『特等席』を我が物顔で独占している彼にとって、突如現れた白い枕は、己の地位を脅かす障害物でしかない。  

 ノアは琥珀色の瞳を細め、安眠枕に向けて鋭い牙を剥き出しにして威嚇した。


「……んー、ノア。だめだよ、それ燃やしちゃ。すごく寝心地いいんだから」


 リゼットはまどろんだ声でそう呟くと、威嚇するノアの首元に無造作に手を伸ばした。  

 そして、暴れる竜の体をひょいと引き寄せ、新しい枕の隣に並べる。


「ノアはこっち。温かいから」


「……キュル」


 あっさりと腕の中に収まったノアは、先ほどの凶悪な威圧感を一瞬で引っ込めた。  

 そして、愛しい主に抱きしめられた竜は、彼女が最も快適に眠れるように、自らの体温をぽかぽかと最適な温度へと調整し始める。


(……伝説の黒嶺竜が、ただの『極上の湯たんぽ』に成り下がっていますね)


 すっかり喉を鳴らしてくつろぐ竜を見て、ジャネットは無表情のまま心の中で突っ込んだ。


 王都の品に警戒する竜の猛りを、奥様が深い慈愛で鎮めた。  

 外にいる旦那様や騎士たちが知れば、またそんな風に勘違いして涙を流すのだろう。


 だが、ジャネットには分かっている。  

 奥様はただ、最高の枕と最高の湯たんぽを両立させて、快適に二度寝がしたいだけなのだ。  

 今日も奥様の「己の睡眠第一」の精神は一切ブレない。


(……おやすみなさいませ、奥様)


 ジャネットは乱れた掛け布団をそっと直し、静かに一礼した。


 一人の侍女の冷静なる諦観と、リゼットの底なしの眠り。  

 そして、湯殿の底で「神の術式」の正体を求めて悶絶するエリート貴公子。


 辺境の夜は、凄まじい温度差を抱えながら更けていくのだった。




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