第29話:【カシアン視点】無抵抗の聖女と、静かなる情報戦
――ガァンッ!
重く冷たい刃が落ちる音と共に、私は自室のベッドで跳ね起きた。 「……っ、はぁっ、はぁ……!」
寝間着の背中は、じっとりと冷や汗で濡れていた。
まただ。
また、あの夢を見た。
灰色の空の下、民衆の罵声を浴びながら、白い薄衣を纏ったリゼットが断頭台の階段を上っていく夢。
私は乱れた呼吸を整えながら、執務室の机に向かい、冷たい水を喉に流し込んだ。
頭を冷やせ。
軍人として、そしてこの領地を預かる辺境伯として、状況を冷徹に分析するのだ。
(……おかしい。何かが、決定的に狂っている)
現在、我がバウムガルト辺境伯領の軍事力は、伝説の黒嶺竜と超人化した騎士団により、歴史上類を見ない異常な水準に達している。
仮に王都の全軍が攻め込んできたとしても、返り討ちにできる戦力だ。
それなのに、なぜ夢の中のリゼットは、あんなにも「無抵抗」で断頭台に向かっている?
圧倒的な力を持つ者が、無抵抗で殺されることを選ぶ理由。
可能性としてもっとも高いのは……
「……『人質』か」
暗い執務室で、私の声がひどく冷たく響いた。
彼女が「決して見捨てることができない存在」――領民たち、あるいは不甲斐ないこの私に刃を突きつけ、脅迫するのだ。
だが……そこで思考が行き詰まる。
現在の王や王太子殿下は、極めて有能で理知的な為政者だ。
彼女を理不尽に処刑し、辺境をあずかっている私を敵に回して内乱の火種を作るような愚行を、無用に行うはずがない。
(王室が動かざるを得ないほどの、強大な外圧……。彼女を『魔女』として裁かなければならない大義名分……)
私は地図を広げ、視線を落とした。
(例えば、国境を接する、あの宗教国家か)
隣国は「聖女」という象徴を用いて上層部が民を支配している。
もし、我が領地から逃げた魔物たちが、隣国へ雪崩れ込んでいたとしたら?
もし、向こうの『聖女』がその魔物に対処しきれず、民の不満が爆発しそうになっていたとしたら?
そして、我が辺境が「かつての厄災」を従え平穏を保っているという情報が彼らの耳に入ったとしたら。
奴らは自らの無能を隠すため、「辺境の魔女が魔物を送り込んでいる」と大義名分をでっち上げ、王都へ『異端審問』を要求してくるのではないか――?
「……いや。待て」
暗い執務室で、私は自らのこめかみを強く押さえた。
飛躍しすぎだ。
軍人として最悪の事態を想定することは必須だが、不確定な仮説だけで動くべきではない。
過度な警戒は、かえって周囲に不信感を与え、彼女を危険に晒すことになりかねない。
(あくまで可能性の一つに過ぎない。今、私が為すべきは……『情報』を握ることだ)
まずは国内外の情報を徹底的に洗い出さねばならない。
「……万が一の事態が起きようとも、私が必ず、先手を打って君を守り抜こう」
静かな決意を胸に、私は執務室を出て、冷たい廊下を歩いた。
厳重な警備が敷かれたリゼットの寝室の前に立ち、護衛の騎士に頷きかけ、音を立てずに扉を少しだけ開ける。
月光が、大きな窓から部屋の奥へと差し込み、白いベッドの上に横たわる美しい肢体を照らし出していた。
リゼットは、月の光を透かす銀糸の髪を枕に散らし、深く、穏やかな眠りの中についていた。
磁器のように滑らかで白い肌。
長く、扇のように伏せられた睫毛。
完璧な陶器の人形が、そのまま奇跡的に命を得て、安らかに休息をとっているかのような、息を呑むほどの美しさだ。
羽毛の毛布からわずかに覗く、細く華奢な肩。
これまで、自らの命を薪にして領地を守り続けてくれた彼女が、理不尽な陰謀の犠牲になるなど、絶対に許してはならない。
(……君の、その尊き静寂は。私が、この手で守る)
私は、彼女の聖域を乱さぬよう、ただ扉の隙間からその気高き寝顔を見つめ、己の魂に誓いを立てていた。
その時だった。
彼女の足元に丸まっていた、仔犬サイズの黒い竜――ノアが。
ピクリと、小さな耳を動かした。
主であるリゼットの温もりにすり寄っていたその首が、音もなく、緩やかに持ち上げられる。
「…………」
ノアは、私という存在を確認し、それが『主の安眠を脅かす敵』ではないと判断すると、鼻先でふっと小さく、静かな息を吐いた。
そして。
まるで「主の安眠を邪魔するな」と、言葉なしに釘を刺すかのように、真紅の瞳で私をチラリと一瞥してから。
再び、愛らしいぬいぐるみのフリをして、リゼットの髪に鼻先を寄せ、丸まり直したのだ。
「……ふっ」
私は、思わず小さく、苦笑した。
伝説の厄災が、主の寝顔を守る、最も忠実で鋭い番犬となっている。
私だけではない。
この最強の竜もまた、彼女の安寧を守るための、盤石なる盾の一つなのだ。
(頼んだぞ、ノア)
私は心の中で、かつて国を焼き尽くした竜に、愛する妻の守護を託した。
扉をそっと閉め、彼女の安らかな寝顔を胸に刻む。
迫り来るかもしれない不条理な狂気から彼女を守り抜き、この静かなる情報戦に打ち勝つため、私は動き出すのだった。




