第27話:吊り橋効果と、幻の霜降り肉
【魔法兵長バルトの視点:王都の重鎮の豹変】
応接室での話し合いを終え、我々は奥様が待つ食堂へと向かっていた。
石造りの廊下を歩きながら、私はどうしても堪えきれず、前を歩く二人の背中に問いかけた。
「あの……失礼を承知で伺いますが。グラナート侯爵閣下は、我々辺境を視察(という名の粗探し)に来られたのではなかったのですか? なぜカシアン様とこれほど強固な同盟を……?」
私の問いに、侯爵は足を止め、憑き物が落ちたような清らかな顔で振り返った。
「以前の私は、思い上がり、辺境を見下す浅ましい愚か者だった。だが、あの伝説の厄災による『死の恐怖』を味わった直後……奥様は、ご自身の命の灯火を削って、私に奇跡のスープを与えてくださったのだ」
侯爵の瞳には、一切の打算がない。
あるのは純度百パーセントの畏敬の念だけだ。
「あの深く清らかな慈愛に触れ、私は生まれ変わったのだ。奥様の尊き御命を守るためならば、私は喜んでこの身を王都との盾としよう」
「侯爵は、我が妻の尊さに気づき、共に守り抜くと誓ってくれた真の同志だ」
カシアン様が深く頷き、二人は再び熱い視線を交わした。
(……えっ。死の恐怖を味わった直後に優しくされて、相手に異常な執着を抱くって……それ、王都の恋愛小説でよく見る『吊り橋効果』ってやつでは……?)
私は一人で冷静なツッコミを入れつつも、その重すぎる信仰心に内心ドン引きしていた。
だが、アイザック殿の推論通り、奥様が脳を焼き切るほどの負荷を抱えているのならば、この強力な後ろ盾は必須だ。
男三人は「奥様の脳の冷却(睡眠)を妨げないため、消化に悪いものは一切排除する」という固い決意を胸に、食堂の扉を開けた。
【リゼットの視点:約束された最高級のお肉】
自室でジャネットに完璧なドレスを着せてもらいながら、私はウキウキと胸を弾ませていた。
(やった、やったわ! ついに今日はお肉よ!)
最近、カシアン様が異常なまでに過保護を発揮するせいで、私の食事といえば「胃に優しい」という名目の薄味スープと温野菜……つまり、ほとんど『草』ばかりだったのだ。
しかし、今日は違う。
侯爵様が非礼の詫びとして献上してくれた、品評会で最高位を得たという極上の牛肉!
ジュージューと音を立てるステーキかしら。
それとも、とろけるような赤ワイン煮込みかしら。
(ノア、聞いて。今日は最高級のお肉よ! 侯爵様が持ってきてくれたの。あなたにもきっと美味しいお肉が振る舞われるから、大いに期待しておいてね!)
『キュルルッ! 主様、最高です! 我、期待しておきます!!』
念話でノアに語りかけると、足元にいる仔犬サイズの黒嶺竜は、嬉しそうにパタパタと翼を揺らして尻尾を振った。
一人と一匹で期待値を限界まで高め、私はいそいそと食堂へ向かった。
【侍女ジャネットの視点:完璧なる温度差】
私は食堂の壁際に控え、銀のトレイを手に、目の前で繰り広げられる喜劇を無表情で眺めていた。
テーブルには、「余命幾ばくもない悲劇の聖女」を労るような、痛ましくも重すぎる慈愛の視線を向ける男たちが三人。
そしてその視線の先には、純粋に「今日のお肉」のことしか考えていない、ウキウキ顔の我が主(リゼット様)と、尻尾を千切れんばかりに振っているノア様。
(……奥様。大変申し上げにくいのですが、奥様の望むお肉は、男たちの暴走する過保護によって先ほど完全に没収されました)
私は心の中でそっと手を合わせながら、主の前に立ち、恭しく銀のクロッシュ(蓋)を持ち上げた。
「お待たせいたしました。本日の夕食は、侯爵様がご自身の領地より早馬で取り寄せられた『最高級の薬草を用いた温野菜』と、命を繋ぐ『不老長寿の特製ジュース』でございます」
私の説明と共に姿を現した、見事に青々とした茹で草と、ドロドロの紫緑色をした激マズ確定の謎の液体。
それを見た瞬間、奥様と厄災の竜殿は、二人揃って見事にフリーズした。
【リゼットの視点:一人と一匹の絶望】
「……えっ。お肉は?」
私の口から、絶望的な声が漏れた。
すると、カシアン様が痛ましいものを見るような目で、ひどく優しく諭してきた。
「すまない、リゼット。消化に余計なエネルギーを使えば、君の脳の冷却の妨げになるとわかったんだ。これからは、胃に一切の負担をかけない完全な精進メニューで、我々が総力を挙げて君の命を繋ぐ」
「は……?」
脳の冷却? 命を繋ぐ?
何言ってるのこの人たち。
私、ただの運動不足なんだけど。
「ノア殿も、主の負担にならぬよう、これから健康管理を徹底せねばなりませんからな!」
侯爵が朗らかに告げると同時に、足元で尻尾を振っていたノアの専用皿にも、ドサリと山盛りの『無農薬の草』が盛られた。
『…………主様。これ、草です』
(……ええ。知ってるわ、ノア)
『お肉の匂いが、一切しません』
(……そうね。私も同じよ)
期待が最高潮に達していた分、突き落とされた絶望は計り知れないほど深かった。
私とノアは、二人揃って青々とした草を前に完全にフリーズした。
周囲には、私たちの姿が絶望で白黒に色褪せて見えたことだろう。
重すぎる愛と勘違いの結集。
それは、公認ニート生活と鉄壁の盾を手に入れた代償として、私から最大の楽しみを奪い去っていった。
(嫌ああああああっ!! 私の霜降り肉を返してええええええ!!!)
悲痛な心の絶叫は誰にも届くことなく、バウムガルト邸の夜は、激マズジュースの強烈な青臭さとともに更けていくのだった。




