第25話:謝罪の突撃と、ひざまずく狂信者たち
【メイド頭アンの視点:計算し尽くされた魂の救済】
初冬の冷え込みが厳しくなってきた、夜のバウムガルト邸。
私はメイド頭として、食後のお茶を乗せた盆を手に、グラナート侯爵様が休まれている客室の前で微かに身震いしておりました。
グラナート侯爵様といえば、出されたスープが少しぬるかっただけで使用人を容赦なく解雇するという噂のあるお方。
あろうことか、その気難しいお方が、到着早々に我が家の守護竜(ノア殿)のせいで死にかけてしまったのです。
間違いなく侯爵様は激怒し、この屋敷は終わりだ……私は絶望しておりました。
ですが、客室の扉の隙間から中を覗き見た瞬間。
私の中にあった恐怖は、奥様の「神算鬼謀」に対する底知れぬ畏怖と、圧倒的な感動へと変わったのです。
「……ああ! そういうことでしたのね、リゼット様!」
私は、すべてを理解いたしました。
客室の中では、あの傲慢な侯爵様が、空になったスープの器を両手で大切に抱きしめ、憑き物が落ちたような穏やかな顔で、己の浅ましさを深く恥じ入るように懺悔しておられたのです。
奥様は、最初からすべて計算しておられたのです!
まず第一段階として、あえて恐ろしい竜を遣わし、死の恐怖によって侯爵様の『傲慢なプライドと俗世の胃腸』を完全に破壊する。
そして第二段階として、ご自身の命を削って編み上げた「慈愛のスープ」を、空っぽになった胃の腑と魂に直接流し込む!
(なんという……なんという恐るべき、そして慈悲深い救済のプロセス!)
一度完全に心をへし折り、そこへ圧倒的な無償の愛を与えることで、氷のように冷たい王都の権力者を、たった一日で『熱狂的な信奉者』へと作り変えてしまわれたのです。
相手がどんな恐ろしい男であろうと、飴と鞭……いえ、竜とスープを用いて魂ごと浄化してしまう。
(奥様の底知れぬ深謀遠慮……。この屋敷の平穏は、奥様の掌の上で完璧に守られているのだわ!)
その見返りを求めない恐るべき愛の御業に、私は盆を持ったまま、廊下の片隅で深く、深く祈りを捧げました。
【王都の騎士たちの視点:連鎖する熱狂】
凍てつく風が吹きすさぶ、バウムガルト邸の裏庭。
グラナート侯爵家に仕える精鋭騎士たちは、冷たい石畳の上に屍のように転がっていた。
伝説の厄災による、音速の暴走ドライブ。
王都随一の剣技を誇る彼らも、その絶望的な恐怖と激しい揺れには抗えず、三半規管を完全に破壊されていたのだ。
そこへ、温かい湯気を立てる木桶を持った侍女たちが現れた。
「奥様からの、特製のスープです。お召し上がりください」
騎士たちは震える手で器を受け取る。
だが、その黄金の液体を一口飲んだ瞬間、彼らの瞳がカッと見開かれた。
極度の疲労が嘘のように消え去り、体の奥底から爆発的な活力が湧き上がってきたのだ。
「なんだ、この凄まじい加護は……」
どよめく彼らの前に、側近騎士ライネルが静かに進み出た。
「聞け、誇り高きグラナート家の騎士たちよ。これは、辺境伯夫人であられるリゼット様が、ご自身の命の灯火を削って我々に与えてくださった奇跡だ」
ライネルは、奥様がいかにしてあの厄災を飼い慣らし、そして我々のために倒れるまで魔法を編み上げてくださったかを熱く語った。
辺境を見下していた我らのために、命を削って……。
男たちの瞳には、かつてないほど強烈な狂信の炎が宿っていた。
彼らは無言で立ち上がると、一糸乱れぬ動きで石畳に片膝をつき、深く頭を垂れた。
ここに、グラナート侯爵家の精鋭騎士団は、一個小隊まるごと「辺境伯夫人の狂信者」へと生まれ変わったのである。
【リゼットの視点:増殖する重い人たちと、息切れの突撃】
翌朝。
暖炉の火がパチパチとはぜる心地よい自室で、私は極上のスッキリ感と共に目を覚ました。
「ああ、よく寝たわ」
初冬の寒さの中、ただ立って少し魔法を使っただけで倒れるなんて、私の体力もいよいよ末期だ。
だが、質の良い睡眠のおかげで、すからかんだった体力は完全に全快している。
「……ハッ! そうだ、侯爵様!」
私は毛布を跳ね除けた。
昨晩作ったスープで、侯爵様一行の体調はちゃんと回復したかしら?
もし今も激怒していたら、王都へ帰ってから謝罪対応だので、私の静かで快適な引きこもり生活が断たれてしまう!
「ジャネット! 急いで、でも王都の客人に対して絶対に失礼のない、完璧なドレスを着せてちょうだい!」
「かしこまりました。ですが奥様、あまりお急ぎになるとお体に――」
「いいから! 私の安寧がかかってるのよ!」
私はジャネットの手を借りて手早く身支度を整えると、カシアン様たちがいるはずの応接室へと猛ダッシュした。
……と言っても、基礎体力が皆無に等しい私のことだ。
他人から見れば「少し焦って早歩きをしている」程度に過ぎない。
だが、冷え切った石造りの長い廊下を進むだけで、私の全快したはずの体力はみるみる削られていった。
応接室の重厚な扉の前に着く頃には、私は完全に息が上がり、虫の息になっていた。
「はぁっ、はぁっ……」
私は震える手で扉を押し開け、ドア枠にすがりつくようにして中を覗き込んだ。
「あ、あの、侯爵、さま……っ。昨日は、我が家のペットが、多大なる、ご無礼を……げほっ」
ガシャァァァァッ!!
私が言い終わるより早く、鋼の擦れ合う重厚な音が響き渡った。
応接室の中、そして背後の廊下にまでズラリと並んでいた王都の騎士たちが、私の苦しげな呼吸音を聞いた瞬間、一斉に片膝をつき、深々と頭を下げたのだ。
「「「我らが命、これより聖女様と共に!!」」」
「……えっ」
地鳴りのような野太い忠誠の誓いに、私は酸欠の頭でフリーズした。 その奥から、グラナート侯爵が進み出てくる。
「奥様! 己の命の灯火が消えかけているというのに、無理を押して我々の体調を確認しに来てくださるとは……っ! このグラナート、己の傲慢さを心の底から恥じております! 至高の慈悲を与えてくださったこと、一生忘れません!」
「えっと……あの……?」
私が息も絶え絶えにドン引きしていると、背後から軍服風の黒衣を纏ったカシアン様が歩み寄り、崩れ落ちそうな私の体をそっと抱きとめた。
「リゼット……。君はまた、私に隠れて無茶をしたのだな」
彫刻のように整った顔立ちのカシアン様が、緋色の瞳を深く静かな感動に揺らしながら私を見下ろしている。
「君のその底知れぬ深い愛が、王都の打算に塗れた俗物たちの強固な心すらも完全に溶かしてしまったようだ」
「うむ……。辺境伯の言う通り、我々は本当に愚かで浅ましい俗物であった。奥様の清らかな御心に、ただただ平伏するばかりだ」
(ちょっと待って。なんで旦那様は本人の目の前で堂々と『俗物』って悪口言ってるの!? しかもなんで侯爵様は深く納得してるの!?)
目の前で繰り広げられる異様な光景に、私は引きつった笑みを浮かべ、必死に誤解を解こうとする。
「あ、あの、皆様。私はただの運動不足で、廊下を歩いて息切れしているだけで……ですからどうか、お顔を……っ」
だが、私の「ただの体力不足」という真実の声は、彼らの重すぎる熱狂の渦にかき消されていく。
「その謙虚さ……! 己の身を削ったことなど微塵も誇らぬお姿、まさに本物の聖女様だ!」
「「「ハッ!!」」」
騎士たちが、一糸乱れぬ動きでさらに深く頭を下げる。
(違うって言ってるでしょ! なんでこの屋敷、私の話を聞かない重い人ばっかり増えていくのよ!)
王都からの厄介事を回避し、平穏な引きこもり生活を守るための私の行動は。
皮肉にも、侯爵家の精鋭騎士団をまるごと「最高に面倒で重い信奉者」へと変貌させてしまったのだった。




