第24話:美食家の陥落と、黄金のスープ
【グラナート侯爵の視点:理解不能な辺境の底】
窓の外は、初冬の短い陽が落ちかけ、空をどんよりとした茜色に染めていた。
客室の豪奢なベッドに沈み込みながら、王都の重鎮たるグラナート侯爵は、荒い息を吐いていた。
綺麗になでつけられていたはずの白髪は乱れ、普段の理知的で隙のない老紳士の面影は、今や見る影もない。
全身の骨が軋むような激しい揺れと極度の乗り物酔いで、体の奥底から疲労困憊しきっていた。
(……忌々しい。だが、解せぬ)
侯爵は、重い頭で必死に思考を巡らせていた。
我々を襲い、馬車を暴走させたあの恐るべき伝説の厄災。
間違いなく殺されると覚悟したが、辺境伯の屋敷の門をくぐった途端、あの巨竜はふっと興味を失ったように裏庭へ消え去った。
まるで、ただの「お遣い」を終えたかのように。
「……この領地は、一体どうなっているのだ」
掠れた声で悪態をついたその時、静かに扉が開いた。
焦げ茶の髪をきっちり結い上げた、隙のない所作のメイド――ジャネットが、銀のトレイを恭しく運んできた。
「侯爵様。奥様より、お加減の優れぬお体にと、特製のスープをお持ちいたしました」
「……ふん。こんな最果ての泥水など、誰が喉を通るものか。すぐに下げろ」
侯爵は苛立たしげに顔を背けた。
ジャネットは表情一つ変えず、「失礼いたしました」と一礼し、踵を返そうとする。
――だが。
「……待て」
侯爵は、思わず彼女を呼び止めていた。
澄み切った黄金色のスープからふわりと漂ってきた、滋味深く、どこか神聖さすら感じる香り。
王都随一の美食家である彼の本能が、「これはただの料理ではない」と激しく訴えかけていた。
侯爵は上体を起こし、震える手でスプーンを取ると、疑い半分でその黄金の液体を口に含んだ。
「……なっ!?」
その瞬間、侯爵の全身に雷に打たれたような衝撃が走った。
ただ美味しいだけではない。
温かいスープが食道を通った途端、極度の疲労で死にかけていた細胞一つ一つに、爆発的な活力が染み渡っていくのを感じたのだ。
「なんだ、これは……! 魔法薬すら凌駕するほどの圧倒的な治癒の力……!」
驚愕する侯爵のもとへ、側近騎士ライネルが静かに部屋に入ってきた。
彼の目は赤く充血し、強い感情を必死に押し殺しているようだった。
「ライネル。このスープは異常だ。奥様とやらが作ったと聞いたが、辺境伯は一体どんな高名な魔法術師を抱え込んでいるのだ?」
「いいえ、閣下。これは……奥様ご自身のお力です。私は厨房で、信じがたい光景を見ました」
ライネルは、震える声で事の次第を報告した。
先ほど彼らを襲い、馬車を暴走させたあの黒嶺竜が、奥様の足元で仔犬のように完全に飼い慣らされていたこと。
そして、顔面蒼白の奥様が、呪文も触媒もなしに虚空に光の軌跡を描き、このスープに奇跡を編み込んだ直後――限界を迎えて、冷たい石の床へ倒れ伏したこと。
「ば、馬鹿な! あの厄災を御し、これほどの加護を付与するなど……!」
侯爵は愕然とした。
そんな人知を超えた奇跡を、何の代償もなしにポンと行使できる人間などいるはずがない。
ならば、その圧倒的な対価は何か。
(……己の命か。辺境を侮り、傲慢に振る舞った私のような俗物を癒やすために、あの夫人は自らの命の灯火を燃やして、倒れるまでこのスープを作ったというのか……!)
竜による死の恐怖から生還した安堵感と、体内を満たす圧倒的な癒やしの力。
そして、ライネルの客観的な報告から導き出された「重すぎる真実」。
侯爵の胸の内で、王都の権力者としての傲慢なプライドが、音を立てて完全に崩れ去っていく。
「……私は、なんて愚かで、恥知らずな男だったのだ」
侯爵は空になった器を見つめ、己の浅ましさを深く、深く恥じ入った。
彼の中で、辺境伯夫人に対する評価が「辺境の哀れな令嬢」から「命を賭して他者を救う、真の聖女」へと完全に書き換わった瞬間であった。
【侍女ジャネットの視点:完璧なる勘違いの完成】
私は、客室の隅に静かに控えながら、目の前で繰り広げられる重厚な悲劇(茶番)を無表情で見つめていた。
「なんという慈悲深さ……! 我々のような者のために、命を削って……!」
「ああ。彼女こそ、真の聖女だ……」
王都の重鎮たる侯爵と、エリート騎士であるライネル様が、空になったスープ皿を前に主であるリゼット様を崇め奉っている。
私は、彼らに悟られないよう、ほんのわずかに目を伏せた。
(いいえ。奥様は王都からの面倒な厄介事を何としても回避したかっただけですし、倒れられたのも、単に元より皆無に等しい体力が底をついたというだけです)
真実を告げようと思えば、いつでも言える。
だが、仕える身として、わざわざその誤解を解くような野暮な真似をするはずがない。
麗しき我が主が何より望んでおられるのは、面倒な客人に煩わされることのない、限りなく平穏な日常である。
ならば、この王都の有力者たちが「奥様の熱狂的な信奉者」になり、自ら盾となってくれるこの展開は、我が主にとって最も都合の良い最高の結果と言える。
「……お口に合いましたようで、何よりでございます」
私は完璧な淑女の礼をとり、空になった銀のトレイを優雅に持ち上げた。
「奥様も、ご自身が『身を削って』作られたスープで、侯爵様のお心が癒やされたと知れば、さぞお喜びになるでしょう」
嘘はついていない。奥様は(なけなしの)体力を削ったし、王都から文句を言われないと知れば間違いなく喜ぶ。
私の言葉に、侯爵たちはさらに感極まったように声を震わせた。
私は冷たい初冬の廊下へ出ると、主の望む「何もしない安らかな日々」を守る強固な防壁がまた一つ増えたことに、ひっそりと満足げな微笑みを浮かべるのだった。




