第23話:保身の特製スープと、目撃された『命の灯火』
【リゼットの視点:平穏を守るためのひと仕事】
日差しが弱まり、石造りの屋敷に初冬特有の底冷えが忍び寄る頃。
私の心の中には、冬の寒さを吹き飛ばすほどの焦りが渦巻いていた。
「どうしようジャネット! 査問委員会の対応だの、王都への謝罪だので、私の平穏な引きこもり生活が完全に終わっちゃうわ!」
「落ち着いてください、奥様。侯爵様は死んではおりません。極度の恐怖と乗り物酔いで完全に疲労困憊し、青ざめて倒れているだけです」
自室の長椅子で報告を受けた私は、頭を抱えた。
ダメよ。
胃腸が限界を迎えているお年寄りに、辺境名物の脂っこい肉料理なんて出したら完全にトドメを刺してしまうわ。
万が一、我が家でもてなしたせいで体調を悪化させたと王都に報告でもされたら、私の快適なニート生活が危ういじゃない。
「……仕方ありませんわね。侯爵様のために、少し胃に優しいスープを用意しましょう。厨房へ案内してちょうだい」
私は重い腰を上げ、冷え込む廊下を進んだ。
足元では、仔犬ほどのサイズに縮んだノアがトテトテとついてくる。
彼は当初、『主様のご命令通り、最速でお連れいたしましたぞ! さあ、ご褒美を!』と意気揚々と尻尾を振っていた。
だが、私の顔面蒼白なパニックぶりを見て、『……む? まさか我、何かやらかしたか……?』と冷や汗をかき、今は借りてきた猫のようにスンッと大人しくしている。
厨房に着くと、私は料理人に声をかけた。
「ごめんなさい、少し急ぎで、消化に良い野菜のスープを作ってもらえないかしら? 鍋のかき混ぜはお任せするわ。私は最後に少しだけ、滋養の加護を加えさせてもらうわね」
温かい湯気が立ち上る、大きな鍋の前。
私は、キーボードを呼び打し料理人が木べらでかき混ぜるスープに向けて、「滋養の加護」を直接溶け込ませていく。
ただ立って、魔法を編み上げているだけだ。
しかし、初冬の寒さでこわばった体と、ゼロに等しい私の基礎体力では、これだけでも体力がどんどん削られていく。
「これで……最後よっ!」
ターンッ、と虚空を弾く。
鍋の中に光の粒子が吸い込まれ、ふわりと澄み切った黄金色のスープが完成した。
やり遂げた安堵と共に、私の視界がぐにゃりと歪む。
「……あ、ダメ。立ってるだけで、体力が限界……」
私が冷たい石の床へと崩れ落ちそうになった瞬間。
ノアが慌てて足元に滑り込み、背中で私を受け止める。
同時に、ジャネットが素早く私の肩を支え、ゆっくりと近くの椅子へと座らせてくれた。
「奥様、お疲れ様でした。あとは私が侯爵様のもとへお運びいたします」
「ええ……頼んだわよ。これでクレームは回避できるわね……」
私は、急速に薄れゆく意識の中で、安らかな眠りへと落ちていった。
【側近騎士ライネルの視点:慈悲深き聖女と、飼い慣らされた厄災】
疲労困憊で倒れた侯爵閣下のため、せめて温かい白湯でもいただこうと厨房へ向かっていた私は。
物陰からその信じがたい光景を目の当たりにし、全身の震えが止まらなくなっていた。
厨房の中央には、白銀の髪を持つ、今にも消え入りそうなほど儚いご婦人がいた。
侍女の態度からして、噂に聞くバウムガルト辺境伯の奥様だろう。
彼女は料理人に対し、「最後に少しだけ、滋養の加護を加えさせてもらうわね」と、ひどくお疲れの様子で、優しく微笑んでおられた。
(我々をもてなすために、わざわざご自身で魔法を……?)
だが、私の目をさらに疑わせたのは、その奥様の足元にいる黒い生物だ。
仔犬のように小さいが、その真紅の瞳と、全身から放たれる凶悪な魔圧には覚えがある。
つい先ほど、私と閣下を恐怖のどん底に陥れたばかりなのだから。
(間違いない……! 馬車を暴走させたあの伝説の厄災、『黒嶺竜』だ!)
なぜ厄災がここに!?
叫びかけた私の喉は、恐怖で凍りついた。
あの恐るべき厄災が、奥様の顔色を窺い、まるで主人の機嫌を損ねたことを恐れる忠犬のように、すんすんと鼻を鳴らして怯えているのだ。
(伝説の厄災が……奥様のペットとして、完全に飼い慣らされているだと!?)
あまりの衝撃に足がすくむ。
しかし、私の心をさらに打ち砕いたのは、その直後の奥様のお姿だった。
奥様は、フラフラと覚束ない足取りで鍋の前に立ち、呪文も魔法陣もなしに、虚空に光の軌跡を描き始めた。
その顔色は初冬の雪よりも白く、今にも命の灯火が消えてしまいそうだ。
そして、黄金のスープが完成した瞬間、奥様は力尽きたように倒れ、あの黒嶺竜が慌ててクッション代わりにその身を投げ出したのだ。
「なんという……なんという慈悲深さだ……っ!」
私は、物陰で両手で口を覆い、込み上げる熱い感情に胸を震わせた。 辺境は荒れ果てているなどと、我々はどの口が言ったのか。
ここには、厄災すらも愛で包み込み、ご自身の命を削ってまで、我々のような者を癒やそうとしてくださる本物の『聖女様』がいらっしゃるではないか!
私は、侍女の手によって運ばれていく黄金色のスープを見つめながら、己の傲慢さを深く恥じた。
この奇跡のスープを閣下が口にすれば、必ずや、辺境に対する誤解も氷解し、その頑ななお心も深く癒やされるに違いない。
私は深く頭を垂れると、急いで閣下の待つ客室へと走り出した。




