第5話 栄光
コツ、と静かな音が、薄暗い部屋に響いた。
反射的に顔を跳ね上げる。
音の主は、窓の向こうにいた。
「ニーナ……!?」
待ち焦がれた忠実なメイドの姿を期待して駆け寄り、ガラスの向こうを見つめる。
しかし、そこに佇んでいたのは別の人物だった。
月明かりを背負い、不敵な笑みを浮かべる女。
夜の闇を溶かし込んだような黒いローブ。
「……、あなた、は……」
忘れるはずもない。
私の願いを聞き入れ、この化け物の姿へと変えてくれた張本人――あの魔女だった。
魔女は音もなく窓を開け放つと、まるで自分の部屋であるかのように優雅な動作で室内に滑り込んできた。
驚きで見つめる私に、面白そうに細められた三日月の瞳を向ける。
「そんなに驚くな娘さん。お前さんの侍女も中々賢い。お前さんの飼い犬に、この手紙をくわえさせてよこしてね。呪いを解きに来てやったのさ」
魔女は細い指先で、見覚えのあるニーナの筆跡が残る紙片を弄んだ。
(ニーナが、ジュリーを魔女のところに向かわせてくれたのね……!)
私の服には、あの不気味な魔女の庵の強烈な匂いが染みついていた。
それに気づいたニーナが、私を元の姿に戻すために手紙をジュリーに託したのだ。
ジュリーはその匂いを頼りに、一匹だけで庵まで行ってきてくれた。
絶体絶命の危機を救う賢さと健気な奮闘に、胸の奥が熱くなる。
「これで私の仕事は終わりだ。さあ、時間がない。お披露目の儀とやらに遅れては、あの一人と一匹の努力も水の泡だからね」
魔女が長く尖った爪で、宙にしなやかな弧を描く。
その瞬間、私の身体を激しい熱が駆け巡った。
皮膚を覆っていた化け物の生々しい感触が、急速に引いていく。
恐る恐る自分の手を見つめた。
そこには、見慣れた白く滑らかな、元の肌が戻っていた。
「戻った……。私、ちゃんと元の姿に戻れたのね……!」
安堵し、魔女に言葉を返そうとしたその時、部屋の扉が鋭く叩かれた。
コン、コン、と、静まり返った部屋にノックの音が響く。
「ディアナ様、もうお仕度をなさらないと。ここをお開けくださいませ」
城のメイドの声だ。
「は、はいっ」
部屋に魔女のいる状況をどう説明すればよいのか。
次の瞬間――。
部屋のどこを見回しても、今の今までそこにいたはずの魔女の姿は、煙のように消え失せていた。
開いた窓から、冷たい夜風だけが吹き込んでいる。
私は乱れた息を整え、声を張った。
「ええ、お入りになって」
ガチャリと扉が開き、メイドが部屋へと入ってきた。
「ディアナ様? まぁ、ずいぶんと暗い部屋にいらっしゃること」
メイドが怪訝そうな顔で私を見た。
しかし、私の姿に不審な点を見つけることはなかったようだ。
彼女の背後には、きらびやかで美しいドレスを載せたワゴンが控えている。
「さあ、国王陛下もお待ちです。アルバート王子やその婚約者の方々も、皆様すでに謁見の間に集まっておいでですよ。今宵の主役として、最高に美しいお姿に仕上げさせていただきますね」
メイドの言葉に、私は深く息を吸い込み、鏡に映る本来の自分の顔を見つめる。
化け物の姿で耐え忍ぶ時間は終わった。
しかし、ここからは悪意の渦巻く戦場へ赴くことになる。
私はドレスに身を包み、ゆっくりと、しかし確かな足取りで、光と陰謀が渦巻く謁見の間へと歩みを進めた。
身を切るような緊張感を胸に秘め、私はメイドに導かれて謁見の間の手前にある小部屋へと足を踏み入れた。
そこで私の到着を待っていたのは、クラレンス殿下だった。
「ディアナ、よく来てくれ――え、」
私を迎えるために振り返った殿下の言葉が、途中で凍りついた。
端正な顔が驚愕に染まり、その目は限界まで見開かれている。
それも無理はない。
殿下が最後に見た私は、あの禍々しい化け物の姿だったのだから。
しかし今、彼の前に立っているのは、花よりも美しいドレスを纏い、元の、いいえ、魔女の秘薬の力によって以前よりもさらに洗練された、人間の姿をした私なのだ。
「ディアナ……君、なのか……? 一体、どうやって……」
「殿下、事情を説明している時間はありませんわ」
私はすれ違いざまに、周囲に聞こえないほどの小声で囁いた。
「今夜は、私たちが歩む未来を示すための大切な夜。どうか私を信じて、共に歩んでくださいませ」
お披露目の儀が始まることを告げる重々しい鐘の音が、城内に鳴り響いた。
もう猶予はない。
私はメイドから受け取った、細かな刺繍の施された純白のベールを頭から深くかぶった。
透け感のある生地の向こう側で、私の本当の顔はまだ誰の目にも定かには映らない。
「……行こう、ディアナ。君を信じる」
クラレンス殿下は力強く頷くと、私にそっと腕を差し出してくれた。
その温もりに支えられながら、私は開かれた大扉の向こうへと一歩を踏み出した。
謁見の間に入った瞬間、きらびやかな光と、地鳴りのようなざわめきが私たちを包み込んだ。
会場を埋め尽くす、着飾った大勢の王侯貴族たち。
彼らの視線が一斉に、ベールをかぶった私へと注がれる。
中心に、歪んだ笑みを浮かべて待ち構える一団がいた。
先に入場していたアルバート王子、ブライアン王子、そして彼らの婚約者であるファビアンとガーティー。
彼らは私がまだ化け物の姿のままだと信じ込み、私を、そしてクラレンス殿下を公衆の面前で徹底的に笑いものにしようと牙を剥いている。
私たちが中央へ進み出ると、ファビアンが待ってましたとばかりに一歩前へ出た。
彼女は扇を大袈裟に広げると、会場全体に響き渡るような高い声で高らかに言い放った。
「皆様、ご覧になって! ああ、哀れなクラレンス殿下! まさか、そんなとんでもなく醜く酷い化け物のような女を、自らのお披露目の儀に連れていらっしゃるなんて!」
ファビアンの言葉に、周囲の貴族たちが一瞬で息を呑み、不穏なざわめきが広がっていく。
「さすがファビアンお義姉様。素晴らしい眼力で悪魔を見抜かれたわ」
ガーティーが同調して囃し立てる。
アルバート王子たちは、すでに勝利を確信したような嘲笑を浮かべていた。
「さあ、そのベールを脱ぎなさいな! 皆様にその恐ろしいお顔を拝ませて差し上げたらどうかしら?」
挑発するようなファビアンの言葉を受け、私は静かに息を吸い込んだ。
ただ、目の前の真実を明らかにするために。
私は指先でベールの端を掴むと、ゆっくりと、天高く放り投げるようにしてそれを外した。
――その瞬間、謁見の間を支配したのは、ファビアンたちの嘲りではなく、水を打ったような静寂だった。
続いて、雷が落ちたかのような凄まじい歓声と、感嘆の吐息が会場を揺るがした。
「な……っ!?」
ファビアンの引きつった悲鳴が聞こえる。
ベールを脱いだ私の顔を見て、会場にいる大勢の人々は、言葉を失っていた。
そこにいたのは、彼女たちが嘲笑った「酷い女」などではなかったのだ。
「おぉ……なんと素晴らしい」
「まるで、夜空から舞い降りた女神のようだ……!」
水を打ったような静寂の直後、謁見の間は私の姿を褒め称える凄まじい歓声に包まれた。
しかし、その感嘆の声はすぐに、鋭い怒りの囁きへと変わっていく。
王侯貴族たちの冷ややかな視線が一斉に、さきほど大声を張り上げたファビアンへと突き刺さった。
「それにしても、なんという無礼な……」
「クラレンス殿下の婚約者を『化け物』などと愚弄するとは、正気を疑うぞ」
周囲からの容赦のない非難の嵐に、ファビアンの顔から血の気が引いていく。
彼女の計画では、ベールの下から醜い化け物が現れ、会場中が嘲笑に包まれるはずだったのだ。
目の前にある現実を受け入れられず、ファビアンの目は次第に血走り、理性を失って錯乱し始めた。
「ち、違うわ! 騙されないで、皆様! この女は化け物なのよ! 恐ろしい姿をした、とんでもない泥棒猫なの!」
ファビアンは髪を振り乱し、なりふり構わず私を指差した。
「アルバート殿下! ブライアン殿下! ガーティーも、あなたたちも何かおっしゃいなさい! この女の本当の姿を、皆様に暴露してやるのよ!」
助けを求められたアルバート王子とブライアン王子は、完全に青ざめて硬直していた。
しかし、二人は私を庇うでもファビアンに同調するでもなく、ただ呆然とこちらを凝視している。
その熱を帯びた視線と、周囲のひそひそ話から、二人の王子が私に見とれてしまっているのだと気づき、私は内心で冷ややかな心地がした。
自分たちが陥れようとしていた相手だということも忘れ、彼らはただ私の姿から目を離せずにいるのだ。
一方のガーティーは、ファビアンのあまりの剣幕に怯えて涙ぐむような仕草を見せ、助けを求めるように周囲を見回していた。
まるで、自分はファビアンの仲間などではなく、彼女の突然の暴走に巻き込まれただけの哀れな被害者であるかのように振る舞い、必死に保身を図っている。
当然、そんな見え透いた態度に騙される者など、ここには誰もいなかった。
「黙りなさい! この泥棒猫! 醜い化け物! 早くその化けの皮を剥ぎなさいよ!」
金切り声を上げ、口汚く私を罵り続けるファビアン。
その姿は、およそ高貴な貴族令嬢のものとは思えない、見るに耐えない醜態だった。
美しく着飾ったドレスが、彼女の心の無様さをかえって際立たせている。
その時、玉座から地を幾重にも進むような重々しい声が響き渡った。
「――そこまでにせよ」
国王陛下の低く冷徹な一言に、謁見の間が一瞬で静まり返る。
陛下は不快感を露わに眉をひそめ、厳しい眼差しでファビアンたちを見下ろしていた。
「ファビアン嬢、そしてアルバート、ブライアン。神聖なるお披露目の儀の場で、これ以上我が国の品位を貶めることは許さぬ。根拠なき妄言でクラレンスの婚約者を侮辱し、醜態を晒すとは……。お前たちの不作法、看過できん」
国王陛下の厳しいお叱りを受け、ファビアンは糸が切れた人形のようにその場にへたり込んだ。
アルバート王子たちもまた、見とれていた現実から引き戻され、あまりの屈辱に顔を真っ赤に染め、震えながらうつむくことしかできない。
集まった王侯貴族たちの冷笑と蔑みの視線が、容赦なく彼らに降り注ぐ。
企てが完全に裏目に出た彼らは、公衆の面前で、生涯消えることのない大恥をかくこととなったのだ。
私は隣に立つクラレンス殿下の温かい視線を感じながら、静かに前を見据えていた。
床に崩れ落ちていたファビアンが、乱れた髪の隙間から私を呪い殺さんばかりの恐ろしい形相で睨みつけていたことなど、その時の私は気づきもしなかった。




