第4話 王子
私は、ただひたすらに縮こまり、贅沢な調度品に囲まれた来客用の控え室で、刻一刻と迫る謁見の時間を待っていた。
その時だった。
部屋の扉がそっと開いた。
警戒して身構えた私の視界に、驚くべき人物が飛び込んできた。
「ディアナお嬢様!」
「え……っ、ニーナ!? どうしてここに……!」
驚愕のあまり、声が裏返りそうになった。
「お静かに」
そこに立っていたのは、私をいつも支えてくれていたメイドのニーナだった。
ニーナは、私を突然連れ去ったクラレンス殿下を見て、どこからか馬を拝借し、殿下の馬車を追いかけ、誰にも気づかれずにこの物々しい王城へと潜入したのだという。
見張りの隙を突いて、私がいるこの部屋に滑り込んできたのだ。
彼女がただのメイドではなく、高度な隠密の技術を持った女性だったのだと、その時まで私は知らなかった。
ニーナは、私の手を握ると、深刻な面持ちで城内の恐ろしい状況を説明し始めた。
「ディアナお嬢様、聞いてください。ディアナ様を狙う悪意があります。クラレンス殿下のお兄様である、第一王子アルバート殿下と、第二王子ブライアン殿下が、お嬢様のことを罠にかけようとしています!」
「え……?」
「この部屋には、大切な客を密かに監視するための、隠し部屋が併設されているのです」
「隠し部屋……?」
「はい。幸い、今はもうそこには誰もいませんが……。先ほどまでそこから覗き見していた城の使用人が、お嬢様の姿を見てしまいました。魔女の魔法によって、本来のお嬢様とは違う姿になっている、そのお姿を……」
ニーナは悔しそうに拳を握りしめ、言葉を続けた。
「使用人から報告を受けた兄王子お二人は、クラレンス殿下が容姿の損なわれた女性を連れてきたと確信しています。そして、そのお姿を理由に、お嬢様を盛大に笑いものにしてやろうと企んでいるのです」
ニーナの言葉に、心臓がヒヤリと冷たく凍りついた。
「それだけではありません。今宵は三兄弟が同時に、それぞれの結婚相手を父である国王陛下の前で披露することとなっているのです」
「同時に披露ですって……!?」
「はい。兄王子お二人と、その婚約者の令嬢たちも、お嬢様を笑いものにしようと手ぐすねを引いて待ち構えています」
ニーナは、真剣な眼差しで告げた。
クラレンス殿下が私を連れてくるのにああまで性急だったのも、以前からそのような儀式の予定があったからなのだろう。
「何も知らずに大喜びしている国王陛下の目の前で、お嬢様のその姿を徹底的に晒し者にし、引きずり落とすつもりです」
私は、頭の芯がカッと熱くなり、同時に冷や汗が全身から噴き出した。
国王陛下は私が絶世の美女だと信じて大歓迎する準備を進めており、一方で悪辣な兄たちとその婚約者たちは、私がそのような姿であることを知った上で、盛大な見世物にして嘲笑おうと待ち構えている。
私はこれから、クラレンス殿下の妻として、その全ての思惑が渦巻く国王陛下の前へ、この化け物の姿のまま出なければならないのだ。
王子が自らの力で探し出した妻を王族や貴族たちに紹介する儀式。それがこの国の伝統である「お披露目の儀」だ。
いかに優れた妻を連れてくるかで王子の将来が決まる。
兄弟の中で最も優れた妻を得た王子が次期国王となる習わしだ。
まだ昼間だが、豪奢な大扉の向こうからは、すでに華やかな音楽と大勢の貴族たちの談笑が漏れ聞こえていた。
しかし、今のディアナには、処刑台へ行進曲のようにしか聞こえていない。
この扉の向こうでは、今、二人の兄王子とその結婚相手たちが、ディアナとクラレンスを奈落の底へ突き落とそうと、満面の笑みで待ち構えているのだ。
第一王子アルバート。彼は幼い頃から優秀な弟であるクラレンスを激しく敵視し、その足を引っ張る機会をずっと狙っていた。
そのアルバートが、今回、生涯の伴侶として選んだのが、ファビアン・フライハート伯爵令嬢であった。
ファビアン・フライハートは、先日下町でディアナが遭遇した、あの高慢極まりない貴族令嬢その人である。
薄汚れた格好のディアナを見るや否や「この不潔な売女!」と容赦なく罵り、馬車で泥水を撥ねて去っていった、あの傲慢な女。
しかも恐ろしいことに、ファビアンはただ性格が悪いだけの女ではなかった。
彼女は下町で出会った「異様な雰囲気を持つ女」の特徴から、クラレンスが連れてこようとしている婚約者が、あの時の女ではないかとすでに目星をつけていた。
自分の推理が正しいことを確信し、ディアナを衆目の前でいたぶり尽くすために、彼女は鋭い爪を研いで待っているのだ。
この時、控え室に佇むディアナはまだ、そこにファビアンがいることなど知る由もなかった。
そしてもう一人、第二王子ブライアンの結婚相手である、ガーティー・グリモー子爵令嬢もまた、決して侮れない悪女だった。
彼女は一見、可憐で淑やかな令嬢を装っているが、その本性は極めて残酷だ。
自分より立場の弱い者を安全圏からいたぶることを至上の愉悦としており、今回はファビアンと手を組み、クラレンス殿下を嘲笑うための完璧な包囲網を敷いていた。ブライアン王子もまた、兄と一緒になって弟の失脚を楽しみにしている。
彼らの目的はただ一つ。国王陛下が「絶世の美女」と信じ込んで大歓迎の準備を進めているその目の前で、化け物の姿をした私を盛大な見世物にすること。
何も知らずに喜ぶ国王陛下と、すべてを知った上で悪意の罠を張る兄王子たち。
私はこれから、クラレンス殿下の妻として、悪意に満たされた謁見の間へ、この姿のまま出なければならない。
逃げ場のない破滅の秒読みが、静かに始まろうとしていた。
「新婦のお披露目の儀は夜から執り行われます。まだ時間はあります。……ディアナお嬢様、それまでに私がどうにかしてみせます」
ニーナは胸の前で両手をきつく握り締め、すがるような、けれど強い決意を秘めた瞳で私を見つめた。
その眼差しには、私を絶望から救い出そうとする確固たる意志の光が宿っている。
「私が戻るまで、この客間には絶対に誰も入れないでください。よろしいですね?」
深く頭を垂れて念を押すように告げると、ニーナは音もなく素早い動きで客間を飛び出していった。
静かに扉が閉まり、部屋には私一人が取り残される。
どうにかする、と彼女は言った。
けれど、この化け物の姿のまま、一体どうやってこの最悪な状況を取り繕うというのだろう。
夜になれば確実に訪れる運命を思い、拭いきれない不安が胸の中で激しく渦巻く。
しばらくして、静寂を破るように客間の扉が軽やかにノックされた。
「ディアナ様、お召し替えの時間にはまだ早いのですが、お披露目の儀にふさわしい、立派なドレスを先にお運びいたしました」
扉の向こうから聞こえてきたのは、この城に仕えるメイドの声だった。
心臓がドクリと跳ね上がる。今この姿を見られるわけにはいかない。
ニーナの言葉が頭をよぎり、私は必死に声を震わせないよう注意しながら、扉へ向かって声を張った。
「あ、ありがとう……。でも、とても緊張してしまって……。心を落ち着かせたいから、しばらく一人にしておいてくれないかしら?」
「……さようでございますか。一生に一度の大舞台ですものね。では、お召し替えの定刻になりましたら、改めてお伺いいたします。それまでごゆっくりお休みください」
幸いにもメイドは私の言葉を不審に思わず、素直に承知してくれた。遠ざかっていく足音に、私はようやく深く息を吐き出す。
しかし、与えられた猶予は心をじりじりと灼くばかりだ。
窓の外を見上げれば、太陽がゆっくりと傾き、空が琥珀色から深い群青色へと染まり始めている。
非情な時の流れが、夜という名の破滅へ向かって確実に進んでいく。
お披露目の儀の時間は、もう目の前に近づいていた。
何も知らない国王陛下。私を嘲笑い、クラレンス殿下を引きずり落とそうと牙を剥くアルバート王子たちとその婚約者たち。
ニーナはまだ戻らない。このまま夜が来れば、私はあの悪意の渦巻く謁見の間へ、この化け物の姿のまま引きずり出されることになる。
ああ、私は、一体どうなってしまうの……?
薄暗くなり始めた部屋の中、冷たくなった自分の手を強く握り締めながら、私はただ、恐怖に震えて立ち尽くすことしかできなかった。




