第3話 真実
あの日から数日が経った。
私は、あの貴族令嬢から浴びせられた冷酷な罵倒や、化け物を見るかのような視線など、とっくに心の隅へと追いやって忘れようとしていた。
他人の悪意に囚われている暇など、今の私にはない。
それよりも、目の前で飢えや病に苦しむ下町の人々を救うことの方が、遥かに重要だった。
たとえ焼け石に水の偽善に過ぎないとしても、私の心は満たされる。
「はい、これを。温かいスープよ。器が熱いから気をつけてね」
「ありがとう、お姉ちゃん……! すっごくいい匂い!」
古びた教会の軒先で、私はいつものように貧しい子供たちに食事を配り、怪我人の手当てに奔走していた。
私の姿は、あの魔女が施してくれた強力な隠蔽魔法によって、誰の目にも「酷く醜い化け物」、あるいは「悍ましい魔物」のように映っているはずだった。
「まあ、あまり無理をなさってはいけません。ほら、ここに座って脚を見せてください」
「すまねぇな、お嬢さん。あんたはいつも俺たちの泥だらけの足を嫌がりもしねぇで……」
杖をついた老人が、申し訳なさそうに顔を曇らせる。
私はそのカサカサに乾いた手を優しく包み込み、そっと微笑みかけた。
「気にしないで。私にとって、痛みに苦しむ人を放っておくことの方が、ずっと耐え難いことだわ。さあ、包帯を巻き直すから、少しだけ我慢してね」
「ああ、本当にありがてぇ。あんたは神様が遣わしてくれた天使だ」
下町の人々は私の外見を恐れず、その施しを素直に受け入れてくれた。
彼らにとって、外見の美醜など、明日の命を繋ぐことの足元にも及ばないのだ。
外見がどれほど悍ましくとも、差し伸べられる手の温もりや、心からの言葉、そして分け与えられる食べ物の価値は変わらない。
「お姉ちゃん、これあげる! さっきあっちの空き地で見つけたんだ!」
一人の小さな女の子が、泥だらけの手で一輪の小さな黄色い野花を差し出してきた。私の恐ろしい幻影の顔など、全く気にしていない純粋な瞳。
「まあ、可愛いお花……ありがとう。大切にするわね」
深く被ったボロボロのフードの隙間から、私は女の子に微笑みかけ、花を受け取って泥に汚れた手を握る。
そのときだった。
「……なんと、気高く、美しい人だ」
静かだが、ひどく澄んだ声がすぐ近くで響いた。
驚いて顔を上げると、そこには諸国遍歴の旅人のような、しかし隠しきれない気品を纏った一人の青年が立っていた。燃えるような琥珀色の瞳が、まっすぐに私を射抜いている。
私は一瞬、周囲を見回した。しかし、彼の視線は紛れもなく、この「化け物」である私に向けられていた。
「私、ですか……? 見間違いでしょう。私はこのような、見るに堪えない姿の女です。早く立ち去ってくださいませ。不愉快な思いをする前に」
私は自嘲気味に、フードをさらに深く被り直そうとした。
しかし、青年は迷いのない足取りで私に近づくと、私の泥に汚れた手を、まるで壊れやすい宝物でも扱うかのように優しく包み込んだ。
「いいえ、見間違いなどではない。私にははっきりと見える。そのフードの奥にある、あなたの真実の姿が。魔女の呪いか魔法かは知らないが……そんなもので、あなたの魂の輝きを遮ることはできない」
ハッと息を呑んだ。
彼の目は、私の醜い幻影を通り越し、魔法で隠されているはずの、私本来の姿を確かに捉えていた。
――この青年には、人の内面の美しさを見抜く、奇跡のような力が備わっていたのだ。
私の必死の慈善活動と、その奥にある心を、彼は全て見抜いていた。
「私の名はクラレンス。どうか、私の妻になってほしい。あなたのような心の持ち主こそ、我が国に、そして私の傍に必要な人だ。共に来てほしい」
「え……? つ、妻……!? お待ちください、私はただの……」
あまりに突拍子もない貴公子の求婚に、私の頭は真っ白になった。
お断りしようと必死に言葉を探したが、彼の瞳にあるのは冗談や気まぐれではない、底知れない真剣さと熱意だった。
彼の放つ圧倒的な覇気と、包み込むような優しさに気圧され、私はどうしても明確な拒絶の言葉を紡ぐことができなかった。
ずるずると断り切れないまま、事態は風が嵐に変わるかのような速さで進んでいった。
用意されていた立派な馬車に案内され、そこでようやく、私は彼の驚くべき正体を知ることになる。
彼こそは、隣国「ラースコア王国」の第三王子、クラレンス殿下その人だったのだ。
お忍びで我が国を旅していたという王子は、私を本気で妻に迎えるつもりらしく、馬車はそのまま国境を越えてラースコア王国の王都へと突き進んでいった。
私は頭が混乱して、我が身に起きている出来事を理解するのにすら長い時間を要した。
やがて、馬車はラースコア王国の王城へ到着。
私はすぐに来客用の華やかな控え室へと案内された。
部屋の美しさに反して、私の身を包むのは、あの魔女の魔法がかかったままの、人々を恐怖させる醜い姿だ。
服装も町に出るときの粗末な衣装のまま。
こんな姿で、贅沢な調度品に囲まれた部屋に一人残され、私の心は不安で押しつぶされそうになっていた。
一方その頃、クラレンス殿下は城の奥にある豪奢な謁見の間で、父である国王ホルスト陛下に私を妻に迎えるという突然の報告を行っていた。
クラレンス殿下がお忍びで旅をしていた理由は、自らの力で結婚相手を探せと父王陛下から言いつけられていたからだったのだ。
今日、ついにその目的がかなったので、一刻も早く私を紹介しようと、急いで私を連れ帰ったとのこと。
陛下はまだ私の姿を見ておらず、私が魔女の魔法で恐ろしい姿になっていることなど露ほども知らない。
それどころか、クラレンス殿下が「目が眩むほどの美しい女性を連れて帰ってきた」と家臣たちから聞いて、息子が素晴らしい絶世の美女を射止めたのだとすっかり思い込み、大喜びしていたのだ。
「おお、クラレンスよ! 旅先で目が眩むほどの美しい娘を娶る決意をしたというのか! よくやった、それほどの美女ならば我が王家の誉れ、大歓迎であるぞ! 早くその者をここに通すがよい!」
国王ホルスト陛下の高らかな歓喜の声が王城に響く。
しかし、私が身を潜める別室のすぐ外、廊下の向こうからは、クラレンス殿下の尊大な兄弟たちの嘲笑う声が直接こちらへと漏れ聞こえてきた。
彼らは、私の本当の姿を知らないまま、新しくやってきた「異国の女」を値踏みし、蔑んでいたのだ。
「おいおい、冗談だろう? 我が弟ながら、本当に目を疑うぞ」
「他国からわざわざ、外見が良いだけの貧乏人の女を拾って妻にするとはな。他に見つけられなかったのか。情けない」
壁一枚を隔てたすぐ近くから突き刺さる、兄弟たちの冷酷な侮蔑の言葉。
もし、私のこの悍ましい化け物の姿を彼らが見たら、一体どうなるだろう。
今でさえこれほど拒絶されているのに、この姿を見られたら、冷たく笑われ、徹底的に突き放されるに違いない。
美しいと誤解している彼らの前に出るのが、私は怖くてたまらなかった。
私が恥をかくだけなら構わない。
クラレンス殿下までが兄弟たちから嘲笑され、国王からは落胆されてしまう。
私はこの場を逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。




